「演歌」をめぐる謎を解き明かす それは「日本の心」か?「艶歌」とは何か?
「目からウロコ」「衝撃的」「出色」と各界から絶賛の嵐! 2011年度サントリー学芸賞受賞(芸術・文学部門)。

第一部 レコード歌謡の歴史と明治・大正期の「演歌」

第一章 近代日本大衆音楽史を三つに分ける

*まずは「レコード歌謡以前/以後」という区分

 手始めに、近代日本の大衆音楽の歴史をごくおおざつに区分しておきましょう。そのことは、明治・大正期の「演歌」と、現在同じ言葉で呼ばれている音楽の質的な違いを明らかにする上で、不可欠な作業です。

 近代日本の大衆音楽史は、昭和の始まりを境に、「レコード歌謡以前/以後」として二分することができます(必ずしも「レコード以前/以降」ではありません)。

「レコード歌謡以前」については「以後」との関連で立ち戻ることとし、「レコード歌謡」とは何かといえば、「複製メディアを通じて商品として大規模に流通・消費されることを前提として企業によって制作される娯楽的な歌謡」であるといえます。つまりパッケージされた商品として企画・制作される音楽、日本製のものであれば「流行歌」「歌謡曲」「ニューミュージック」「JPOP」などといわれてきたもので、現在の意味での「演歌」ももちろんそこに含まれます。

「流行歌」や「歌謡曲」にせよ「JPOP」にせよ、漠然とではあれ一定のニュアンスを帯びている言葉であるため、本書ではあえて「レコード歌謡」という人工的な用語を用いることとします。

 また、「レコード歌謡」は、大衆的な音楽行動において重要な位置を占めてはいるものの、その全体を網羅するものではないため、「大衆音楽」や「ポピュラー音楽」という言葉とは区別します。

 現代日本の大多数の人々の音楽生活が、パッケージされた音楽商品としてのレコード歌謡の消費を中心に営まれていることはいうまでもありません。レコードとは音楽を録音したものであり、またレコードに録音されたものこそを音楽とみなす感覚は、少なくとも現在のわれわれにとって常識に近いものでしょう。それゆえに「レコードを前提としない音楽文化」を具体的に想像することは困難でさえあるのですが、ともあれ、そのような「音楽」と「レコード」が不可分に結びついた大衆的な娯楽商品としての「レコード歌謡」の誕生をもって、歴史的な画期とすることに異論はないでしょう。

 さらに、本書の主題であるレコード歌謡の一ジャンルとしての「演歌」の位置付けを際立たせるために、昭和以降のレコード歌謡史を三つに区分します。

 昭和初期から昭和三〇年代までの「レコード会社専属制度の時代」と、昭和三〇年代から昭和の終わりごろまでの「非専属職業作家の時代」と、平成に入ってからの「JPOPの時代」です。そのそれぞれを見ていきましょう。

第一期 レコード会社専属制度の時代

*流行歌と歌謡曲

 日本のレコード歌謡は昭和とともに誕生しました。コロムビア、ビクター、ポリドールといった外資系レコード会社が、発明されたばかりの電気録音を携えて日本に上陸し、既存の国内の中小レコード会社を吸収して、全国的な系列化をすすめたことがその最大の要因です。

 それまで西洋音楽レコードは外国盤の輸入に依存しており、また日本制作盤は基本的に、寄席や芝居、映画、大道といった、別の文脈で人気があった演目を録音するものでした。

 レコード会社は少数生産の地場産業的な性格も強く、現在の意味での「音楽」に限らず、浪曲などの「語り物」をはじめとする雑多な「音文化」が記録(語義通り「レコード」)されてきたのですが、このときから、すでっているもの、知られているものを後追いで録音・記録するだけではなく、新しい音楽を流行らせるために会社が独占的に企画・制作し、全国的に販売するものになったのです。

 外資系レコード会社が制作する新作歌謡のひながたは、「ジャズ・ソング」と呼ばれたアメリカのレコード歌謡でした。外資系レコード会社初のヒットは、昭和三年の《青空》や《アラビヤの唄》といったアメリカ曲の日本語版で、その形式と曲調を模した昭和四年の《君恋し》が国産楽曲初のヒットとなりました。

