ジブリは“腕のいい町工場”
「いつも現在進行形、面白いのは目の前のこと。」
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「仕事は公私混同/
まかせた以上は全部まかせる」
──『アニメージュ』創刊のころ──

あれは一九七八年の三月の末だったと思う。尾形さんが、ぼくをお茶に誘った。ケチで有名な人だったので、「おごるからお茶を飲みに行こう」と誘われたときには危険を感じた。予感は的中した。あんのじょう、それは、その後の人生を変える事件だった。

『アニメージュ』を五月二六日に創刊することを知ってるよなあ。……

敏夫君に、やってもらいたいんだ。

えっ、と、ぼくは絶句した。というのも、尾形さんは日本ではじめて本格的アニメーションの情報誌を創刊すべく、半年以上にわたって、ある外部プロダクションと綿密な打ち合せを行なっていたのを、ぼくは知っていたからだ。

あいつらのことか、じつは昨年、全員、クビにした。

ぼくは二度目の絶句をしたが、気持ちを静めて、こう返事をした。

そんなことをいって、だって、発売まであと二ヶ月ないですよね。

いつも、突飛な案を持ち出して、ぼくらを驚かせることで有名だった尾形さんだが、このときばかりは、ぼくも本当に仰天した。

(「公私混同の人」二〇〇四年)

『アサヒ芸能』からスタート

 ぼくが徳間書店に入社したのは一九七二年。

 最初の配属は週刊誌『アサヒ芸能』です。それまで週刊誌などほとんど読んでいなかったのですが、やってみると、これはこれでおもしろい世界でした。きちんと会って取材すること、視点を変えて考えてみること、そして早く動くこと。これはいまでも役立っている鉄則で、ずいぶん鍛えられましたね。

『アサヒ芸能』には企画班と特集班とがあり、ぼくはまず企画班で「占い」やら「漫画」やらのページを担当した。そのとき企画部長だったのが、冒頭の文章に登場する尾形英夫さん。昨年(二〇〇七年)、亡くなられたんですが、なんとも不思議な魅力をもった人でした。

 ぼくは翌年、『アサヒ芸能』別冊『コミック&コミック』の編集になって、手塚治虫、石ノ森章太郎、ジョージ秋山といった漫画家たちと親しくなります。そのあと『アサヒ芸能』特集班に移り、ほぼ毎週、特集頁(四頁で構成)を書きまくりました。記憶に残っている特集として、「暴走族と特攻隊」があります。終戦記念日にあわせて、「いま」と関連づけてみようと思い、当時話題になっていた暴走族の取材を重ねたんです。かつての海軍航空隊のうちで、その大部分が特攻隊になった時期の人と、ほとんど行かなかったその前後の時期の人といます。暴走族をどう考えるかと聞くと、見事に感想が分かれました。特攻隊の時期の人で生き残った人は「気持ちがわかる」と言い、そうではなかった時期の人はほとんどが否定する。それにしても、一度死を決意した人はすごいと思わされました。なかなか当時のことを語ってくれない。ずっと話を続けて、八時間かかってやっと思い出を語ってくれた人もいましたよ。

 暴走族の取材もおもしろかった。彼らが喫茶店を借り切って集会をやったんですが、何をやるのかと思ったら、なんとホームルーム。バイクの後ろに女の子を乗せちゃいけないとか、そうしたら女の子から反対意見が出るとか。「今日は記者さんが来ているから」とか言いながら、まじめに話し合いをしている。警察対策についても事例を挙げて検証して、「ここまでやると公務執行妨害になるから気をつけろ」とか。そんな場に立ち合わせてもらったりした。

 いろいろ解釈するまえに、ともかく現場に行ってみる。そこから見えてくるものがある。そういう感覚が身についたという意味でも、週刊誌経験は貴重でした。

たった三週間しかなかった!

 さて、一九七八年春、『アニメージュ』創刊の話。

 まずは冒頭の文章(「公私混同の人」)を訂正しておきます。お茶に誘われたのは「三月」ではなく「四月」、それも連休直前。プロダクションとケンカ別れしたのは「昨年」ではなく「昨日」。発売まで「二ヶ月」ではなく、本当は「三週間」!

