「イモの皮はごちそうだった」シベリア拘留を生き抜いた男の奇跡の一次資料
終わらなかった戦争を家族は生き抜いた。ある家族が繋いだ奇跡の一次資料!

第一章 佐藤家の人びと

満鉄調査部

 とうたけは一八九九(明治三二)年、福島県やままち(現在はかた市に合併)に生まれた。父はやまざきこれひと。山崎家は戦国大名・うえすぎけんしんを祖とするよねざわ藩の藩医の家系であった。惟仁は医業の傍ら、まさおかが起こした俳誌『ホトトギス』を愛読する文人でもあった。

 母は佐藤マサ。佐藤家は江戸幕府第二代将軍とくがわひでただの子息、しなまさゆきを祖とする、あい藩の藩医であった。

 マサの父、健雄の祖父である佐藤げんこうは医師で漢学者だ。玄孝は一八二三(文政六)年生まれ。江戸に出てしようへいこうに学んだ。医学のみならず広く学んだ玄孝は、明治になってからは自由民権運動にかかわる一方、私塾を開き儒学を講じた。一九〇〇(明治三三)年没。一九二〇(大正九)年、門人たちが耶麻郡はた村に顕彰碑を建てた。「佐藤玄孝先生之碑」と刻まれた筆は、生前親交のあったこうひろなか(衆議院議長などを務めた政治家)によるものだ。

 次男である健雄は一九一一(明治四四)年、母方の佐藤家の養子となった。一二歳。六年後に旧制会津中学を卒業し、東京外国語学校に進んだ。東京帝国大生の兄・やまざきこれから「これからはソ連の時代だ」とアドバイスされたのがきっかけだった。

 このころ、ロシアは激動の時代だった。革命運動が激化し、一九一七(大正六)年にロマノフ王朝が滅び、世界初の社会主義国ソビエト連邦(ソ連)が誕生した。政情は安定せず、革命勢力と反革命勢力の抗争が続いていた。一方、日本は革命に介入するかのように極東に兵を派遣した(シベリア出兵)。出兵は日本にとってほとんど利益を生まないまま、一九二二(大正一一)年に撤兵した。この間、ソ連は社会主義国としての地歩を固めていった。

 健雄はしくもこの年、ロシア語学科を卒業。故郷の家屋をしんせきに譲ってまんしゆうに渡った。母のマサも一緒だった。だいれんの南満州鉄道株式会社に入社した。「満鉄」である。満鉄は日露戦争の結果、日本がロシアから譲渡された東清鉄道の一部りよじゆんちようしゆんとその支線、じゆん炭鉱などの権益と財産を運営するために設立された。初代総裁は後藤新平。日本の国策会社であり、植民地経営の基幹であった。

 満州国は一九三二(昭和七)年、現在の中国東北部に成立した。中国最後の王朝、清のこれまた最後の皇帝だった(一九〇六~六七年)を国主としたが、日本のかいらい国家だった。当時の日本の主産業は農業だった。しかし、もともと平野が少なく耕地が少ないところに、農業従事者は過剰ぎみだった。植民地を拡大すれば、余剰労働力の問題解決に近づく。また仮想敵国・ソ連と隣接する満州は、そのソ連を監視警戒する拠点ともなり得る。

 そうした理由から、陸軍を中心とする日本の為政者たちは、満州への移民を奨励した。「日本民族、朝鮮民族、満州人、もう人、漢民族による五族協和」「王道楽土」建設のため、「日本の生命線」を守るためという政府のスローガンのもと、移民たちは満州に渡った。平時は開拓民として、有事つまり戦争の際は戦力として期待されていた。敗戦直前、満州ではおよそ一五〇万人もの日本人が暮らしていた。

 移民たちは、いざというときは日本の関東軍(日露戦争後、中国・りようとう半島南部にあった関東州と南満州鉄道の権益を保護するために設置された関東都督府が前身で、一九一九年に独立した軍)が守ってくれることを信じていた。

 満鉄には調査部があり、仮想敵国ソ連の国力を調べることが、重要な責務の一つであった。ロシア語の専門教育を受けた健雄はほどなく、そこに配属された。

 天皇を国家元首とする日本と、君主制を否定する共産主義を国是とするソ連とは水と油の関係であった。それでも、両国は一九二五(大正一四)年、日ソ基本条約を締結し国交を樹立した。健雄の語学力が生きる状況になった。

