忠実なる“軍人”か、誠実なる“反逆者”か
第二次世界大戦を動かした男の虚像と実像を暴く。俗説を打破する決定版!

第一章 ロンメル評価の変化

 ドイツ軍人エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル。

 その生涯を叙述するにあたり、彼の最期から筆を起こしてみた。ことの性格上、もとより正確な記録があるわけではなく、ほとんどは目撃者の証言に頼らざるを得ないのであるが、史料批判を加え、極力事実に近い像になるように努めた。しかしながら、それでも、証人たちの語ることには相矛盾するものがあり、しかも、そうした食い違いは、同時代から今日に至るまでのロンメル評価の変化と揺れの遠因を端的に示しているように思われる。

 本書の記述も、そのような変遷を踏まえているから、ややはんではあるかもしれないけれど、まずは簡単にロンメル研究の流れに触れておくことにする。ただし、すぐにロンメルの生涯を知りたいという向きは、本章を飛ばして、第二章から読みはじめてくださってもさしつかえない。

英雄「演出」

 ロンメルといえば、戦車を中心に、機械化された歩兵・砲兵・工兵などを編合した装甲部隊パンツアートルツペ(以下、必要と思われる場合には、原語のカナ表記をルビで付す。げんてつを示すこともある)を率いて、連合軍をきりきり舞いさせた不世出の名将とのイメージが、日本でも顕著であろう。この評価自体は、けっして間違いではないのだが、反面、かかるロンメル像のかなりの部分が、いわば演出されたものであることは否定できない。

 同時代、つまり、第二次世界大戦中には、ナチス・ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスが、国民の士気を高揚させるための格好の素材として、ロンメルを実際以上の名将として描きだし、英雄に祭り上げていた。

 こうした傾向は、戦争が敗北に終わり、ドイツ国防軍の名声が地に落ちたあとになっても変わっていない。というのは、本書でのちに述べるごとく、ロンメルには、性格的に、あるいは軍においてしかるべき地位を占めるために、自己宣伝に努める傾向があった。その遺稿となった回想録も例外ではなく、自らの功績を強調し、敗北の責任は、ヒトラーや国防軍上層部、同盟国イタリアの指導部にあると主張していたのだ。ところが、この回想録は、ロンメル夫人ルチー=マリアと彼の参謀長だったフリッツ・バイエルライン中将のへんさんにより、西ドイツ(当時)で一九五〇年に『憎悪なき戦争』(邦訳『「砂漠の狐」回想録』。以下、引用文献等の詳細は、巻末の参考文献一覧に示し、本文中では最低限の表記にとどめる)という書名で出版され、またしても名将ロンメルのイメージを固めることになったのである。同回想録のタイトルは、ロンメル自身ではなく、編者たちが付けたものではあるけれども、どこに執筆の意図があったかを、はからずも露呈したといえよう。

 一方、かつての敵、連合国の人々も、ロンメル伝説の形成に力を貸していた。一九四二年一月、当時の英首相ウィンストン・チャーチルは、下院における演説で、ロンメルを「大胆で有能な敵手……優れた将軍」であると評価し、物議をかもしている。このエピソードに象徴されるように、ロンメルはすでに戦争中から、ごわい相手として認識されていたのである。

 こうした名将ロンメル像は、オーストラリアのジャーナリスト、アラン・ムーアヘッドの『砂漠の戦争』をはじめとする、さまざまなノンフィクションにより、英語圏でも増幅されていた。なかでも、自身北アフリカで戦い、捕虜となったときに、ロンメルに接した経験を持つデズモンド・ヤングが一九五〇年にじようした『ロンメル将軍』は、大きな影響をおよぼした。ヤングは、軍事的な能力ばかりではなく、人格的にも優れた存在として、ロンメルを描きだしたのである。このロンメル伝は大好評を博し、刊行一年にして、英本国だけで二十万部以上を売り上げたという。加えて、一九五一年には、ジェームズ・メイソン主演で映画化され、人気を博したから(日本でも『砂漠の鬼将軍』の邦題で翌五二年に公開されている)、サブカルチャーの領域においても、右のごときイメージを広めることになった。

 さらに、イギリスの軍事評論家バジル・リデル=ハートの編著なども見逃せない。第一次世界大戦後、英陸軍を大尉で退役したリデル=ハートは、民間軍事評論家として、機甲戦理論を提唱していたが、彼の主張が英陸軍にれられたとはいえなかった。そのためか、リデル=ハートは、第二次世界大戦後、自分の議論は、イギリスよりもむしろドイツにおいて活用された、ロンメルも、そうした「弟子」の一人なのだとのテーゼを打ち出したのである。かかる言説の一環として、リデル=ハートは、ロンメル夫人やバイエルラインと連絡を取り、ドイツでは『憎悪なき戦争』として刊行された遺稿に、ロンメルの書簡などを加えて英訳し、一九五三年に『ロンメル戦記』として出版、名将ロンメル像を世界に広めた。

