「自分の生き方を模索している間が青春なのである」。立花隆による11人の人物ルポ
自らも不安や悩みの放浪の旅から自己確立をした著者は、職業も種々な11人の若者たちと夜を徹し語り合う。鮮烈な人間ドキュメント!

 八年前、五人の若者がそれまでの生活を捨てて、飛驒の山中に居をかまえ、手造りの家具を造りはじめた。

 彼らは、もともと家具職人だったわけではない。一人は立教大学理学部の助手、一人は秋葉原のコンピュータ販売会社の経理係、一人は西洋料理店でコック修業中、そしてあとの二人はまだ学生だった。

 それぞれに持っていた、それなりの未来を捨てて、未知の土地での、未知の職業に賭けたのである。

全員、初歩からの手ほどきが必要なズブの素人だった

 まず技術から身につけなければならない。彼らは東京から飛驒の高山にやってきて、高等技能専門学校の木工コースに入った。高等技能専門学校というのは、要するに、職業安定所に併設されている職業訓練所のことだ。一年間失業保険金をもらいながらその学校で技術を身につけようとしたのである。

 一年で家具造りの技術を身につけようなどとはあまりにおこがましい。そんなことは絶対にできっこないと、専門学校の先生からさとされたが、彼らは死にもの狂いの努力で、その絶対に無理なことを実現してしまった。一年たっても技術が身につかなければ、失業保険が切れて、路頭に迷わなければならない。生活がかかっていたので、みな必死だった。その必死の努力が不可能を可能にしたのである。先生も生徒の気迫に押されて、授業時間を夜遅くまで延長することがよくあったという。

 正確にいうと、家具造りを習ったのは五人のうち四人で、一人は県立工芸試験場の「春慶塗り」後継者養成コースに入った。漆塗りの技術を学んだのである。それが今回登場してもらう稲本ゆたかである。

 春慶塗りは素材の木目を生かしてそれが見えるように漆を塗る技法で、飛驒高山の伝統工芸の一つとなっている。その職人が不足してきたので、漆器の問屋さんが工芸試験場に頼んで特別に開設してもらったのが後継者養成コースだった。

 これが成功をおさめ、無事に後継者を養成することができたので、工芸試験場がこのコースを閉鎖しようとしていたところに稲本がやってきたのだった。もう後継者はいらない、それによそ者に技術を教えるためのコースではないという理由で試験場は稲本を受け入れようとはしなかった。稲本はを頼ってあちこちに頼み歩き、ついに、コース終了後に地元の漆器問屋で一定期間働くことを条件に、ようやくコースを存続してもらい、そこで学ぶことに成功した。しかし、そのコースをとった生徒は稲本のほかにもう一人いたきりだったという。

 要するに、五人が五人とも、初歩からの手ほどきが必要なズブの素人だったのだ。

 それが今では、オーク・ヴィレッジの家具というと、業界では有名なブランドになっている。

 五人は技術を身につけると、高山から西へ車で二十分ばかり行ったところにある清見村の山中に、一万五千坪の土地を得て、そこに移り住み、オーク・ヴィレッジと称した。家具材にもっぱらオークを使ったからである。

 土地代は、このグループのリーダーであった、稲本裕の兄の稲本正が、東京で住んでいたマンションを千五百万円で売って都合した。事業資金としては、五人の手持ちの現金を合わせた八十万円と、五人が親類縁者にかけまわって借り集めてきた八百万円がすべてだった。

 荒地を切り拓き、住む家と工房を自らの手で造るところから仕事をはじめて七年、いまやオーク・ヴィレッジは、若き工芸家たちの集団制作の村として、その製品とライフスタイルを含めて、その名は遠く海外にまで喧伝されるようになった。

 飛驒高山から国道四一号線を西へ約七キロばかり下ったところにある清見村の牧ケ洞というところで、街道から外れて南に林道を入っていくと、ゆるやかな山の斜面の中腹に、突然瀟洒なペンション風の建物が十棟ばかり姿を見せる。そこがオーク・ヴィレッジである。