 なぜ違っているか。ぼくのこの文章は尾形さんの『あの旗を撃て! アニメージュ血風録』(二〇〇四年)に載ったものですが(この本には高畑勲・宮崎駿をはじめ関係者のメッセージが寄せられていた)、簡単にいうと、尾形さんが勝手に書き換えた。こんなドタバタ状況が明かされたのでは、尾形さんもさすがにバツが悪いと思ったのか、微妙に時期をずらしたんです。ぼくに原稿を頼んでおきながら、肝心なところをだまって変えてしまう。こういうところは平気な人で、これもまた尾形さんなんです。公刊されている本を修正するいいチャンス、と思うことにしましょう。

 当時ぼくは、児童向けのテレビ雑誌『月刊テレビランド』を担当していて、『アニメージュ』は最初、『月刊テレビランド』の別冊のかたちで出発しますから、ぼくに「やってくれ」と言うのはあながち筋違いでもない。しかし別冊とはいえ、単発ではなく月刊であることをうたっていたから、事実上の創刊なんです(Vol3から「別冊」の二文字がとれて、名実ともに独立雑誌になる)。たとえ「二ヶ月」でもとんでもない話なのに、「三週間」となればむちゃくちゃを通り越してただ呆れ果てるしかない、そんなレベルのことだったのです。

 ただ、『アニメージュ』というタイトルはさすがと思いました。英語とフランス語をドッキングさせて、アニメーション・イマージュ。これを縮めたわけで、尾形さんならではの発想です。彼はネーミングの天才といっていい。高畑勲さんもあとで、これには感心したと言っていました。

「あとは、まかせる」

 そのあと、どうなったか。冒頭の文章を続けます。

その後、やって欲しい、いや、無理ですと、話が何度も往復した。なにしろ時間もなければ、人もいない。話しているうちに、ぼくはまんまと罠にはまった。いつの間にやら、やるはめに陥っていたのだ。

スタッフだけど、敏夫君の希望にそえるように努力する。ただし、編集長はオレだからな。

それまでのぼくが何をやっていたかといえば、児童向きのテレビ雑誌。アニメーションとは無縁ではなかった。だからといって、自信があるはずもなかった。なにしろ、日本初の本格的アニメーション雑誌を二ヶ月足らずで作らないといけない。

で、編集方針は何ですか?

じつはなあ、オレの息子がアニメが好きでなあ。だから、高級な本にして、アタマのいい子が読む雑誌にしてほしい。

引き受けたことを後悔したが、すでに遅かった。

尾形さんという人は、どこまでいっても、無邪気な人だった。

それ以外の編集方針は?

大特集は「宇宙戦艦ヤマト」だ。これは息子が大ファンなのでゆずれない。あとは、まかせる。

 ここの「二ヶ月」は、いま言ったように正しくは「三週間」です。

 いまなら笑って言えますが、当時は必死でしたよ。しかも発売まで三週間なので、実質の仕事期間は二週間くらいです。原稿づくりや入稿作業の時間を考えれば、取材期間は一週間しかありません。想像を絶する忙しさとは、まさにこのことでしょう。

 最初の一日は人集めと勉強。スタッフをすぐ集めなければいけません。社員で確保できたのは五人だけで、これまで関係のあったフリーの記者に頼みまわって、なんとか十数人そろえた。同時に急いで勉強です。ぼくは『月刊テレビランド』の担当だったとはいえ、やっていたのは漫画でしたから、アニメーションの知識はほとんどなかった。尾形さんが紹介してくれたアニメに詳しい女子高生を家庭教師に必死に勉強する。これもたった一日。二日目にはもう、台割(目次・誌面構成)を作らなければならない。三日目にスタッフを集めて編集会議。

 ぼくはこれまでの仕事で、いつ何をやったかというのをあまり覚えていないタイプですが、こればかりは一日単位でよく覚えている。

公私混同、そしてまかせきる

 それにしても、肝心の編集方針の説明が、「高級な本にして、アタマのいい子が読む雑誌にしてほしい」「うちの息子がな、『ヤマト』が好きだからな」というものでしたからねえ。「そうか、自分の息子のためか。うーん、会社の仕事も公私混同でやっていいんだ」と、仕事の忙しさは別にして、どこか気が楽になります。

 結果として、この言葉はヒントにもなりました。定価を五八〇円にしたのは、「高級な本」ということから浮かんだ連想です。当時はどんなに高くても五〇〇円以下でしたから、図抜けて高い定価でした。また、編集方針として、描いた人や演出した人へのインタビューをひとつの柱にしようと考えたんですが、これも尾形さんの「アタマのいい子に読んでほしい」の一言がきっかけになっている。口当たりのいい話ではなく、本当のことを語ってもらおうという狙いです。

 あらためて思うんですが、「おまえさんが作っていいよ、値段も判型も決めていいよ、中身も頼むよ」と、全部まかせるというのは、できそうでできないことです。ふつうは、そうは言っても心配する。ちょっと仕事の現場をのぞいて、「どお?」とかね。

