その原発は幻であり、誰もサンエフとは呼んでいない
被災地を歩き、見て、考えた。あの日から10年、小説家が肉体と思考で挑む初のノンフィクション。福島のシイタケ生産業者の家に生まれ育った著者が初めて出自を語り、18歳であとにした故郷に全身で向き合った。 生者たちに、そして死者たちに取材をするために。(「群像」2021年3月号、4月号掲載)
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けれどもだんだん気をつけて見ると、そのきれいな水は、ガラスよりも水素よりもすきとおって、ときどき眼の加減か、ちらちら紫いろのこまかな波をたてたり、虹のようにぎらっと光ったりしながら、声もなくどんどん流れて行き

宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

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古川と学のバッグ。これらを背負って歩いた
古川と学のバッグ。これらを背負って歩いた

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 何かを説明するには距離が要る。とても残念なことだ。しかし、その数値データは必要なのだから、私はもちろん提出せざるをえない。あなたの知らないであろうその土地が、なになにからなんキロメートル離れています、と。こういった解説をする時には、なになにという基準点の設定がきもになる。それがまるで世界の中心に思えるから。たとえば、ある土地が、東京電力福島第一原子力発電所からなんキロメートルに位置するのですよ、と私が言ったとする。いいや、私以外の、さまざまな人たちも言ったとする。すると、福島第一原発──通称「イチエフ(1F)」──はこの世のまんなかに来る。この言い方がせんじょう的すぎるとしたら、より適度にも言い直せる。イチエフが福島県の中心地にめられてしまう、と。

 私は福島県の郡山市に生まれて、そこが自分の生地であるからを最大の根拠に、福島県のまんなかはここだ、と幼少期には考えていた。もしかしたら青年期まで。というのも、そこではばんえつとうせんと磐越西さいせんと東北本線が十字に交わる。JR郡山駅で、だ。県内の東西南北に鉄道がのびているのだから、コアだ、とは考えた。事実として福島県の商都ではあったから、このもうまいは裏打ちされた。ところで、核だ、と書いてしまった瞬間に、私は原子力発電所が〝核〟エネルギー発電所なのだという当たり前の事実にぶたれる。

 だとしたら、私たちはみな郷里ふるさとという名前の原発を抱えていることになる。心に。魂に。

 思考(あるいは思想)は、この認識から出発しなければならないのかもしれない。

 私はこれから福島県伊達市りょうぜん町の、ぐに、という土地について語ろうとしている。二〇二〇年七月二十八日と二十九日に私は二日にわたって小国を訪ねたから。だが、小国はどこそこにあって──と説明するに際して、やはり距離が要るのだ。他のやり方もある。たとえば市町村合併史を説ける、こうだ。ここは一九五五年まで独立市町村の小国村だった、その後に三つの町村と合併して霊山町となった、ふるい村域の一部は福島市にも編入された、また、霊山町も二〇〇六年には四つの町(自治体)と合併して伊達市となった、現在は、単なる町名としての霊山町が残る──さて。何が具体的に伝わったか? たぶんかなめの一点だけは言えた。小国はもともとは独立していたのだから、この土地の人間には「われわれは小国(の者)である」との帰属意識アイデンティティがある。

 しかし、その土地はどこにあるのか?

 霊山町がどこにあるか、がわかればイメージできる。伊達市がどこに、でもそこそこ見当をつけられる(かもしれない)。しかし、伊達市がたとえば北東で宮城県と接している、と誰がそこまで知るか? もちろん伊達市に居住していれば、その隣接地などに居住していれば、またはそれらが「出身地である」等したら、別だが。そうした場合は「ここにある」だの「そこにある」だの「ここにあった」だの「そこにあった」だの了解すればよい。しかし大概の人間にはそうした了解は、来ない……もたらされない。

 だから、こう言うしかないのだ。小国はイチエフから五十五キロだの六十キロだの北西に離れたところに位置する、と。

 すると私は、ごく自然に「郡山もイチエフから六十キロほど離れているな。真西に」と考える。ただし、このように比較することには過ちが含まれる。なぜならば小国は、市(伊達市)の、町(霊山町)の、そのうちの地区であって、いま私の連想した郡山とは、市だ。郡山市にはそれなりの面積がある。市域の東端と西端とでは、イチエフからのへだたりがだいぶ異なる。ゆえに私はイチエフからの距離を測るにも点を用意しなければならない。郡山駅はどうだろう? JRのその駅──という点──は、東京電力福島第一原子力発電所から、五十七キロ。

 私の実家からだとどうだろう?