 中央部に巨大な工房(建坪百五十坪もある)があり、そのまわりに、個人住宅や、ドングリ館と呼ばれる独身者寮、セミナー・ハウス、ゲスト・ハウス、ヒツジ小屋、山小屋などが点在している。

 これらの建物もすべて彼らが手造りしたものである。食事をする食器から、自分たちが住む家まで、彼らは何もかも自分たちで作ってしまうのである。

 五人ではじまったヴィレッジの住人は三十二人にふえた。五人のうち四人は結婚して、子供たちが沢山生まれた。また、ヴィレッジのメンバーになりたいとやってきて住みつく若者たちが少なくなかった。

 生産される物も、家具だけでなく、小物の木工製品、鉄工細工品、染物、織物、籐製品などにまで広がった。自分たちの家や工房を全部作ったことでわかるように、大工としてもなみなみならぬ腕を持っているので、喫茶店をまるまる一軒内装まで含めて請け負って作ってしまうというような仕事もやってのける。

「ぼくは劣等生だったんです」

 稲本裕とはじめて会ったのも、高山市内にあるオーク・ヴィレッジが作った喫茶店の一つだった。ヴィレッジまでの道順を聞こうと思って電話したら、わかりにくい道だからと、高山まで迎えにきてくれたのである。

 飛驒の山に入って職人になった男というから、なんとなく、筋肉隆々のごつい男を頭に描いていたのだが、現実の稲本裕は、肉体的にも、精神的にも繊細な感じの男だった。

「ぼくは劣等生だったんです」

 と、口ぐせのようにいう。五時間にわたるインタビューの間に、彼は何度そういったろうか。

 客観的にみて劣等生であったかどうかはともかく、二十歳前後までの稲本が主観的に劣等感につきまとわれていたであろうことは想像に難くない。

 なにしろ、中学二年生のときに一年病気留年した上、高校受験に失敗して、故郷を離れたくらいなのだ。彼は上京して東京の私立高校に入り、そこを卒業するのだが、高校卒業後も挫折がつづく。大学受験に失敗して浪人。次の年も失敗して二浪。次の年も失敗して、ついに大学受験をあきらめたときには、二十一歳を越えていた。

 そのとき八歳上の長兄は大阪経済大学を出て病院勤めをしていたし、六歳上の次兄は、立教大学理学部を出て、そのまま大学に残り、物理学科の実験助手をしていた。この次兄がオーク・ヴィレッジのリーダーとなる稲本正である。兄弟みんなできが悪ければ、裕もそれほど劣等感に悩まされることはなかったかもしれない。しかし、いま述べたように、兄たちのできはよかった。そして、彼の家は、田舎(富山県上新川郡大沢野町)では名家だったから、子供たちのできも注目されていた。

かつて筋ジストロフィの少年が目の前にいた

 父親は開業医だった。長兄、次兄とも、医者になろうとしなかったので、父親は裕が医者になって後をついでくれることを期待していた。裕にもその気がないではなかった。子供が好きなので、小児科医なんかいいなと思ったこともある。

「あのころは、新設の医大が次々にできたころで、そういうところは、金で入ろうと思えば入れたんです。オヤジに頼めば、金も出してくれたでしょう。しかし、やっぱり、金で医大に入るという考えには抵抗があった。それに、医者の息子だったから、医者の生活の大変さをよく知っていた。うちのオヤジは、患者を検査漬け、クスリ漬けにしてボロ儲けするというタイプの医者じゃなかったから、そう生活は楽ではなかったし、急患があれば休みの日でも、夜中でも飛びださなければならず、医者がそんなにいい職業とは思えなかった。そして、浪人のころ、立教大学の学生といっしょになって、『子供たちと遊びながら児童教育を考える子供会』というサークルの活動に参加してたんですが、そこに筋ジストロフィの子供が一人いた。ところが彼は、医者から小児麻痺と診断されていた。それは誤診だったんですが、本人も、家族も、ぼくたちも、医者のいうことを信用しきっていた。小児麻痺なら、なるべく体を動かして、少しでも筋力をつけたほうがよいというので、ぼくらは一所懸命彼に体を使って遊ばせた。本人も頑張って体を動かしていた。しかし、筋ジストロフィは進行性の麻痺で、四肢から麻痺が体の中心部に向かって進行していって、やがて心臓にまで麻痺が進行したときに心臓が止まって死ぬという恐ろしい病気です。麻痺を進行させないためには、できるだけ体を動かさずジッと寝ているのが一番いい。運動すると病状をドンドン進行させることになる。ぼくらはそれを知らなかったから、彼を元気にしてやろうと思って、逆に彼の命をちぢめていたわけです。その子が小児麻痺ではなく筋ジストロフィだということがわかったときは、もう手遅れでした。結局その子は死にました。

