なのに、何で仮放免が出ない?
私は2020年10月から毎週水曜日、「牛久の会」が東日本入国管理センターで行っている面会活動に同行している。パキスタン人のカリール、ベトナム人のトラン……。「収容者」との度重なる面会を通して、多くの日本人が知らない「現場」が見えてきた。

「刑務所の方がいいです」

「着てきてくれて、ありがとう!」

 パイプ椅子から飛び上がるような勢いで、柴﨑和男(67)は透明のアクリル板に両手を張り付けた。向こう側の扉から車いすで入ってきた男が灰色のトレーナーを着ていたからだ。1週間前の水曜日に柴﨑が差し入れたものらしい。トレーナーの胸には、文字らしき刺繍が見える。

 アクリル板を挟んで、男と柴﨑が向き合った。向こう側との隙間はテープできっちりと覆われ、肉声はきちんと届かない。新型コロナウイルスの感染防止のためだという。そのせいで、先方の声はくぐもり、耳を慣らすのに時間がかかる。

 私は柴﨑の横に並んで座り、やや声量を上げて、「なんて書いてあるんですか?」と尋ねた。男の口が開く。

「これ、ウルドゥ語。英語で言うと、Health is wealthとかですかね」

 その男、カリール・ムスタファ(57)の言葉は、流ちょうな、どこか北関東のなまりも感じさせる日本語だ。髭には白いものが交じっている。

 11月の第1水曜日、最高気温は17度ほど。穏やかな一日だった。茨城県うし市にある東日本入国管理センターの面会室での対話はこうやって始まった。

東日本入国管理センターの入口=茨城県牛久市(撮影:益田美樹)

「ここ、カウントダウン(収容終了の見通し)がないんですから」

 法務省の説明によると、入国管理センターは「日本から退去を強制される外国人を、送還するまでの間収容する施設」。同様の名のつく施設は国内ではもう一つ、長崎県大村市にある。カリールはこの牛久のセンターに長く収容されているパキスタン人。そして、柴﨑は収容されている者との面会活動を続ける市民団体「牛久入管収容所問題を考える会」(牛久の会)のメンバーだ。

 私は1カ月前にも牛久センターの面会室でカリールと会った。そのとき、彼は「ジャーナリストは何人も話を聞きにやって来たが、誰も書かないですよ」と言い放った。元気に歩けなくなって、かなりの月日が経つという。細い脚がそれを物語っていた。上は相撲絵のTシャツ。車いすの背もたれには、大きな茶色の紙袋が載せてあった。その日は、カリールがカシミール地方の出身であること、1987年に来日したことなどだけを聞き、面会室を出た。

 2回目の面会となったこの日、彼の表情は前回より柔らかい。笑顔で会話を始めたカリールと柴﨑の間に割り込んだ。

――前に会った時、相撲柄のTシャツを着ていましたね?

「ああ、そうでしたかね。あれも差し入れしてもらったんですよ」

 カリールの相撲好きを知って、柴﨑が選び、差し入れたものだったらしい。

「そういえば」と柴﨑が身を乗り出してきた。「前回の面会で聞いてびっくりしたよ。ボビー・フィッシャーの話。帰って調べてみたら、やっぱり日本で収容されてたみたいだね」

――ボビー・フィッシャー?

「米国人の天才チェスプレーヤーだよ。知らない? 世界一になって、奇行でも有名だった人。カリールさん、この収容所で見たんだって。ねぇ?」

 カリールが深くうなずき、こう語った。

「本当。彼、ここにいたんですよ。見たよ。同じ時に私もいたから。彼、(東京都内の)蒲田駅で捕まった。ビザも持ってたのに、日本は米国との関係で収容したんですよ。彼がここから出た時、BBC(英国の公共放送)でやっていました。ここではBBCが少し見られるんだけど、いつものように見ていたら、彼が空港でインタビューされてるの。このセンターについて、どうだった?と聞かれてた。その時に、やっぱり本物だったと分かりました」

「牛久入管収容所問題を考える会」の柴﨑和男(撮影:益田美樹)

 カリールはさらに続けた。

「北朝鮮のあの人もここにいた。あの、名前なんだったっけ、フィリピンかどこかで殺された……」

 もしかして、キム・ジョンナム? 北朝鮮の最高指導者・金正恩の異母兄、金正男は確かに20172月に海外で殺害されている。フィリピンではなく、マレーシアのクアラルンプールでのことだったが。

――その金正男に会ったんですか?

「いえ、私がここに来る前にいた、というのを聞いた。入れ違い」

――浦安の東京ディズニーランドに行こうとしてた、っていうあの時の…?