ハルピン時代

 一九二八(昭和三)年、てらとし子と結婚した。とし子は兵庫県・たつの出身。姉の出産を手伝うため大連にいた。共通の知人が健雄に紹介したことから結ばれた。ロシア研究の仕事は順調だった。二八年に刊行された満鉄庶務部調査課訳の『露領極東の資源と産業』(大阪毎日新聞社)には、翻訳者として参加している。

 満鉄は翌二九年、健雄の語学力を見込んで、キンに留学させた。中国語を習得させるためだった。同年、長男のまことが生まれた。「おすわり」ができ、よちよち歩きができるようになったころ、疫病のため早世した。

 若い夫婦の心痛は、いかばかりだっただろう。北京留学中に健雄が詠んだ句が残っている(健雄の私家集『玉椎の木霊』より)

淋しらは 卯の花くだつ 船の旅

〈長男の夭折後、まもなく漢口より上海まで雨の長江を下る〉

 一九三一(昭和六)年一月、佐藤家に新しい命が生まれた。長女・ていだ。長男を病気でなくした健雄は、語学の個人レッスンを受けていた中国人に名前の相談をした。すると「婷」の字を薦められた。「運がとどまる」という。中国風の「婷婷」ではおかしいので、「婷子」とした。

 健雄は翌年、北京から中国東北部の中核都市・ハルピンに転勤となった。

 このころ、関東軍は東北部への侵略を計画していた。三一年九月一八日、ほうてん郊外のりゆうじようで満鉄の線路が爆破された。関東軍の自作自演だったが、これを契機に侵略を進め、東北三省りようねい省・きつりん省・こくりゆうこう省)を占領した。翌三二年には前述の満州国が誕生した。

 しかし、満州の治安は不安定だった。ハルピン時代の佐藤健雄の俳句がそれを伝えている。

前衛の 騎馬隊遠し 吾亦紅

〈一週間余、ハルピン駐屯の騎馬連隊の討匪行に加わる〉

「匪」とは「ぞく」のことを指す。関東軍や満州国の治安当局などは、自分たちに敵対する集団で、ゲリラ活動や強盗などを行う集団をこう呼んだ。

 中国側の事情を考えれば、もともと自分たちのものだった土地に異民族が大量に移入してきて、自分たちの耕地を事実上強制的に接収し、生活を始めたのだから、敵意を持つのは自然だろう。関東軍は匪賊を取り締まった。佐藤健雄は満鉄の職員として、その討伐隊に参加した。治安の実情を知るためだったのだろう。

ザトン釣り 懐炉拳銃 確かと抱く

〈ザトン=ハルピンを流るゝ松花江の対岸支流、好釣場、匪賊が横行する〉

 健雄は釣りが趣味で、晩年まで楽しんでいた。ハルピンでもそうだった。晩年の釣りはのどかだったが、ハルピンでは違った。釣りに行くのにけんじゆうを、しかも民間人がそれを持たなければならないという現実から、当時の満州の実情がうかがえる。

 物騒なハルピンではあったが、佐藤家では一九三三(昭和八)年一月、次女みどりが生まれた。

 翌年、健雄は大連にまたもや転勤。幼子二人がいる家庭には、矢継ぎ早の転勤は過酷だっただろう。一九三四(昭和九)年一二月には、次男のみちひろが誕生した。

 満鉄「産業部資料室北方班」に所属していた健雄は翌年、フィンランドのヘルシンキに派遣された。「本当はソ連に行きたかった」。晩年、健雄は身内にそう話していた。フィンランドは歴史的にロシア・ソ連と縁が深くソ連研究の宝庫だった。

 日本公使館も協力した。健雄は満鉄のみならず大日本帝国の使命をおびて、ソ連研究に従事していたからだ。健雄の次男・倫弘の妻、佐藤ひろが晩年に聴き取ったところによれば、ヘルシンキの図書館に通いソ連の資源や国力を調べていた。

一九四五年、満州の生活

 二年後の一九三七(昭和一二)年、大連に帰還。同班に戻った。翌年、三女のるみ子が、四〇年には四女マリ子が生まれた。佐藤家は一男四女が元気に育ち、にぎやかな家庭となった。

 大連は、日露戦争によって日本が得た植民地だった。街の中心部は道路が放射状に延び、ロシア建築がそびえていた。佐藤家は日本人街の「やましろちよう」にあり、近くには満鉄総裁邸があった。

 満鉄は、満州における超一流企業であった。高学歴で語学力もある健雄は将来の幹部候補としてキャリアを積んでいった。経済的にも恵まれていて、自宅ではクーニヤンという、中国人少女を子守として雇っていた。