 この経験がぼくにはショックでした。医者はこわいと思いました。ぼくらもショックだったけど、誤診した医者はぼくら以上にショックだったでしょう。金で医大に入って医者になったりしたら、そういう誤診をする医者に自分もなってしまうかもしれないと考えたら、とても医者になる気は起こりませんでした」

 彼が高校生から浪人していた頃にかけては、七〇年安保の全共闘運動全盛期の時代だった。兄と一緒のマンションに住んでいるところへ、兄の同僚、後輩がよく訪ねてきては談論風発し、それに裕もひきこまれていった。全共闘運動は、大学のあり方に対する批判と同時に、学生、教師一人一人の生き方に対する批判をもその契機として含んでいた。

「そういう議論にまき込まれて、自分でも自分の生き方を考えたりするでしょう。これでいいのかなんて。そのうちに、受験勉強はどんどんお留守になって、思想的な本を読んだり、歴史の本を読んだりして、偏差値なんか下がる一方になっていったんです。かといって、大学なんか捨てたといって開き直ることもできない。一方では、二年も浪人したんだから、今度こそどこかへ入らねばと、すごくあせる気持ちがある。それで最後の年は、ずいぶんいろんなところをすべり止めに受けにいきました。それで最後に、和光大学で試験を受けている最中だったんですが、どう考えても自分のやってることはおかしいと思ったわけです。口先では自分もいろんなことを批判してきたけど、自分がいまやっていることは、とにかくどこか大学に入って、大学卒の免状がほしいというそれだけのモチベーションでやっていることではないか。要するに、自分が批判してきた大学の権威を求めているだけのことではないかと思ったら、すごく空しい気持ちになってきたんです。

 それで、もう大学はヤメたと思ったんですが、では何をすればいいかと考えて、とにかくまず自分を表現する手段を身につけようと思ったんです。マンガが好きだったこともあって、アニメの学校に入りました。ぼくらちょうどマンガ世代といってバカにされた世代で、小さいときから手塚治虫の鉄腕アトムで育てられ、そのころは、ちばてつや、松本零士、赤塚不二夫なんかが好きだった。アニメで食えるんなら、それでやってくつもりになって、お茶の水にある二年制のアニメーターの養成所みたいなところに入りました。これはこれで面白かったんです。卒業制作で作った『鬼』という作品なんか学院長賞を受けたくらいだから、まあ、まんざら才能がなかったわけでもないと思うんです。これは地獄に堕ちた亡者の話で、鬼にさんざん痛めつけられた亡者が、これじゃたまらんというので、鬼に変装して鬼を次から次に殺していく。鬼殺しが一段落したところで、変装をとこうと思って、ニセの角を抜こうとするとどうやっても抜けない。変装用のニセの角が、鬼を殺しているうちにホンモノの角になってしまった。角だけでなく、変装が変装でなく、自分がホントの鬼になってしまったことに気付くという悲喜劇なんです」

 このアニメの主題に、稲本は自分を投影していたのだろうか。大学の権威を否定しながら大学受験に身を削るという矛盾。自分が大学に入るのは、大学の権威主義を否定するためだ、などといって自分を納得させることは、「自分は鬼になるのではない、鬼に変装するだけだ」と自分を納得させる亡者と同じだ。人は変装したつもりでも変装したものになってしまう。それを逃れるためには、一切の変装を拒否しなければならない。ありのままの自分でありつづけなければならない。だが、それは言うは易く、行なうは難い。稲本の前の道はまだまだ平坦ではない。

稲本 裕(オーク・ヴィレッジ塗師 32歳)(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01