 面会室内のくぐもった声に耳も慣れ、柴﨑と私はあれこれと質問を繰り出した。カリールは相変わらず淡々とした口ぶりながら、会話を楽しんでいるようにも見える。ただ、話題が収容所内の処遇に及ぶと、カリールは再び顔をしかめた。

「ここは(国際的な基準に沿った)収容所じゃないよ。5年、6年もいる人がいるでしょ。ヤドラ―さん、刑務所(での刑期が)終わったのに、ここに連れて来られてずっといる」

 ヤドラ―とは、被収容者仲間であるイラン人だ。

「刑務所から来た人は、『刑務所の方がいいです』と言っている。ここ、カウントダウン(収容終了の見通し)がないんですから」

 職員が「30分です」と面会時間の終わりを告げに顔を出した。カリールはこちらに会釈をした後、職員に車いすを押されて、扉の向こうに消えた。車いすの背もたれには、初めて会ったときと同じ茶色の紙袋がある。「あの紙袋の中身、知っていますか」と柴﨑が話し掛けてきた。

「けがをした時のレントゲン写真とか、いろいろ入っているんです。必要な時に適切な医療を受けられなかったとか、ここで起きた納得いかない出来事の記録です。面会に毎回持ってくる。それをこちらに見せながら説明するんです。まずは、それを全部聞かなきゃと思っています。彼が、この先のことを前向きに考え始められるように」

 カリールと毎週水曜日に面会している柴﨑は、手探りで話の糸口を探している。どうやったら、彼の心に入っていけるのか。必要な支援は何か。トレーナーに刺繍されていた文字は、カリールの母国語がウルドゥ語と知った柴﨑が、自ら縫い込んだという。

「経緯? あまりにたくさんあり過ぎてとても語れない」

 面会室から出ると、受付窓口のある待合スペースが若者でにぎやかになっていた。およそ10人。千葉明徳短期大学(千葉市)で保育士になるための勉強をしている学生たちだ。「現代社会論」という授業の一部で、日本に在留している外国人について学んでいる。これを履修する学生は毎年、「牛久の会」の面会に同行することになっているという。

千葉明徳短期大学の学生、橋本海春。10人ほどの学友と一緒に面会にやってきた(撮影:益田美樹)

 学生たちは1人、または2人のグループに分かれ、「牛久の会」メンバーと一緒に面会室へ向かう。柴﨑に同行する学生は、橋本海春(20)。他の学生同様、ここに来たのは初めてだ。

 橋本は面会に訪れた人が踏む手続きを、一から教えてもらった。

 まずはテーブルで「面会許可・物品授与許可申出書」に記入する。誰に会いたいか、もしくは誰に何を差し入れたいか。それを書いて許可を願い出る用紙だ。被収容者の国籍と氏名はもちろん、申出人として自分の国籍、住所、職業、身分証明書の種類・番号なども記入する。自動発券機で受付番号票を取り、番号を呼ばれたら窓口へ。申出書を提出し、身分証明書を提示して確認を受ける。ここでいったん待機だ。

面会のための手続き書類(撮影:益田美樹)

 番号が呼ばれたら、職員の誘導で“関係者以外立ち入り禁止”の区域に入っていく。まず通されるのが、荷物を置いておくための部屋。面会室には、携帯電話、カメラなどは持ち込めないため、ロッカーに仕舞う。空港にあるような金属探知機をくぐって、面会室につながる廊下へ進む。一直線の廊下に沿って7つの扉が並んでいる。それぞれ上に、「使用中」と記された赤いランプがあり、放送局のスタジオのようだ。

 分厚い扉を開けると、そこが面会室だ。広さは4畳ぐらいだろうか。奥に長い長方形である。透明なアクリル板によって中央で仕切られ、被収容者が入室してくる扉は真正面に見える。向こう側にもこちら側にも机がある。机の幅はパイプいす3脚分でギリギリといったところ。いつもは2脚用意してある。

 柴﨑と学生の橋本に加え、私も一緒に指定された面会室に入った。3人で入る場合にいつもそうしているように、廊下からパイプいす1脚を搬入し、横一列に並んで待った。今度の面会相手は、カメルーン人男性。以前に面会したことのあった人物だ。

「こんにちは」

 庇護を求めて来日した直後に収容され2年になろうとしている彼は、日本語で少し会話ができる。しかし、意思疎通はできても、進んで境遇を語ろうとはしない。この日もそうだった。「学生です」と自己紹介した橋本には笑顔を返したが、すぐ視線を下へ向けた。空気が重い。

 英語で「日本に来た経緯を教えてくれませんか」と話しかけてみた。

「経緯? あまりにたくさんあり過ぎてとても語れない」

 また沈黙。今度は橋本が日本語で「いつもはどのように過ごしていますか」と尋ねた。彼が口を開く。日本語と英語が交じっている。

「本を読んでいます。ひらがな、カタカナ、勉強しています。テレビも見ています。子ども向けの番組。これも日本語の勉強」

 過去のことは話したくなさそうだが、現在の暮らしについての話題になると、会話は滑らかになった。体調には気を付けている、気持ちを強く持っている、と彼。最後は笑顔で語り、去った。

 待合スペースに戻った橋本は「とても緊張しました」と口にした。ここに来る前、入管施設について事前の勉強を重ねていたという。裁判を通じて世に出た、このセンターで起こった被収容者への痛々しい“制圧”映像もチェックしていた。