 一九四一(昭和一六)年一二月に始まった連合国との戦争では、よく知られているように緒戦こそ日本軍が連合国軍を圧倒した。アメリカの植民地だったフィリピンを占領、またイギリスが東洋の拠点としていたシンガポールも陥落させた。

 戦争を続けるためには石油を始めとする戦略物資を確保しなければならない。日本はそのために東南アジア地域にいち早く侵攻し、占領した。連戦連勝、昭和天皇が驚くほどの戦果であった。ところが、米英など連合国が態勢を建て直すにつれ、日本軍は後退を始めた。

 決定的だったのは一九四四(昭和一九)年夏、サイパンなどマリアナ諸島を米軍に占領されたことである。米軍は戦略爆撃機B29を展開させ、日本本土空襲の拠点とした。

 マリアナ陥落の時点で、日本の敗戦は決定的になった。年が明けて一九四五(昭和二〇)年二月一四日、元首相のこのふみ麿まろが天皇に上奏した。〈戦局ノ見透シニツキ考フルニ、最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリト存ゼラル〉で始まるもので、早期講和を訴えていた。

 ところが、いわゆる「一撃講和論」、つまりどこかで連合国軍をたたき、その戦果を持って講和交渉に入る、という方針を支持していた昭和天皇は近衛の提案を採用しなかった。

 上奏のおよそ一カ月後の三月一〇日、三〇〇機以上のB29が東京都東部を無差別爆撃し、一〇万人が殺された。この東京大空襲を始め、米軍による日本本土の無差別爆撃で五〇万もの人びとが虐殺された。

 近衛という宮廷政治家の言うことを聞いていれば、防ぐことができた被害である。シベリア抑留も同様だ。

 さてこのころ、日本内地では米などの主食はもちろん、魚や野菜などの副食物材も自由には手に入らなかった。政府による配給制だったが滞りがちで、特に都市部は空襲のみならず飢えにも苦しんだ。

 一方、満州では戦闘はなく、爆撃もなかった。食料事情も、日本本土よりはるかに恵まれていた。このため、一九四五年夏の敗戦間際まで、日本からの移民は続いた。

 たとえば落語家の五代目こんていしよう、六代目さんゆうていえんしようが満州に渡ったのは、一九四五年五月のことである。陸軍の依頼で結成された、芸人の慰問団の一員であった。特に同年四月、東京・ほんごうの自宅を米軍の空襲で焼かれた、志ん生の意志が強かった。好きな酒を飲めて、空襲もないと思われたからだ。

 二人は敗戦の混乱で、大連で足止めを余儀なくされた。志ん生の帰国は四七年一月、圓生は三月だった。

 悪化する戦局をよそに、大連の佐藤家では平穏な生活が続いていた。

 佐藤健雄の四女・マリ子は、一九四五(昭和二〇)年ごろの、満州での生活ぶりを回顧している。「一番古い父の記憶は、五歳のころか、書斎で露語辞典を開いている姿です。どうしてあんなに厚い本をぱっと開いて一心に読めるのか? 魔法を使っているようで、不思議でした」。穏やかな日常を思わせる情景だ。

 次女のみどりは「父が休みの日には、姉と弟と私、三人の子どもを連れて買い物に行きました。姉とおそろいの子ども服を買ってもらったり、遊園地に行ったりしたことが楽しい思い出です」と振り返る。

 また、妻のとし子はのちに、「大連の生活が夢のように思い出されます。幸福であったあのころ」と回顧している。

 ところが、満州はもはや安全地帯ではなかった。カギはソ連の出方だった。まず一九四四年の「革命記念日」、一一月七日、独裁者スターリンは「日本は侵略者だ」と演説した。さらに一二月四日、極東ウラジオストクの東北東約二八〇キロのソ連警備隊が発した電報を傍受したところ、ソ連が「敵国日本」との語を使っていることが分かった。そして翌四五年四月五日、ソ連は日ソ中立条約を延長しない旨を伝えてきた。同条約はなお一年有効だったが、その後はいつ戦争になってもおかしくない情勢だった。

 さらに四五年二月四~一一日、ソ連領クリミア半島・ヤルタでルーズベルト米大統領とチャーチル英首相、スターリンによる三者会談が開かれた。そこではドイツが降伏した二~三カ月後、ソ連が対日戦争に参加することが密約されていた。

 ドイツは三カ月後の五月に降伏した。三カ月後に日本に宣戦布告したソ連は、連合国との「約束」を忠実に守った。

第一章 佐藤家の人びと(2)

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