 実家は郡山の市街地から西にさかる。

 六十三キロか六十四キロ。

 念のために言い添えれば、イチエフにも相当の敷地面積があるが、その条件は切り捨てた。面ではなく点と考えた。本当はもっと点と点で結べたらよい。しかし郷里ふるさとをそんなにもイチエフと結びたいとは思わない。思えない。だから私は小国のある一点と郡山のある一点とを結んでみるのだった。距離を測ってみるのだった。小国には小学校が一校だけだ、と聞いていたから、そこと、もう一点には私の出身小学校と。すると距たりは五十キロだと判明する。この瞬間に私は、ああ、おれという子供の生まれ育った土地と小国とは、五十キロの距離をあいだに挟むのだ、と知る。

 この理解は、ストン、とに入る。

 ある土地を説明するためには距離が要るわけだが、ラベルめいたものも要る。このラベルは陳腐であればあるほど、イメージの喚起力を持つ。たとえば私はこう言い切ってしまえばよいのだ。「小国は美しい里山です」と。噓ではない。中山間地のそこは、訪れた私に、二つの印象を与えた。一つめは五十キロというのは遠いなということ。こうした美しいたにあいの集落の風景は、私には未知だ。たんがあるが、それが棚田だ。棚田は、山に凹部で入る、という触感てざわりをおぼえさせる。人間の暮らしが、周囲の環境(自然環境)と凹凸を成す……つまり織り成すのを可視化する。もっと言えば人と自然がいちにょとなっている。こうした景観を私は──同じ福島県の出身者である私は──知らない、おれの生地はこんなのはぜんぜん持たないな、と思って、五十キロをひたすらな遠さと認識する。

 二つめ。私は「こうした里山の風景は、百年前と、いや、それよりも昔とも変わらないのだろうな。そんなには」と感受した。ここで私が百年という時間スケールに飛びついたのにはがある。私は三十代の前半になるまでを二十世紀のうちに生きた。だから十九世紀末というのを「百年前だ」と感覚する。そして十九世紀末=一八九八年に小国は日本の歴史にある画期エポックを刻んでいる。農業協同組合と言える信用組合をこつねんと出現させたのだ。これは日本初の農協なのだと説かれている。異論もあるらしいが、それにしても値打ちは変わらない。「困窮する農民たちに、自立を」──そう考える大人物(衆議院議員を二期務めた政治家だった。小国村出身の、名前は佐藤忠望といった)がいた、との史実は迫力である。素敵である。そうした知識が頭にあったから、私は、「こうした里山の風景は、百年前と、いや、それよりも昔とも変わらない……」と思って、しかしこの感慨をさっさとただした。もちろん百年前と現代とは違う。道はこんなふうには整っていない、整備されているはずがない、それから点在する人家の形態フォルムがまず決定的に異なる。──が、いつから? 私は歳月のスケールを二つ割りにするということを試み、つまり半世紀、つまり五十年前、それならばどうだと想い描いた。

 道路は?

 県道ならば舗装されていたか?

 うん、いただろうな。農道は無理だ。舗装はない。ない、ない。しかしこの県道、これは51号線だったか? 幅は最初からこうか? そうかもしれない。この堅牢さは、だけれども、違うだろう。

 五十年前というのは近いのかもしれない。

 遠いのかもしれない。

 山の斜面。そこに桑畑は見えたのだろうなと私は想像した。五十年前にだ。百年前にも。ここいらでは養蚕が盛んだった。かつては。だがしかし現在はそうではない。やはり変化、変遷したのだ。五十年前からでも、だ。

