この本は、宇宙からの貴重な信号を追い求める熱に浮かされた、ヘッポコな物理学者の失敗の物語でもあります。想像すら困難な、巨大な宇宙のエネルギー源を探り当てたいという難問に答えを出そうともがき続けた、さして才能に恵まれない科学者の苦闘の記録でもあ…
それはいつもの土曜日の朝だった。仕事がたまっているとき、あるいは集中力が要る仕事を抱えているとき、5時過ぎには起き出して朝食までに一仕事終えるのが最近の僕の流儀だ。湯を沸かし、コーヒーをいれながら朝食の時間までに片付けるべき仕事の手順を反芻し…
血湧き肉躍る宇宙の舞台というと、多くの人はスター・ウォーズに代表されるSFの物語を思い浮かべるだろう。そこで騒乱を引き起こすのは、例えば、帝国軍と反乱軍との戦いであり、あるいは人工星デス・スターであったりする。宇宙そのものは広大で数多くの銀河…
前節で述べた騒乱的な天体は広大な宇宙に「星の数ほど」存在し、様々な波長の光を(別の言い方をすれば様々なエネルギーを持つ光子を)放射している。これらの多くは我らが地球から遠く離れており、たったひと粒の光子しか地球まで届かないものもあれば、あまり…
図2・5を見てほしい。これは前節の図2・4にある背景放射のさらに高エネルギー部分の続きを示している。図2・4では「高エネルギー」部であった108~1012eVの放射が、ここでは左端に描画されている。このγ線放射をあざ笑うかのように、1015e…
1「垓」電子ボルトものエネルギーを持つ超高エネルギー宇宙線だが、このエネルギーには終わりがないのだろうか。1021eV(10垓電子ボルト)は可能なのか? 100垓電子ボルトは?1020eVだって極端に高いエネルギーであり、そんな陽子を加速して…
この数々の困難な問題を突破できる唯一の可能性、それが素粒子「ニュートリノ」を捉えることである。ニュートリノとはいったいなんのおまじないなのであろうか。ニュートリノは、1930年に、高名な理論物理学者パウリによって最初に提唱された。「高名」とい…
問題は、その量であった。超高エネルギー宇宙の成り立ちを研究するには、このエネルギー帯で宇宙から降ってくるメッセンジャーであるニュートリノを測りたい。だが予測された数字をよくよく見ると、これは夢物語と言ってもよいものだった。少なくとも1990年…
ニュートリノをターゲットとした測定実験は無理だと諦めた僕は、違う手を考え出した。その基本線は、大学院生としての僕がやっていた実験、すなわち、高エネルギー宇宙線の中でも最もエネルギーの高いもの、すなわち1「垓」電子ボルトにも達するかという極高エ…
でかい網が肝である。1「垓」電子ボルト(1020eV)にも達するかという極限のエネルギーを持つ宇宙線はなにせ1平方キロメートルの広さに100年に1発しかこないのだ。1990年代前半に最も大きな網を持っていたのが日本のAGASA実験であった。甲…
いかにダグウェイが広大な基地であったとはいえ、僕らが考える望遠鏡網を設置するほどの広さはなかった。また日本とアメリカの国際共同実験になることを考えると、米国の軍事基地というのは場所としていかにも非現実的だった。僕は当時ほぼ顔パスで機密区域に立…
不幸は留守番電話に吹き込まれた不吉なメッセージから始まった。その日、僕はスキーに行っていた。ダグウェイの基地は軍事演習のために民間人立入禁止となっていた。当初は観測を中断させられるので抵抗していたが、結局基地では軍の言うことには逆らえない。軍…
またお前はスキーか、と言われると返す言葉はないが、始まりはスキー場だった。米コロラド州にあるアスペンスキー場はアメリカ有数のスキーリゾートだ。ここに米国物理学会が会議・宿泊施設を持っており、ここで開かれた超高エネルギー宇宙に関するシンポジウム…
IceCube 実験で狙う宇宙ニュートリノは、1兆電子ボルト(1012eV)から100兆電子ボルト(1014eV)のエネルギー領域にあるものが主に想定されていた。これには理由がある。このエネルギー領域では、2・5節で議論したように宇宙天体ニュ…
IceCube実験とはなにか。世界最大の(それも群を抜く)大きさを持つニュートリノ観測装置だ。しかもこの地球上で数ある僻地の中でも、アクセスの困難さでは最上級の部類に入る南極点に、この装置は建設された。ニュートリノを他のものと区別するには、「…