 尾形さんは本当に、ぼくらにすべてをまかせた。ぼくらが夜中まで働いているとき、「あとを頼むな」の一言を残して、夕方には帰っちゃうんですから。

 彼は印刷直前の校了紙になるまで何も見なかった。いや校了紙さえろくに見ず、できあがった見本を読んでましたね。ここまでまかせきる編集長はそうはいない。

 ちなみに、『アニメージュ』創刊号は初刷七万部で、三日で売り切れました。

〈火付け役〉としてのすごさ

 こんなふうに言うと、なんだか口だけ達者で、何もしない人のように思えるでしょうね。でも、そうではない(前掲「公私混同の人」)

「アイディア、アイディア……」が口ぐせで、好奇心が旺盛。いろいろ誤解を受けることも多かった尾形さんだが、そのアイディアには秀逸なモノが数多くあった。この人の歴史的功績の一番は、「ナウシカを映画にしよう」と言い出したことだろう。そういう人なので、前後は考えない。みんなが、そんなのムチャだよ、と思っているとき、想像力の不足で蓋をし、やろう、やろうと言い続ける。ぼくらが実務に励みはじめると、すでに関心はよそに移っている。ほかのスタッフをつかまえて、もう、ほかのアイディアを話している。

そういう人だった。

そのときはわからなかったが、いまはわかる。ぼくの一番近くに、天才プロデューサーのお手本がいたのだ。それは火付け強盗の〈火付け役〉に似ていたが、プロデューサーにはそういう資質が必要だ。

彼が実務が苦手な人だったおかげで、ぼくらはいろんなことを学んだ。なかでも最大のモノは、仕事は公私混同でやる。これにつきる。あとは、この仕事をやってほしいと他人に頼んだら、すべてをまかせる。

 ここに出ている「ナウシカ」はいうまでもなく『風の谷のナウシカ』(以下『ナウシカ』)。この件はまたあとで話します。

 関連して思い出すのは、『アサヒ芸能』時代のエピソード。彼は自分が気に入れば、誰にでも原稿を頼んでしまう。特集頁と企画頁がそれまで七対三くらいだったはずなのに、彼が仕切っていた時代だけ比率が逆転しています。雑誌の性格がどうかなどはまったく考えず、それまでの了解事項を全部、吹き飛ばしてしまって、そしてそれが何かを生み出していく。たとえば平井和正。彼は尾形さんに「書け、書け」といわれて、小説家になったといっていいんじゃないか。ある時期、寺山修司の連載がずっとあったんだけど、これも尾形さんです。菅原文太とか、三國連太郎とか、思わぬ人と本当に親しかった。

ともかくおもしろかった

 尾形さんのエピソードをもう少ししゃべりたくなりました。エッという話が本当に多かった人なんです。

『アニメージュ』時代、ぼくといっしょにやってくれていた大事な男に、亀山修というのがいます。『ナウシカ』を映画化しようとしたときの仲間です。これはもう時効だろうからいいと思いますが、彼は当時、まだ肩書きがなく、ぼくは尾形さんに彼をちゃんと役職につけてくれ、と言った。尾形「オレもそう思ってた」。ここからが尾形さんなんですね。「肩書きは何かなあ」「ふつう主任じゃないですか」「いや、デスクにしよう」。主任からはじまって、係長があって課長があり、次長、部長がある。デスクというのは次長です。ヒラから一挙にデスク=次長というのは、会社の機構上、ありえないことです。でも彼は役員会にそう提案すると言う。

 で、役員会が終わりました。がっくりしたようすで帰ってきて、ぼくに「ダメだった」と言うんです。「何がダメだったんですか?」「次長にはできないって言うんだよ」。あたりまえです。続いて「主任にしかできないと言われた」。本来ぼくが言ったのは、彼を主任にしてくれということだったんですから、成功なんですよ。彼が自分で「次長」なんて言ってしまったために、そっちのほうに頭がいってしまっていて、彼にとっては大失敗だったわけです。実際、亀山に向かって、「悪いな」と謝ったりしたんですから。言われたほうも困ってしまいますよね。

 だいたいこの時期、スタッフの席をどう配置したと思います? なんと、彼が好きな順番なんです。好きなやつが近くで、嫌いなやつが遠くにいる。会社なのに、こんな子どもっぽいことを平気でやってのける。

 そんなことの連続でした。いろいろ混乱も起きますけど、ともかくおもしろかった。

 こんな人にはもう、二度と出会えないでしょう。この文章の末尾に、ぼくは「残念ながら、ぼくはいまだ、その領域に達していない」と書きましたが、これは本音です。ともあれ、こういう人のもとで働いたこと、それはどこかでぼくの幅をつくっていると思うのです。

 さて、この『アニメージュ』創刊に関わったことは、ぼくにとって得がたい経験だったというだけでなく、重大な転機をもたらしました。

 編集方針のひとつ、描く人・演出する人にインタビューするということで、高畑勲・宮崎駿の二人と出会うことになるからです。

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2 「つきあう以上、教養を共有したい」──高畑勲・宮崎駿との出会い──(1)

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