欧州統合の頓挫は、同時にグローバリゼーションの危機でもある
世界が動きを止めつつある。この原稿を書いている2020年3月下旬、ヨーロッパの大都市は、次々と「ロックダウン」に入りつつある。一体いつこの危機の出口が見えるのか、現時点では予測がつかないが、抜けることのできない危機ではない。時間さえかければ、人類はこの新型コロナウィルスへの解決策を見つけるだろう。だが、出口が見えた時、一体この世界はどの程度のダメージを受けているのだろうか。これは真っ白なキャンバスに書かれる絵ではない。むしろこの危機は、世界にすでに起こりつつあった変化を、強める方向に働くのではないか――。

権威主義への曲がり角?

反グローバリゼーションに揺れるEU

岩間陽子(政策研究大学院大学教授)

 世界が動きを止めつつある。この原稿を書いている二〇二〇年三月下旬、ヨーロッパの大都市は、次々と「ロックダウン」に入りつつある。一体いつこの危機の出口が見えるのか、現時点では予測がつかないが、抜けることのできない危機ではない。時間さえかければ、人類はこの新型コロナウィルスへの解決策を見つけるだろう。だが、出口が見えた時、一体この世界はどの程度のダメージを受けているのだろうか。これは真っ白なキャンバスに書かれる絵ではない。むしろこの危機は、世界にすでに起こりつつあった変化を、強める方向に働くのではないか。それは、反グローバリゼーションという大波である。

 新型コロナウィルスは、ひとりでに入ってきたわけではない。人が運んでいるのだ。渡り鳥でも、野生動物でもなく、人が動くことによって、あっという間に世界中に広まった。この一〇年で、私たちはこれほどまでに、地球上を動き回るようになり、また、地球上のあらゆる地域が、これほどまでに中国と結びついていたのである。もちろん、ここまでの事態になったのは、ウィルス自体の特性もある。その上でなお、新型コロナウィルスは、グローバリゼーションの不都合な現実を、私たちの眼前に突き付けている。世界で最も国境を相対化することに成功していたEUは、今深刻な危機を迎えている。しかし、その危機は決して新型コロナウィルスと共に始まったわけではなく、かなり以前から静かに進行していたものであり、ここでその変化を振り返っておくことには、それなりの意味があるだろう。

壁にぶつかるEUリベラリズム

 しばらく前から、EUには逆風が吹いていた。いくつかの国で、EUに対する支持は低下し続けていたが、EUにおける政治危機が拡大するきっかけとなったのは、二〇一五年夏の難民危機であった。この夏、ベルリンの街には観光客が溢れ、ドイツは好景気に沸いていた。東西ドイツ統一から四半世紀、やっとここまで来られたかと感慨深かった。一九八九年の壁の崩壊から翌年の統一まで、お祭り騒ぎが続いたが、一九九〇年代は不景気と政治的混迷が続いた。

 シュレーダー政権頃から、徐々に雰囲気は変わってきた。正式に首都機能がボンからベルリンに移転し、失業者も底を打ち、ドイツ経済は力を取り戻した。ヨーロッパ中から仕事を求めて、人々がドイツへとやってきた。難民たちも、強い経済で難民を人道的に扱ってくれるというドイツやスウェーデンを目指していた。最初の難民の波が押し寄せてきたとき、メルケル首相は「大丈夫、私たちにはできる」と、こぶしを握ってドイツ国民を励ました。ドイツ経済は労働力を必要としている。戦禍のシリアを逃れてくる人々は、高い教育を受けた質の高い移民である。ドイツにとって、必ずプラスになる、と楽観的であった。しかし、増え続ける難民に、欧州内の雰囲気は一転した。かつて冷戦の終焉をその国境をあけることで招いたハンガリーが、最初に難民に国境を閉ざしたのは、悲しい現実であった。この後ドイツは、EU内での難民の公平な分担を求めて外交努力を続けたが、他の国から好意的反応はなかった。

 もともとEU域内では、人・物・資本・サービスの移動の自由という「四つの自由」が基本理念として掲げられていた。さらにシェンゲン協定締結諸国では国境管理も廃止され、ユーロが導入されて通貨も同じになった。「国境が消えて行く」時代を、戦後世代の西ヨーロッパ人は生きてきた。冷戦後、そこにかつての中東欧諸国をも取り込んで行った。ヨーロッパのリベラリズムが再現なく拡大し、やがては世界を覆うかのような勢いであった。しかし、欧州外から人が入り込み、EUの自由を享受し始めると、不協和音が広がり始めた。

