「えっ! イルカを食べるの?」
「えっ! イルカを食べるの?」という前に漁の現場を見よう。『THE COVE』の舞台・太地でイルカ漁船に便乗し、15年間「おいちゃん」たちと交流した動物行動学者の体験的捕鯨論。

1章 イルカ追い込み漁 沖でのこと

出航まで

 朝5時。手早く身支度を整え、家を出る。暖かい南紀とはいえ晩秋の早朝、しかも湿気の多い海風は体にみるので完全防寒だ。スキー場装備といえばわかりやすいだろうか。スキーウエアは、防寒性と防水性が高いので、寒い海で飛沫しぶきをかぶったとしても、いくぶん快適に過ごすことができる。スキーウエアの上下に軍手、足元は2枚重ねの靴下に長靴、そしてサングラスといういでたちになる。

「帽子持ってくるのを忘れるなよ」と忠告されていた。船上で浴びる直射日光はキツイので、ほとんどの漁師は日除け用に帽子をかぶっている。私はどうも帽子に馴染めないので、タオルを頭に巻く。首の後ろが焼けないように、頭に巻いた残りの布が首に垂れるように工夫する。この巻き方も、漁師に教えてもらった方法だ。

 帽子が体の一部になっているのだろう、陸にいる時でもかぶりっ放しの人も多い。スクーターに乗る時は、帽子の上からヘルメットを着けている。そうすると、こちらもその姿で覚えているので、たまたま帽子のない姿で出会ったりすると、一瞬、だれなのかわからないことさえある。

 ここ和歌山県たい町は、人口三千数百人の小さな町だ。これがどれほどの規模かというと、山手線1編成で町民全員が運べる程度。町の小ささを反映して、全長20メートル弱の小型漁船十数隻、二十数名で細々と行われているイルカ追い込み漁であるが、その存在感は大きい。追い込み漁が、太地漁協の水揚げの約3割を占めているからだ。

 私の宿のすぐ目の前は、太地湾奥部のふなだまり(小型船舶の係留所)、水の浦と呼ばれる一角。60隻ほどの小型漁船の影がまだ暗い水面に浮かび、時折揺れる。ビデオカメラと朝昼2食分の食料を入れたビニール袋を手に、急ぎ足で集合場所へ向かう。そこではすでに数名のおいちゃんたちが集まり、き火のまわりで世間話などしている。

 私は焚き火を囲む輪に近づき「おはぉ~っす」と声をかける。「オゥ」と返事をくれる人、表情で合図してくれる人、毎日のように「早く帰れ!」と憎まれ口の人。皆、イルカ追い込み漁(組織名:太地いさな組合)歴戦の漁師であり、これから私が同行させてもらう漁船の船長と乗組員たちである。

 私がこの追い込み漁に乗り始めた1990年代半ばは、その後の世代交代が始まる直前で、追い込み漁師の多くが5060歳代だった。彼らは、この追い込み漁を立ち上げた先駆者であったり、数多くの南氷洋捕鯨の体験者であったり、まさに人生を鯨とともに生きてきた人たちばかりで、だれもが荒々しさを備えたであり、人生の先達という風格を漂わせていた。

山手線1編成の定員は約1750人。ピーク時混雑率は200%程度になるので、約3500人が乗れることになる。町民数は3506人(2005年国勢調査)(本文へ戻る)。

「イルカ追い込み漁」とは、県知事許可漁業である「いるか漁業」のひとつで、漁業としての許可名は鯨類追込網漁。静岡県と和歌山県が許可を出している。静岡県の追い込み漁は不定期なため、和歌山県許可による太地いさな組合が行うイルカ追い込み漁が、漁期を通じて操業されている、全国唯一のものだ。(本文へ戻る

外部から太地湾へ船で入ろうとすると、現在は、太地湾の奥に太地港、さらにその奥に水の浦がある変則的な形になるが、これは水の浦の奥が昭和30年代に埋め立てられたためで、それ以前は太地湾(太地浦)から水の浦湾を通ってさらに外海へとつながっていた。(本文へ戻る

いざ出航!