 五十年。ここでも私は自然に「郡山の五十年前は……」と比較する。しかも過ちがはらまれないように用心して。それは近いか、遠いか? ──近かったか、遠かったか? 検証したのだ。私にはさいわい材料があった。一九七二年二月に劇場公開された東宝配給の映画(のDVD)というのがあった。題名は『百万人の大合唱』、この映画がほぼ全篇郡山でロケされている。ほんの一部が東京・池袋で撮られている以外、郡山である。ただし主に市街地のである。封切り時期から逆算すれば、そこに映る郡山、映される郡山はほぼ五十年前の姿である。そのように断じられる。(私の)小国と(私の)郡山は、五十キロ離れる。その小国を考えるために、五十年前の(私のでもある)郡山に入る。──さあ、どのように変化、変遷した?

 愉快なことに、そうした変化、変遷は、作品にじかに謳われていた。これは二つのラベルだった。郡山という土地は「東北のシカゴから東北のウイーンへ」の惹句で表わされていた。第二次世界大戦での敗戦後、郡山は商都をめざすと同時に、人口急増から(と言えるのだろうが)暴力団抗争が頻発した。その治安の悪さは東北のシカゴというラベル=他称を得た。そんなすさんだ街が、見よ! いま音楽都市に変わる。これが新しいラベル=自称であるところの東北のウイーン、すなわち楽都、であり、『百万人の大合唱』という映画にも登場しているのだからラベルは他称でもある。史実を出すが、郡山市は二〇〇八年三月に「音楽都市宣言」をした。それ以前から、たしかに、私の記憶でも合唱の街だった。

 ということは、五十年間とはラベルからラベルへの移行である、と言える。『百万人の大合唱』の物語にれば。

 その物語はある種のおとぎばなしである。これは非難ではない。大衆映画はそうであってよいのだ。概要を一行で記す。あらゆる興行が暴力団に握られている当時の郡山で、一人の高校教師が仲間たちとともに、おどしに屈せずクリーンな「郡山市民音楽祭」を実現させた! これを、あっさり、劇的に描いた。小説家の私としては「あっさりだから劇的だった」とも評しうる。作中にはフォーク歌手の吉田拓郎が出、それは冒頭のシーンだけなのだけれども、中盤から終盤にかけては、クラシック音楽を大衆化させた指揮者・山本直純がけっこうなキーパーソンとして出る。それと山場に至る直前に新聞記者──朝日新聞の記者がモデルなのだろう──が、決まる台詞を吐く。「でも、郡山もなかなか捨てたもんじゃないな」と言うのだ。私はさすがにニヤッとしてしまった。しかし物語だの出演者だの、脚本・台詞(も物語なのだが)への言及はここまでとする。だ。

 JR郡山駅も『百万人の大合唱』には映る。

 その駅舎、ホーム。

 私は「この駅は、遠いな」と感じた。五十年前の郡山駅というのは相当に遠い、現在いまとは違いすぎると。

 しかし全篇でその、ひたすらな遠さ、を感覚したのか?

 そうではなかった。変わらないと認識できる景観にもった。それよりも重要なのは、私は、そのの内側で暮らせる、と考えた。そこに自分が生きられるとシミュレーションできたのだ。つまり「五十年前は、近いな」と私はその生活リビングの次元から実感した、と言える。ただし『百万人の大合唱』という映画(の映像)には難があった、私はそれを自覚、自戒した。郡山市内のいわゆる農村部、ひな、はそこに映らない。私は十八までそういうところにいて、そういうところと市街地とを往来した。記憶に照らして検証できない要素が残る。が、それでも思ってしまったのは事実だ。五十年前は近いし、遠い、と。体感したに等しいのだ──「ほぼ半世紀前の郡山は遠かったし、近かった」と。