 つまり日本のレコード歌謡は、資本・録音技術・レパートリーのいずれにおいても、「舶来」のイメージを強く持ったモダン文化として誕生したといえます。

 例えば現在「演歌」の典型にして精髄とみなされる古賀政男の一連の楽曲も、「ラテン風」「南欧風」と見られていました。

 明治大学マンドリンクラブ出身でクラシックギター演奏に秀でた古賀の音楽的素養は、音楽学校出身者の西洋芸術音楽の教養とは異なるものの、プチ・ブルジョア青年層のカジュアルな舶来趣味と合致しています。

 いまでは「演歌」の典型的なサウンドとみなされる《影を慕いて》などに特徴的なギター奏法も、開放弦を活用しながらベース音と和音と旋律を同時に演奏するクラシックギターの技術に基づくもので、当時はギターやマンドリンの響き自体がモダンなものでした。

 初期の「古賀メロディー」を歌った歌手の藤山一郎も、幼稚舎から慶應で、大学は「上野」(東京音楽学校。現・東京芸術大学)というモダン・ボーイで、その歌唱は完全に西洋芸術音楽の声楽技術に基づいています。

 こうした新作歌謡のレコードの盤面やカタログには、「流行歌」という新しい呼称が用いられました。続いて、主に放送用語として「歌謡曲」の呼称も用いられるようになります。近年、「流行歌」と「歌謡曲」を時代的に区別する傾向が一部で見られますが、歴史的に言えば、昭和一〇年頃からは「流行歌」と「歌謡曲」という呼称が並存していたと考えてさしあたり問題ありません。

*専属制度と「ティン・パン・アレー方式」の違い

 この時期の最大の特徴はレコード会社専属制度です。歌手はもとより、作詞・作曲家、演奏者に至るまでレコード会社と専属契約を結びました。販売店に関しても特約店制度がとられ、楽曲の企画から録音、販売に至るまで、レコード会社の丸抱えだったわけです。

 レコード会社の文芸部所属の社員ディレクターが企画を立て、作詞家によって定型的な歌詞が先に作られ、作曲家によって旋律と簡単なハーモニーが付され、オーケストラ伴奏にあわせて専属歌手が歌うという分業が基本となりました。

 外資系レコード会社の草創期には、音楽学校出身者、浅草オペラ・レビュー・ダンスホールなどのステージ出身者(とりわけ大学生のアマチュア・バンド出身者)が歌手や作曲家・演奏家に転じ、また芸妓から歌手への転向もありましたが、専属制度の成立以降、歌手になるのは作曲家の「門下生」(多くは内弟子やかばん持ち出身)に限られ、歌手は「先生」である作家から曲を「いただく」という徒弟制度的な関係が基本となりました。一曲一歌手の「持ち歌」が原則で、他社の作家の曲はもちろん、同社内であっても他の「門下」の曲を歌うことは禁忌タブーでした。

 専属制度は、当時のアメリカの音楽産業を特徴付ける「ティン・パン・アレー方式」と呼ばれる分業による効率的なヒット曲生産を、著作権意識や音楽家の職業的な基盤が稀薄で、そもそも人材自体が乏しい日本において実現するために成立したものと考えられます。

 ティン・パン・アレーの分業制度は、職業的な作詞・作曲家が音楽出版社と契約を結び楽曲を委託し、レコード会社が音楽出版社に使用料を払って録音するというもので、エージェントである音楽出版社が非常に重要な役割を占めていました(そもそも「ティン・パン・アレー」とは音楽出版社が軒を並べるニューヨークの通りの名称です)。

 しかし、日本の専属制度は、レコード会社がエージェントを兼ねるため、利益はレコード会社が一元的に掌握し、専属契約を結んだ作家・歌手・演奏者の報酬は、会社内における「格」や師弟関係に応じて分配されました。一枚あたりの印税契約ではないケースも珍しくなかったようです。

 ティン・パン・アレーの場合、楽曲の権利を管理するエージェントにしかるべき金額を払えば各レコード会社が自由に録音でき、それが様々な歌手と様々な編曲によって歌われ演奏されるスタンダード・ナンバーを生み出す条件となったのですが、専属制度ではレコード会社の独占的な楽曲管理と作家と歌手の師弟関係に基づく「持ち歌」の慣行によって、その可能性はあらかじめ排除されました。

 ティン・パン・アレーは、楽曲の形式(一曲三分から五分の長さ、AABA形式、機能的で洗練された和声進行に基づく流麗な旋律)や歌詞の主題(中産階級的な恋愛や家庭生活の礼賛)の平準化をもたらしました。ドイツの哲学者・社会学者のアドルノは、当時のジャズ音楽の「規格化」を激しく非難しています。

