生涯獲得賞金15億円を突破した男が語る、公営ギャンブルの内側
トップ選手に上りつめたオールドルーキー、武田豊樹の初著作!

1章 揺れ動く心

「頑張る」ことを知ってしまった北海道にある原点

 197419日、僕は北海道のオホーツク海に面したしやちようという場所に生まれました。記憶に新しい、ピヨンチヤンオリンピックで活躍した女子カーリングのおかげできたという町が有名になりましたが、斜里町は北見よりも少し北東に位置します。人口は11600人程度で、鮭の水産が主体の田舎町。冬場は氷点下25度くらいになるし、僕の子ども時代を振り返ると、人間よりも動物の数のほうが多かったような印象すらあります。

 そんな寒さの厳しい土地柄ですから、冬になると沼や湖が完全に凍って天然のスケートリンクになり、物心がついたときには僕も他の子たちと同様にスケート靴を履いていました。本州には同じ町にいくつも少年サッカーチームや少年野球チームがあるように、僕が住んでいた地域にはいくつもスケートチームがありました。僕がいたのは、「おじろスケートスポーツ少年団」。天然記念物の野鳥・オジロワシが名前の由来になっているこのチームこそが、僕のスケートの原点、いや、競輪選手としての原点です。

 北海道では、おびひろを起点にして道東はスケートが盛んで、さつぽろのほうに向かうとスキーやジャンプが盛んになります。その中心にある帯広には、1年中練習のできる整備されたスケートリンクがありました。帯広以外であれば、くしにもいいリンクがあったと記憶しています。どちらも斜里町からは車で4時間近くかかりますから、試合がある週末くらいしか行くことができません。平日は、少年団の親たちが整備してくれたとうふつの天然リンクに集まり、自前で設置したライトに照らされながら朝から晩まで滑っていました。

 ばしりからみずちようをまたぐ濤沸湖は、東京ドームが約200個入るほどの広大な湖。第一次南極観測隊が氷上寒地訓練を行ったほどの寒冷地ですが、それでも湖が凍るのはせいぜい11月から3月という限られた期間です。それ以外の時期は、屋内のスケートリンクがある釧路まで遠征するしかスピードスケートを練習する手段はないのです。僕の生まれ育った町は、決して練習環境に恵まれているとは言えませんでした。

 しかし、斜里町にはひとつ大きな武器があった。斜里町出身の世界的なスケーター・さしただしさんが少年団のコーチをしてくれていたのです。61年に全日本スピードスケート選手権のチャンピオンになった人で、世界大会でも活躍された名スケーターとして知られます。僕たち少年団は、幼いころからヨーロッパのトレーニング方法を取り入れた英才教育を受けられたということです。子どもにも手加減しない非常に厳しいコーチでしたが、最初に指導してもらったのが江刺さんだったというのは、とても幸運でした。

 僕は周囲が想像するようなスポーツ万能タイプではなく、子どものころから特別に運動神経が良かったわけでもありません。ですから、とにかく練習するしかなかった。そう考えると、親やコーチがつくってくれた厳しい環境が、努力することやあきらめないことを教えてくれた、と考えるのが正解な気がします。

 冬は朝から晩までスケート漬けの日々。夏は山道をランニングして、ローラースケートや自転車でのトレーニングをしていました。当時を振り返ると、「なぜあそこまで努力できたのかな?」と思うほどです。たった一度だけですが、練習が嫌で家出をしたこともありました。けれど、仲間たちと協力し合ってなんとか乗り切ることができた。やはり少年団が僕の原点だし、幼いころの段階でしっかりとした基本を学べたことがいまにつながっていることは事実です。

 子どものころは、北海道の雄大な景色を美しいと感じる余裕もなく、ただただスケートの練習に励みました。子どもながらに自分の高め方が身についていましたし、小学生のころにはすでに、〝あること〟を知っていました。

 それは、ひたすらに「頑張る」ということ。

 僕、武田豊樹は、あの極限の寒さのなかの猛練習で「頑張る」ということを知ってしまったのでした。

自らを犠牲にしてくれた両親

 これまでほとんど語ったことはないのですが、少しだけ家族についても触れておきます。僕の父は公務員で、斜里町役場の建設部建設課で働いていました。とにかく僕のスケートに対してはスパルタな方針を持つ父で、週末の遠征にはほぼ確実に同行していました。休みの日に一緒に遊んでくれるような父ではないし、優しく見守ってくれるような父でもない。いわば、苦しいことをやらされる「怖い指導者」という存在でした。