 時間はそんなふうに伸び縮みする。

 距離はどうだろうか。空間の距離それは。

 ラベルについてあと少し話を続けたい。

 陳腐であればあるほど有効なのだ。強烈にイメージを結ぶのだ。だから(『百万人の大合唱』という映画の内側において、そして現実にも)往時の郡山市は東北のシカゴとなった。私は、いいや、私以外のさまざまな人たちもか、このレッテル(ラベル)貼りをいまならば笑うだろう。陳腐の極みだから。あるいは怒るだろう。本家の──アメリカはイリノイ州の──商都シカゴをなみしているから。つまりそちらを踏んづけてから郡山を踏んづけている。そちらをもこちらをも一面的に見過ぎだ、と。しかし一面的に見る、見せるからこそのラベルなのだ、とも言える。私は、そこで二〇一一年をふり返る。ただし三月十一日や、十二日以降の二〇一一年だ。福島はかつてソ連の領内であった地域と比較されるようになる。チェルノブイリである。それは必然的に、すなわち極めて真っ当な検証のためにも、そうなる。しかし、そのために、ある他称が出現しかける。それは福島の、福島県の、他称=ラベルである。もしかしたら出てしまったのかもしれない。福島は「日本のチェルノブイリ」というのだ。そしてラベルというのは一面的だから、その県土はいっさいが汚染された、と理解される。この、ここに私が挙げたラベルを、いま現在の私は笑える。当時は? いきどおった。私がここで願うのは、この私以外の、さまざまな人たちもクスッと笑ってしまうよね、ということ。いまならば、絶対にそうだよね、ということ。

 あと一つある。

 一面的に何かを見るということは全面的にそこをひといろに染めるということである。しかしまだらにされるのもきついんだよ、ということ。

 私は小国の人間ではないので、かつ二日ばかりの訪問では小国そこの代弁者にはなれないので、ただ無味乾燥にデータを挙げるしかない。たとえば二〇一一年四月二十二日に、イチエフ周辺の二十キロ圏内が住民の立ち入りの禁じられた「警戒区域」に指定された。放射性物質の累積量が高い地域は、二十キロ圏外でも「計画的避難区域」に指定された。たとえばいいたて村(の全域)がそうだった。国が、地域まるごとの避難を求めた、のだった。小国は二〇一一年六月三十日に、その八十六世帯が「特定避難勧奨地点」に指定された。局地的に放射線量の高いホットスポット、とされた。この年の晩秋、十一月二十五日にさらに四世帯が「特定避難勧奨地点」に追加指定された。国が、それら計九十世帯(の二百十五人)に対して、小国そこからの避難はしたほうがよい、しかし強制はしない、また、賠償対象にはすると言った。九十世帯というのは地区内のおおよそ二割だった。つまり残る八割は賠償対象にならなかった。指定と非指定、そして支払われるものが「ある」ことと「ない」こと。しかも放射線量は、各戸の玄関さき庭さきで測られたのだが、人は宅地にとざされて生きるのではない。生活圏というのがあって、それが中山間地の小国であれば、自然環境と凹凸を成す、するとやはり農地(および農道等)も含まれる、山林も含まれる、と、こんなことは小国そこの人間ではない私にもわかる。

 棚田を見たのだった。

 しかし九年前にあった風景のようには、二〇二〇年七月下旬に訪ねる私は、見なかったのだった。

「米作り、やめてるからね。おれもやめたから」と専業農家の渡辺栄さんは私に言った。

 説明を繰り返す。小国はイチエフから五十五キロだの六十キロだの北西に離れる。

 郡山は真西に、と私は言った。

 ここで方位という因子が前に出る。イチエフからの(原子炉建屋の水素爆発による)放射性物質は、漏出後、南東の風に乗った。南東からの風は北西に流れる。二〇一一年三月十五日の夜のことだった、だから三月十六日の未明まで続いた、と言われている。放射性雲は北西に飛んだのだ。北、西、南、東。どれも方位だ。ただ単なる方位だ。そして青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島、この六県は、東北だ。ただの方位なのに地方だ。こうした現実にはどこか呪いがある。そんなふうに思ってはならないのに、「ならないのだが、しかし。東北地方」と私は思う。

 方位、方角はクリティカルな因子だ。

 そんなふうに方位が決定的、絶対的に異なり、かつ五十キロという距離を、郷里ふるさととのひたすらな遠さを挟んだ土地で、私は自分の兄の、それから父の、名前を聞いた。この取材で初対面となる渡辺栄さんの口から。

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