 漁船はそれぞれがひとつの独立した〝小さな城〟である。小さいというのは、人数が少ない点、それから実際身動きできるスペースが限られてしまう点だろうか。後で詳しく述べる〝たんげい〟を含む船の移動中は、アッパーデッキの1畳弱のスペースに私も含めると3人が寄り添うことになる。通常は、各船に船主である船長と1名の乗組員の2人体制であり、最大で総勢1326人体制で船団を組み漁にあたる。

 空がわずかに白んでくると出漁となる。風が強くなければ多少の雨はかまわない。出航前に入念な準備、というモノはない。乗り込んでエンジン始動するとすぐ離岸だ。港内をゆっくり走りながら、船長はレーダー、無線などの動作をチェック。乗組員はフロート(スポンジを固く巻いたものやプラスチック製の「浮き」で、港内の船着き場は船が密着しているので、船どうしの直接の接触を防ぐために左右の船べりにぶら下げる)やロープの片づけをしている。

 この13隻の出漁の情景は壮観だ(図1)。太地くじらかたの宗家出身で明治期の古式捕鯨末期を実際に体験している太地五郎作氏は「東天まさに白まんとするの時、ぎよに幾数艘の舟が次から次へと此の舟謡を唄いつつふねする光景は此の太地浦をいて他に見る事の出来ぬ一種の古典的感を致するのである」と書き残している(『熊野太地浦捕鯨乃話』紀州人社、1937年)。

 時代は100年以上隔たっている。手漕ぎはエンジンに置き換わっているが、沖の鯨に挑む、その心意気に流れるものは同じであろう。

 港内航行は、安全運航確保および騒音排ガス低減のため、どこの港もスロー厳守である。早くエンジンをふかしたい衝動を抑えつつ15分ほど走る。太地東端のとうみようざき1636年に設けられた日本有数の歴史を持つ灯台にちなむ。地元では海上を遥か見渡すことから〝とおみ〔遠見〕〟とも呼ぶ)を回るあたりでエンジンは開放され速度を上げる。同時に船団の各船は、右へ左へと扇形に散開していく。広い海域で獲物をくまなく探すためだ。こうして「探鯨」が始まる。扇形が開ききった状態は、各船が互いにやっと見えるくらいの距離(約7キロ。ちなみに新宿から秋葉原までの距離が67キロ)まで広がり、東から南へ(あるいは反対向きに)協調して動いていく。北東端から南端まで最大幅80キロにもおよぶ鯨発見センサーとして一体となり、時に無線で情報交換。状況を確認しながら動いていく。

 この漁が第一目的とするのはマゴンドウ(6)、地元ではゴンドウクジラと呼ばれる体長5メートルほどの小型の鯨だ。ほかに、オキゴンドウ(口絵1011)、ハナゴンドウ(10)のゴンドウ類計3種と、イルカ類4種(カマイルカ、スジイルカ、ハンドウイルカ32〕、マダライルカ〔口絵12〕)で、それぞれの種ごとの捕獲枠が毎年決定される。

 捕獲対象となっているイルカ類は、すべてマイルカ科で、程度の差はあるがすべてふん(クチバシともいう)があり、ゴンドウ類と比べると頭部はスリムで流線型である。飼育下では、ゴンドウ類各種およびカマイルカを父親としハンドウイルカを母親とするハイブリッド(混血)が生まれており、それぞれ顔つきや歯の特徴が中間性質を示し興味深い。

現在でいえば、「太地捕鯨会社」とでもなるだろう。『クジラと日本人の物語』(小島孝夫編、東京書籍、2009年)によれば、1679年(延宝7年)の推計で、保有捕鯨船約45隻(おそらく予備含む)に565名の乗組員がいて、これに40名ほどの陸上作業役がおり、さらに「解剖」(後述。解体作業のこと)は村人総出で行ったとしている。まさに企業城下町、または〝人民公社〟ともいうべき村一体の事業だったといえる。当時の村戸数257戸(1677年)であることからも、村人総出の作業だったことがうかがえる。(本文へ戻る

古式捕鯨とは、捕鯨砲(ボンブランス銃を含む)使用以前の捕鯨形式。太地における古式捕鯨は、1606年(慶長11年)に始まったとされているが、鯨方の完成がこの年だと考えるべきで、それ以前から捕鯨は行われていた。(本文へ戻る

標準和名はハンドウイルカだが、水族館では、バンドウイルカの表記が多い。漁業者はハンドウイルカを好む。これだけ有名な種類で、呼び名が定まらないものも少ないのではないだろうか。(本文へ戻る

捕鯨調査員という仕事

 19966月、私は沿岸小型捕鯨担当の水産庁の調査員(正確には、水産庁資源管理部遠洋課の臨時雇用〔非常勤職員〕、沿岸小型捕鯨業生物調査担当)として、初めて太地を訪れた。

 捕鯨というと、今では南極海で行われる調査捕鯨を思い浮かべる人が多いかもしれないが、〝沿岸小型捕鯨〟が日本沿岸で正統の商業捕鯨として続いている。この沿岸小型捕鯨は、和田港(千葉県南房総市)など本州と北海道の数ヶ所を捕鯨基地にして行われているが(36)、国の免許制であり、捕獲種・頭数とも厳密に決められている。捕鯨の監督官庁である水産庁では、漁業監督および生物資源管理などのために、捕獲物の調査を行っている。