 もともと、英仏など旧植民地宗主国には、イスラム系の移民が多く入り込んでいた。二〇〇四年マドリッドでのテロに始まり、イスラム原理主義に影響されたテロリズムが増えると、どの国でも排外主義、反イスラム主義が強まった。それだけならEUの外壁を強化すればよかったかもしれないが、EU内の結束を揺さぶったのは、リーマン・ショックと、ユーロ危機であった。一時期、ギリシャのユーロ離脱かとも言われたが、この危機をEUは持ちこたえた。最終的には南欧諸国のつけはドイツが払い、その代わり、南欧諸国はドイツの財政規律を受け入れなければならなかった。これは、ユーロ圏が真の共同体へと深化していくための道筋であるはずだった。しかし、実際には価値観の収斂が起こるのではなく、EU内が二つの方向へ引き裂かれて行った。

ハンガリーの「非リベラルな民主主義」

 EUのメンバーになることは、中東欧の旧共産主義諸国にとって、民主化の最終仕上げになるはずであった。EU加盟交渉は、国家の様々な制度について、その国がEUの基準を満たしているかをチェックしながら進められた。加盟後も、EUから多くの金と人が送り込まれ、様々な教育プログラムが準備され、次第に西欧の豊かな諸国に追いついていくはずであった。だが、東西間のギャップは予想以上に大きかった。EU単一市場は、条件の良い国には、より安価な労働力を求めて生産拠点が移って行くことを容易にした。しかし、すべての国がそのような好条件に恵まれたわけではなかった。逆に、仕事やより良い賃金を求める人々は、豊かな西欧諸国、中でもイギリスに大挙して移動した。その結果、東欧は世界で最も人口減少が激しい地域となり、特にブルガリアとルーマニアでは人口が激減した。自由貿易にも言えることだが、自由は強者の論理である。「四つの自由」の領域は、ある意味弱肉強食の世界になった。

 当初、ヨーロッパの一員となれた喜びに沸いていた中東欧であったが、いつまで経っても埋まらない格差に、幻滅感が拡がり始めた。西欧諸国から、常に二級市民扱いされることへの不快感も募って行った。「自由」は同時に責任とコストを伴うことが分かると、かつての社会主義体制へのノスタルジアが強まった。

 リーマン・ショックに続く経済危機の頃から、反EUの気運が現れ始めた。最初にそれが現れたのはハンガリーであった。ここでは二〇一〇年以来、オルバーン・ヴィクトル政権が続いている。オルバーンは、冷戦終結時のハンガリー自由化運動で重要な役割を果たし、一九八九年にはソロス財団から奨学金をもらい、オックスフォード大学に留学した。フィデス(当時は「若き民主主義者たちの同盟」の略であったが、現在は「ハンガリー市民同盟」)の設立当初からのメンバーであり、彼のリーダーシップ下、フィデスは左翼から中道へ、そして右派ナショナリスト路線へと変遷してきた。一九九八年から二〇〇二年にも首相職にあったが、野党時代を経て二〇一〇年議会選挙で五二・七三%を獲得し、三八六議席中二六三議席を押さえ、憲法改正への道を開いた。

 オルバーンの政策は、ポピュリスト政党共通に見られる左翼的な「大きな政府」で、手厚い福祉政策と、ナショナリスティックなアピールや保守的価値観の強調とを組み合わせており、自らの権限拡大と民主的コントロールの弱体化を少しずつ進めてきている。憲法改正により議会の議席は三八六から一九九へと減らされ、憲法裁判所は権限を縮小され、裁判官の定年を早められた。伝統的結婚観と家族観を強調し、ハンガリーの人口減少をなんとか逆転させるべく、様々な家族優遇政策を導入している。所得税を一律一六%にする大胆な税制改革を行い子供の数に応じて住宅ローンの免除、子供を四人以上生んだ女性は生涯所得税免除、体外受精は無償化するなど、様々な家族政策にGDPの四%(二〇一五年)を費やした。オルバーンは、二〇一四年には、ハンガリーは民主主義国家であり続けるが、「非リベラルな国家」になると述べ、その後もハンガリーのことを「非リベラルなデモクラシー」と形容し続けている。しかし、手厚い家族政策は国民には人気が高く、二〇一八年選挙でも大勝している(図1参照)。

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 外交上は、EU加盟国でありながら、トルコ、ロシア、中国に接近している。二〇一二年には東欧や南東欧と中国の協力フォーラム「161」設立に積極的に動いた。エネルギー面では従来から石油・ガスをロシアに依存しており、EUの反対にもかかわらず、ソ連製の原発が退役した後、さらに二基のロシア製原発を建設する合意を取り交わした。

 ハンガリー民族主義を強調し、周辺国に住むハンガリー系住民の権利をことあるごとに後押ししてきている。二〇一五年に難民危機が勃発すると、ハンガリーは最初にバルカン・ルートから北上してくる難民に対して国境を閉ざした。冷戦崩壊時に最初に国境を開いた国はハンガリーであったため、これは皮肉な象徴的出来事となった。今回の新型コロナ危機を受けてオルバーンは、政府に大幅な緊急事態権限を期間を定めずに与える法律を成立させ、これを問題視する欧州委員会と対立している。

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