 僕には、家族でどこかへ旅行に出かけたというような普通の家族らしい思い出がまったくないのです。もちろんいまとなっては、厳しく育ててくれた父に心から感謝していますが、多感な時期にその思いをうまく伝えることはできなかった。そんなジレンマもあり、小学生、中学生と父のもとでスピードスケートに打ち込んでいた時代は、父の高い要求に応えられない自分にもどかしさを感じていました。

 一方の母は、スピードスケートに厳しい父と僕のかんしよう材的な役割をしてくれていました。母はいたって普通の主婦で、僕が強制的にトレーニングをさせられているのをかわいそうに思っていた節もありました。父に甘えられないぶん、母には素直に甘え、ときにはわがままを言っていたかもしれません。でも、そんな僕のわがままをすべて聞いてくれる優しい人だった。母は僕のスピードスケートの費用を捻出するため、測量会社に働きに出てくれていました。ふたつ上の姉もスピードスケートをやっていましたから、とにかくお金が必要だったのです。

 僕とちがって勉強家だった姉は中学でスピードスケートをあっさりやめましたが、僕のぶんだけでも十分過ぎるほど家計に負担がかかっていたことは想像するに難しくありません。姉と正反対な僕は、学校の勉強を得意としなかったので、ひたすら競技を続けるしか道はなかったのです。

 寮生活をしていた高校時代のある日のことでした。記憶はどこかおぼろげですが、おそらくお盆かお正月で実家に戻っていたのだと思います。なにげなく机の引き出しを開けた瞬間、家計簿が入っているのを見つけてしまったことがありました。そこには家計費以外に僕のスケート専用の帳簿があって、月に10万円、20万円どころのレベルじゃない金額がびっしりと記帳されているではありませんか。その金額を見たときはかつてないほどの衝撃を受けました。それまでは、「新しいジャージがほしい」「靴がほしい」と言えば買ってもらえるものだと思っていた。でも、自分がいかにわがままだったかを知り、ひどく落ち込んだものです。大学に進学するより実業団に進もうと決意したのも、そのときでした。

 公務員の家庭ですし、普通の生活をするだけならたいして困らなかったことでしょう。でも、僕のスピードスケートが家計を圧迫していたのはプロスポーツ選手になったいまだからこそよく理解することができます。僕はスピードスケートの世界大会にも出ていましたし、遠征費をはじめとして道を極めていくにはものすごくお金がかかるのです。僕ひとりのせいで両親の人生はそうとう変わってしまった面があると思うと、複雑な気持ちになることが何度もありました。

スピードスケート部か自転車部か、で揺れる

 子どものころから自転車のトレーニングが好きでした。

 最初は、少年団の江刺コーチにトレーニング方法を教えてもらい、すぐにロードレースの大会にも出るようになりました。よく覚えているのは、スピードスケートが仕事で自転車が息抜きのように感じるくらい、自転車の練習にはまるでストレスがなかったこと。

 中学生になると、自転車を専門でやっている選手たちよりも断然強くなっていて、18歳以下のロードレースの大会に出ても優勝するのがあたりまえになっていました。小学生のころは、ツール・ド・フランスの中継があるとテレビの前にくぎづけに。『サイクルスポーツ』や『バイシクルクラブ』といった自転車雑誌は、中学生のころから今日にいたるまでずっと買い続けています。自転車が好きな気持ちは、あの時代からまったく変わっていないようです。

 競輪に興味を持ったのは中学生のころ。スポーツ新聞に競輪の賞金ランキングトップ100が掲載される日が楽しみで、記事を切り抜いてはノートに貼っていた記憶があります。そんなマニアのようなことをしているくらいですから、当時の有名選手の名前はみんな知っていました。自宅で競輪中継が観られるわけではないのに、新聞の文字だけを見て頭のなかでレースを妄想していたというわけです。いまとなっては、我ながら本当に変わった子どもだったと実感します。