 それと同様に、日本の専属制度においても、歌詞の主題(恋愛や結婚を含む都市中間層の生活、カフェーや花柳界での色恋、地方への旅情、江戸時代の股旅やくざ、その現代版としてのマドロスものなど)、旋律の動き(ヨナ抜き五音音階)、伴奏の響き(ジャズのフルバンドを基調にした編成、一定のリズム、旋律に寄り添う比較的単純なオーケストレーション)に規格化された特徴を与えることになりました。

*ヒット曲と映画の結びつき

 流通・消費について言えば、この時期は蓄音機やレコードは高級品であり、流行のレコードを頻繁に買って自宅で聴くような聴き方は一般的ではありませんでした。

 この時期のレコード歌謡の流行において、何より重要だったのは映画というメディアです。レコード歌謡と映画の内在的な結びつきは、国産ヒット第一号《君恋し》の直後にヒットした《東京行進曲》の例から明らかです。

 この曲は、当時圧倒的な人気を誇った講談社の「国民雑誌」である『キング』に連載されていた菊池寛の同名小説の映画化に際して、その主題歌として日活の宣伝部長から依頼されて作られた、最初の「映画小唄」です。また、その人気も、日活社員がカフェーやバーで見本盤をばらまいたことによって火がついたといいます。

 流行った歌が映画になる例は、大正期の《船頭小唄》や《籠の鳥》をはじめ決して珍しいものではなく、前述の《青空》《アラビヤの歌》《君恋し》も映画化されています。

 しかし、人気の出た歌が映画化される(「小唄映画」)のではなく、映画の宣伝のために新曲が作られるという形での映画とレコードの「タイアップ」は、《東京行進曲》が日本初です。

 その後、多くのヒット曲が映画から生まれ、また、大ヒット曲はほとんど例外なく映画化されることになります。多くの人々にとって、流行歌・歌謡曲とは、映画の中で歌われ、あるいは映画館の幕間に流される音楽として聴かれていたと想像されます。

 当時の新メディアということでいえば、ラジオとレコード歌謡の相性は必ずしも良好ではありませんでした。

 昭和四年六月一五日にラジオ放送が予定されていた二村定一による《東京行進曲》(「ジャズ独唱」と分類されています)は、歌詞が「不穏当」であるとして監督官庁の東京逓信局によって前日に中止させられています。

 昭和一一年に日本放送協会委嘱の新作歌曲を放送する番組、『国民歌謡』が開始されますが、これは不道徳かつ俗悪なレコード歌謡(流行歌)に対抗して、健全で家庭的かつ芸術的に格調の高い音楽を、放送を通じて普及させようとする意図もありました(この流れは戦後になっても『ラジオ歌謡』から『みんなのうた』へ引き継がれ、民放でも『クレハ・ホームソング』など同種の番組が制作されることになります)。

 そもそも「歌謡曲」という呼称自体、レコード歌謡を放送するにあたって「流行歌」の卑俗な含意を嫌った日本放送協会が使い始めたものです。このことも、放送とレコード会社の微妙な関係を示しています。

 つまり、レコード歌謡とはまずもって、映画館をはじめ、戦前であればカフェー、戦後であれば酒場やパチンコ屋といった「盛り場」に流れる音楽であり、放送開始当初のラジオ放送範囲と受信機の価格からすれば、都市の中流以上の家庭に向けられたラジオとはやや異なる性格をもっていたといえそうです。

 そして、レコード会社が作る歌謡は、健全で家庭的な雰囲気とは相容れない不道徳なものであるという観念連合は長く維持され、後述するように戦後初期にはさらに強まってゆきます。

 昭和の初めから三〇年代前半まで、前述のコロムビア、ビクター、ポリドールの外資系三社と、大日本雄弁会講談社を親会社とするキングと関西の浪曲レコード制作から事業を拡大したテイチクの国内資本の二社を加えた五社が市場を寡占し、専属制度が日本の作家によるレコード歌謡を生産する唯一の方法であり続けました。

 専属制度確立期にあらわれた有力な作詞・作曲家(作詞では西條、藤浦こう、藤田まさと、佐伯孝夫、作曲では古賀政男、服部良一、古関裕而、大村能章など)は、戦中・戦後を通じて活動しており、レコード歌謡において戦前と戦後は、日米開戦後顕著になった軍国的な主題が消滅した以外、大きな断絶はなかったといってよいでしょう。

第一章 近代日本大衆音楽史を三つに分ける(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01