 そのために各地の捕鯨基地へ、捕獲物の現地調査、各種試料のサンプリングなどの目的で漁期に合わせて調査員を派遣しているのだ。それぞれの調査員は、13ヶ月間ほどを滞在期間とし現地で調査を進めることになる。

 太地は、この沿岸小型捕鯨の基地のひとつでもあり、追い込み漁と重なるが、マゴンドウ、ハナゴンドウ(現在はハナゴンドウに代わってオキゴンドウが捕獲対象種になっている)を捕獲している。

 当時の私は、大学院に入りたてで、イルカの行動学をめざしていたものの、頼れる人・場は少なく、右往左往していたところ、調査員の仕事を紹介された。私は自分自身を「熟慮」するタイプだと思っているのだが、その時は、どんな仕事なのかもわからないままその場で「やります」と即答をしていた。これも、きっとなにかの縁なのだと思う。

 調査員の仕事はとても興味深いものであるが、行動学という学問分野にとって、〝死体〟を扱うこの調査は、なんら発展的なことはないだろうと期待せずに着任した。

 現地の様子がわかってくるにつれ、秋にはイルカ追い込み漁が行われていることを知った。これから本書で詳しく紹介していくが、この漁は、沖でイルカ類の群れを見つけ、その群れを何時間もかけて、はるばる太地にある小さな湾へ追い込むのである。これを聞いて思いついた。

「イルカ追い込み漁の漁船に乗せてもらえば、追い込んでくるまでの数時間は、イルカの行動観察ができるじゃないか!」

 その頃、だれが追い込み漁師なのかどうかもわからなかったので、話す機会の多かった何人かの地元の方々に、それとなく頼んでみた。「秋になったらまた来たいと思います。そうしたら、追い込み漁を見学させてもらえませんか」と。

 今になって振り返ると、なんと厚かましいお願いをしたことだろうか。だって、想像してみてほしい、自分の職場に見知らぬ人間を入れ、自分の仕事っぷりをさんざん眺められるわけだ。私だったら嫌だ、と思う。でも、この時「乗れるよ」「構わんよ」といってくれる人がいたのだ。願えば叶う、動けば応える。彼らはまったくの好意で、毎年半月ほども私を彼らの〝城〟に乗せて熊野灘を縦横に走り回り、挙げ句の果てには戦利品をオカズにくれたりすることもあった。

 そして、その秋には、厚かましくも、2週間ほど追い込み漁船に乗り込むことができた。

百聞は一見にしかず

 水産庁の調査員は2000年まで5年間務めた。当初、研究テーマには直接関係ないけれど、短期バイトのつもりで仕事をこなしていた。しかし、この考え方は間もなく変わる。行動観察一筋では、まず不可能な体験をさせてもらっている、と。

 イルカの行動観察ではイルカに触れることはない、まして体の構造を知る機会はまったくない。たとえば、イルカにはゆうろつこつというものがある。これは、肋骨だが、せきついにはつながっていない、遊離した状態で、肋骨を構成している。このおかげで、きようくうの保護と大きな肺活量を同時に成り立たせている──読者の皆さんは、この説明を読んでも素直に頭に入ってこないかもしれない。同じように、私が実経験をしていなければ、この遊離肋骨についても文字面でしか理解していなかったと思う。

 あるいは、イルカの首が回らないこと。これは、他の多くの哺乳類と同じく7個のけいつい(図4)があるが、それが癒着しているためと解説される。しかし、これも骨の構造を実際に見ることで、「百聞は一見にしかず」の理解が得られる。挙げていけばきりがない。

(解剖作業 へ戻る)

 調査員の仕事は、観察のみでは知りえない多くのことを学べたので、未練も多くあったが、1ヶ月単位で大学を空けることは難しくなってきたため、20009月が最後のお勤めとなった。

 その間、またその後も、秋には追い込み漁船に乗りに行った。2003年まで、8年間もお世話になった。その後も、年に12度、太地を訪問し交流を続けている。

 学生生活は「金はなくとも時間はある」といわれる。私はどうやら、「時間がある」を過大評価しすぎていた。大学院の標準修了年限は修士・博士合わせて5年間となるが、このうち合計で約1年を太地で過ごしていた。その分、見聞は広がった、経験体験人脈も増えた、そして卒業も遠くへ延びた。それ相当の価値のある、そして稀な経験をしてきたと思っている。「卒業延期願」の提出を繰り返しながら太地に通い、勇魚いさな漁師と交わり、そこで見て、聞いて、感じてきたことを伝える時機が来た。

鯨の異名。勇魚会(海棲哺乳類の会:会員随時募集中!)発行の機関誌が『勇魚』であり、日本捕鯨協会の広報誌も『勇魚』である。(本文へ戻る

1章 イルカ追い込み漁⑴ 沖でのこと(2)

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