 日に日にスケートよりも自転車への思いは強くなっていきました。ですから高校は、スケート推薦ではなく、自転車競技部の強い学法いしかわ高校(やまざきよしひと君[福島88期]やとうしんろう君[福島78期]ら競輪の名選手を輩出している名門)か、はこだておおたに高校に行きたくて仕方なかった。現に僕のところには両校のスカウトもきていました。そこで思い切って両親に、「競輪選手になりたい」と言ってみたのです。しかし、家の近くには競輪場もなく、両親にとって競輪は〝ギャンブルのかたまり〟のようなイメージ。父は公務員という堅い職業ですから理解するのも難しかったはずですし、そんな世界を目指すことはとうてい受け入れるわけにはいかなかったのでしょう。にべもなく、反対されてしまいました。

 なによりも両親は、僕をスピードスケートでオリンピックに行かせたいという思いが強かった。その熱意に勝てるほど、当時の僕はまだ自転車に対して本気ではなかったのかもしれません。

 自転車のロードレースはオープンで華やかな世界に見えていましたが、どこか競輪には、「行ってはいけない場所」「怖い場所」のような漠然としたイメージが自分のなかにあったのも事実です。結局、親にすすめられるままに、釧路短期大学附属高校(現・しゆうかん高校)へと進学することになったのです。

学生時代を支えてくれた親友・高橋慶樹

 たかはしけいじゆという同級生がいます。彼とは、幼稚園から高校までの15年をずっと一緒に過ごしました。少年団時代から練習パートナーでもあり、ライバルでもあり、大人になったいまでもよき親友。彼の父親もスピードスケートには熱心で、僕と慶樹が出る大会では必ず僕の父と一緒に応援席にいました。小さな町で同じ志を持った者同士。慶樹の家族とは、まさに身内も同然でした。

 高校進学の際、自転車部の推薦での進学をあきらめた僕は、スケートで行くのならしらかば学園高校を希望していました。白樺学園高校は清水宏保君も通った伝統校で、北海道内の高校スケート界では、白樺学園高校と釧路短期大学附属高校がライバル関係にあった。それでも部員数や規模が全然ちがいましたし、「スピードスケートのエリート路線に進むのなら白樺学園高校だな」と内心では思っていました。しかし、「規模が大きな伝統校に進むよりも信用できる指導者にじっくり育ててもらいたい」というのが、僕と慶樹の両親が話し合って出した結論だったのです。

 進学先も本当にやりたいことも選ばせてもらえなかった僕は、親が敷いたレールを進むことに少しモヤモヤした感情がありました。寮生活をしなければならないということもあり、親元を離れるのもはじめての経験でしたから、正直なところ最初はあまり釧路に行きたくなかった。そして、高校1年生の1年間は、人生で12を争う苦しい時間を過ごすことになるのです。

 これまで経験したことのない寮生活にハードな練習、そして、理不尽な上下関係と無意味なしごき……。朝の体操は強制的に円の中心に入らされ、怖い先輩たちにグルッと囲まれた状態で体操の指揮をとらされます。それが、釧路短期大学附属高校スピードスケート部の1日のはじまり。そんな環境で、なんと1年生は僕と慶樹のたったふたりだったのです。1日のきつい練習が終わって寮に帰れば、掃除や洗いものといった雑用もすべて最下級生の仕事。朝起きてから寝るまで、まったく気が休まる瞬間がありません。ただでさえ親元を出てメンタルもうまく保てていないところに、覚えることと耐えることばかり。こと、上下関係に関しては、スケート界は本当に厳しかった。その厳しさは、競輪界の比ではありません。この1年間に比べたら、競輪学校の厳しさがかわいらしく思えるほどでした。

 ただひとつの救いは、慶樹が一緒だったこと。彼がいなければ間違いなくやめていたところでした。当時の僕は、アスリートっぽく性格がきつくてガツガツしているタイプ。一方の慶樹は、頭脳派で包容力がありましたから僕の性格をよくわかったうえで付き合ってくれていたのでしょう。振り返れば、彼に負担をかけてしまったことも多かったはずです。本当に苦しい時期に、自分の理解者がそばにいてくれるかどうかは、人生において重要なことではないでしょうか。

 思えば、スピードスケートの関係で修学旅行にすら行かせてもらえず、寮生活と練習の厳しさで女の子と付き合うこともできない。僕と慶樹の10代は、まったく青春らしさとは無縁でした。

 それでもあまり人をうらやむことはなかった。きっと練習がきつ過ぎて、人と比べている余裕すらなかったのでしょう。

第1章 揺れ動く心(2)

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