建設1年目(2004‐2005)は、IceCubeメンバーの全員が心配しながら見守っていた。南極点に派遣された人員の7割程度がドリラーと呼ばれる氷河切削に携わる人たちで、アメリカ人やスウェーデン人が主力であった。装置埋設のほうは、7人程度が派…
日本グループの旗艦プロジェクトは、超高エネルギー宇宙ニュートリノ探索だ。EHE解析と名付け、100京電子ボルト(1018eV)を中心のエネルギー領域に定め、そこからもう少し低エネルギーの領域にも触手を伸ばしていくという話を4・3節でした。図4…
EHE解析では、Aの場合をメインに、Bの場合もあり得るということを念頭に探索アルゴリズムを作っていった。そのために必要なのは、コンピューターシミュレーションである。宇宙線が大気と衝突してできる大気ミューオンと大気ニュートリノ(3・1節参照)か…
僕らがEHE解析のアルゴリズムを開発するときの合言葉は、最初はできるだけシンプルに、だった。これまでの経験から、最初はデータの理解も、氷河に埋設したDOMの性能に関する理解も不完全であろうことが予想できた。そんな状況で凝りすぎたことをやっても…
探索手法の開発に使ったのは、コンピューターシミュレーションで生成した擬似データだ。では、この擬似データが正しいという保証はあるのだろうか? 実は、これはしばしば問題となる重要なポイントだ。シミュレーションは自分たちが知っていることを、コンピュ…
図5・11が、IC‐22による2007年の観測データのコントロールサンプルの分布である。コンピューターシミュレーションで作成した擬似データの分布と大きく異なっている。水平方向(x軸で0付近)や、下から上に向かう(x軸の負の領域)の事象数が明ら…
最初のトライは、IC‐9による2006年の124日間の観測データの解析だった。天体ニュートリノや宇宙生成ニュートリノ背景放射を捕まえるにはまったく感度は足りない。しかし、たとえ9ストリングしかない小さな網であっても、実験が機能していることを示…
この挫折はもちろんEHE解析を遂行していたすべての人にとって痛手だった。特に石原さんは、研究者としてのキャリアを積むのに大切な、ポスドク時の最初の2年余りの時間の多くをこの解析に費やしていたのだ。打撃は僕なんかよりも遙かに大きいはずだ。このま…
2007年5月から2008年4月まで、IceCubeは22ストリングで観測された。IC‐22だ。完成後に86ストリングを持つIceCubeの約30%の大きさである。このデータが再試合1戦目である。間瀬さんをメイン解析者とし、僕と石原さんが脇を…
そうしてIC‐9に比べ豊富になったデータを基に経験的モデルのパラメータを決め直した。さらに標準的な大気ミューオンシミュレーションから得られた一部の情報を、経験的モデルによる擬似データ生成の部分に活かして、さらに信頼性を上げた。このあたりは、I…
このころ、EHE解析以外の他の解析結果はどうであったろうか。IceCube実験のようなニュートリノ観測の王道は、4・3節で議論したように、エネルギーの低いほうから高いほうへと攻めていって、どこかの時点で大気ニュートリノ雑音を上回って顔を出すと…
IC‐40の次のデータセットは、59ストリングからなるIC‐59である。2009年5月から約1年にわたって観測データを取得していた。IC‐40によるEHE解析の論文がフィジカルレビュー誌に掲載された2011年5月には、とっくにIC‐59データ…
時間は経ち、2012年になった。状況は好転しない。そこで決断した。千葉大グループで全部やる。EHE解析を所管するIceCubeプロジェクト内のワーキンググループの長は僕から石原さんにバトンタッチしていた。グループの長は通常自らは解析をせず、グ…
IC‐86のブラインド解除提案の審議が、プロジェクトメンバー全員が参加する電話会議で始まった。最初の会議は5月3日にあり、以後4回の会議を重ねることになる。時差の関係で日本時間の午前0時開始であった。建設を終え、全86ストリングで観測を始めた…
翌週の電話会議はさらに荒れた展開となった。マーカスを始めとするドイツグループが、コンピューターシミュレーションによる擬似データの数が不足していると指摘したのだ。EHE解析の主要な雑音は大気ミューオンである。特にエネルギーの高い宇宙線(いわゆる…