「ひどい事例をたくさん頭に入れていた分、面会では壮絶な話を予想してたんです。だから、意外と普通の日常会話ができたなと正直びっくりしました。当然ですけど、いろいろな人がいらっしゃるんですよね」

 保育士を目指す学生ならではの気づきもあっただろうか。

「そうですね……。保育って、個人を尊重していきましょう、その人のやりたいことを生かしてあげましょう、って考えが基本にあるんです。でも入管について知ったことは、その逆。何でだろうって」

制圧っていうものすごい人権侵害

 正午から午後1時まで、面会の受付窓口は休憩に入る。面会に訪れた人もこの時間に、待合スペースのベンチなどで昼食を済ませることが多い。この日の休憩時間には、「牛久の会」のメンバー、渡辺由美子(69)に声を掛けられた。先ほどの学生たちを運動場の見える場所に案内するという。ご一緒しませんか、というお誘いだ。

「牛久の会」メンバーの渡辺由美子(撮影:益田美樹)

 被収容者が決められた時間に運動を許可される場所。それが「運動場」だ。牛久センターのパンフレットでは「戸外運動場」と表記されている。そこを敷地外から見渡せる場所があるらしい。

 いったん門を出て人気のない公道をしばらく進む。野焼きの匂いが漂ってくるような畑の向こうに運動場が姿を現した。とはいっても、塀で囲まれており、内側は見えない。渡辺が学生たちに語りかけた。

1日に50分です。中の人たちが外で運動ができるのは。でも壁があって、上しか空いていない。これをあなたたちに分かってほしかったのよね。空港で収容された人なんて、一切、日本を見ないまま連れて来られて、ここでも空しか見えないでしょ。周りが畑とかだから、街の景色も音ないし、本当に日本だって思えないくらい隔離された感じよね。品川(東京都の東京出入国在留管理局)だとね、街中にあるし、その点違う。高いビルだから、窓から海も見えるのよ。自分の国に通じている、とか夢がある。でもここは、そんなの一切なし」

 学生たちは渡辺に向かって「お金がない人はどうしているんですか」「(被収容者は)日常品はどうやって手に入れるんですか」などと次々に尋ねていた。

 この東日本入国管理センターは、日本の敗戦から6年後の1951年に横浜で開設され、数回、名称や場所を変えた後、1993年のクリスマスイブに牛久に移転してきた。牛久ではその計画段階で、外国人に対する処遇の在り方はこれで良いのかという問題意識から建設反対運動が起こった。センターの開所後、その運動を背景に生まれたのが「牛久の会」である。常時、面会を担うメンバーは10人ほどだが、便りを出す先の通信会員は全国に100人近くいるという。

 代表を務める田中喜美子(68)の話では、収容経緯は大別すると3つ。来日した空港でそのまま収容されるケース、オーバーステイなど日本で何らかの摘発にひっかかったケース、刑務所や少年院から直接送られてくるケースだ。結果を待ちながらここに収容されている難民申請中の人もいる。いずれも事情があって強制退去に応じず、日本での暮らしを願ってセンターで先行き不透明な日々を過ごしている。

「牛久の会」代表の田中喜美子(撮影:益田美樹)

 田中は説明する。

「(延期になった2020年の)東京オリンピック前、ちょうど2016年あたりから2019年にかけて、外国人の摘発が増えました。そのころ、ここには300人以上が収容されていました。8割が6カ月以上の人。中には6年以上の人もいます。だいたい6カ月ほど収容されると、精神に異常をきたしてくる。抵抗してハンガーストライキをやり、仮放免になって外に出られるけど、すぐまた2週間で収容されるということも起きています。大村では餓死者も出ました」

 田中の言う「大村」とは、長崎県大村市にある「大村入国管理センター」を指す。田中はさらに続けた。

「コロナの影響も出ています。密を避けるため入管はどんどん仮放免を出し、このセンターにいる人は今、およそ100人。常時300人ほどいたので、3分の1ほどになっています」

 田中は1995年の会発足以来、仕事が休みだという毎週水曜日に面会活動を続けている。何よりも、被収容者の悩みに耳を傾ける。ココアなどの嗜好品や生活用品、本・新聞を毎週のように差し入れ、改善が必要だと思われる案件については、センターに申し入れもする。

「面会活動の目的ですか? 大上段の理由はないけれども、知るということは大事なことです。職員と収容されている人の間には緊張関係があり、制圧っていうものすごい人権侵害も中では行われるわけです。そうした人権侵害があっても、私たちが中の人に聞かない限り明るみにならない。私たちがそれを伝えない限り、他の誰にも分からない。そういうことかなと思います」

 私は202010月から毎週水曜日、「牛久の会」が東日本入国管理センターで行っている面会活動に同行している。度重なる面会を通して、いったい何が見えてきたのか。そこには私の知らない、そして多くの日本人も知らない「現場」があった。

「東日本入国管理センター」はこのゲートの先にある。いったん収容されると、いつ出られるか分からないという(撮影:益田美樹)

文中の敬称は省略させていただきました(つづく)

イメニが消えた
01