「あったよ」。石原さんが僕のオフィスに来て知らせてくれたときのことは忘れない。IC‐86による超高エネルギー宇宙ニュートリノ信号同定の網に2発の事象がかかったという知らせだった。意外にも、2発とも、「氷河シャワー」タイプ、つまりは 図5・7右…
発見を公表した後は、すぐに論文を書きしかるべき論文誌に掲載されなくてはならない。それがIceCube実験として公式な結果になる。だが、これは予想以上に難航した。国際会議発表時に噴出した三つの論点、すなわち(1)2発のニュートリノが、贋作である…
EHE解析は、その名の通り超高エネルギーニュートリノ探索に特化した解析である。1015eV(1000兆電子ボルト)以下のニュートリノ探索には感度がない。だが、バート&アーニーが1015eV域で見つかり、それよりも高いエネルギー域には宇宙ニュー…
バート&アーニーの発見につながったEHE解析であるが、本丸である、より高いエネルギーの宇宙ニュートリノ、特に宇宙生成ニュートリノは見つからなかった。1018eV(100京電子ボルト)領域における宇宙ニュートリノの情報は、1「垓」電子ボルトもの…
なんにせよ、必要なのはパワーである。とんでもないエネルギーに陽子を加速するのだから。人工の加速器がそうであるように、陽子や電子などのミクロな荷電粒子の加速に使われるのは電場と磁場である。最低限必要な磁場のエネルギーは、加速にかかる時間がエンジ…
たとえ未知の電波クエーサーやγ線バーストがあったとしても、もしそれらがエリートエンジン天体で、超高エネルギー宇宙線陽子を放射したなら、必ず宇宙生成ニュートリノは作られる。0・6「垓」電子ボルト(6×1019eV)以上なら、宇宙空間を満たしてい…
高エネルギーニュートリノ放射天体を一つでもいいから同定したい。僕だけでなく、IceCube実験に携わるメンバー皆の願いであった。背景放射の解析では、エリートエンジン天体について確かにある程度の全体像をつかむ「状況証拠」は提供した。少なくともエ…
ゴングは2014年に鳴った。高エネルギー宇宙ニュートリノ発見による怒濤の日々も終わり、主要な成果はIceCube実験による一連の論文として出版されていた。プロジェクトのクレジットはある程度確保され、これはすなわち政治的問題が解決可能になってき…
そして、第1章で書いた2017年9月23日がやってきたのだった。待ち人来るだった。すぐさま、イベントをチェックすると高エネルギーニュートリノの典型的なイベントであることが分かった。水平5・7度下方からIceCube検出器アレイ内を突っ切るミュ…
ニュートリノ信号IceCube-170922Aの先にγ線を放射して輝くブレーザーがあり、かつ通常の5倍以上もの明るさだったというのは、ただの偶然じゃないのか、本当はニュートリノとは無関係じゃないのか、という疑問に明快に答えることが最重要だと僕…
今回のニュートリノとγ線の相関の強さは、本当はまったく無関係なのに関係仮説を誤って支持する頻度が1万回観測して2回程度であるくらいのものであると結論付けられた。間違い頻度が10万回に1回くらいなら文句なしの発見なのだが、わずか1発のニュートリ…
何よりも天体をもっと同定したい。隠れている大ボスを見つけたい。そのためには、IceCube実験観測装置自体の性能を引き上げる。実験研究の道筋としては王道だ。僕らは、IceCubeをさらに大きく拡張する次世代計画を持っている。第二世代(Gene…
うまくいかないこともあれば良い成果を手中にすることもたまにはあった。だけれども、うまくいかないときのほうが圧倒的に多かった。IceCube-170922Aによって天体を同定した成果を発表する記者会見のときだったと思う。アメリカ・バージニア州ア…
吉田滋(よしだしげる)1966年大阪市生まれ。東京・横浜・札幌育ち。宇宙物理学者。千葉大学大学院理学研究院教授。千葉大学ハドロン宇宙国際研究センター長。専門は高エネルギーニュートリノ天文学、宇宙線物理学。ユタ大学高エネルギー天体物理学研究所研…
深宇宙ニュートリノの発見 宇宙の巨大なエンジンからの使者2020年4月30日初版1刷発行2020年4月24日電子書籍版発行著 者―吉田滋発行者―田邉浩司装 幀―アラン・チャン発行所―株式会社光文社東京都文京区音羽1-16-6(〒112-801…

作品ページへ戻る