 かくて、ドイツ語圏のみならず、英語圏ほかに、きわめてポジティヴなロンメル・イメージが流布されることになったのである。また、戦時下にドイツ外務省報道局長を務めたナチ・エリートであり、戦後は「パウル・カレル」の筆名で著述家となったパウル・シュミットが一九五八年に刊行した戦記『砂漠のキツネ』も、歴史修正主義的意図から、一種のロンメルびゆう論を展開し、伝説の生成に大きな役割を果たしたのであった。

偶像破壊

 このような「名将ロンメル」論は、戦後およそ四半世紀、一九七〇年代なかばまで、ほぼ定説であったといってよい。けれども、一九七〇年代後半になると、ロンメルの軍人としての資質や能力に疑問が呈されるようになる。それまでのけんしようへの反動か、かかる新しい文献は「偶像破壊」に走るきらいがあった。

 なかでも激烈だったのは、いまやネオナチのイデオローグとなったイギリスの著述家デイヴィッド・アーヴィングが一九七七年に刊行した『狐の足跡』である。

 今となれば、アーヴィングは、最初から結論ありきの論述を行う人物だとあきらかになっている。たとえば、映画『否定と肯定』は、アーヴィングが、彼はホロコーストを否定する歴史修正主義者であると批判した学者を訴え、敗れた裁判をテーマとした。この事実をもとにした映画は、二〇一七年に日本でも公開され、アーヴィングの「歴史書」の裏で行われていたことを克明に伝えている。とはいえ、『狐の足跡』出版当時のアーヴィングは、歴史家としての専門訓練こそ受けていないものの、精力的に史料や証言のはくそうに努めていることで知られていた。そんな人物が、ロンメルは、名誉欲にかられて、ある意味、無謀な作戦を遂行、不必要な損害を出したと主張したのである。このセンセーショナルなロンメル伝は、大きな衝撃をもたらし、独訳版は当時の西ドイツでベストセラーになった。

 また、アーヴィングは、ロンメルをひたすらヒトラーに忠実な軍人だったと評価し、一九四四年七月二十日の総統暗殺未遂事件にも関与していなかった、それどころか、陰謀の存在すら知らなかったと断じている。これについては、ロンメルをみる上で重要なポイントであり、近年著しく研究の進んだ問題であるから、本書後段で詳しく論じる。

 しかしながら、あらかじめ述べておくと、アーヴィングの主張は、今日なお認められているわけではない。すでに出版時から、『狐の足跡』は、ロンメルの息子マンフレート(ドイツ・キリスト教民主同盟 CDUの政治家で、当時シュトゥットガルト市長であった)をはじめとする関係者や歴史家に厳しく批判されていた。最近では、アーヴィングの問題点を具体的に指摘した論文も出ているが、『狐の足跡』も史料のわいきよくてき引用を多々含んだ書物であることはわかっていたのである。

 ところが、日本では、『狐の足跡』が早くから邦訳され(一九八四年刊行)、一見、大部で詳細な本と思われることからか、現在でもなお、これに依拠した記述が少なくない。

 そうした事態が生じる背景には、日本のアカデミズムにおいて戦史や軍事史を扱わないこと(近年、社会史・日常史的な関心にもとづく「新しい軍事史」の研究は盛んになってきたが)、旧軍・自衛隊のドイツ語と軍事に通じた人材が世を去っていったことなどにより、ドイツ軍事史の研究成果が紹介されなくなったという事情があろう。その結果、新しいロンメル研究は日本ではほとんど知られず(合衆国のドイツ軍事史研究の大家デニス・ショウォルターの『パットン対ロンメル』が翻訳刊行されるなどの例外があったとはいえ)、通俗的な本や雑誌には、一九七〇年代後半のアーヴィングに依拠したものがまかり通るという事態になっている。実に、欧米の認識とのあいだに、四十年近いギャップが生じているのである。この溝を埋めるため、本書でも、紙幅の許すかぎり、アーヴィングの歪曲の実例を挙げ、『狐の足跡』に依る危険を示すべく努力することにしたい。

 もっとも、ロンメル批判に踏み切ったのは、アーヴィングだけではなかった。欧米において、一次史料にもとづく実証研究が進むにつれ、「名将」の手腕に疑問符が付せられはじめたのである。また、この間に、連合国に押収されていたドイツ国防軍文書の多くが返還され、ドイツ本国においても、ロンメル再評価がはじまった。たとえば、ドイツ連邦国防軍軍事史研究局(現軍事史・社会科学研究センター)が編纂した第二次世界大戦史『ドイツ国と第二次世界大戦』(Das deutsche Reich und der Zweite Weltkrieg. 当該巻は、一九八四年刊行)では、一九四一年春に試みられたトブルクようさい攻撃などを例として、ロンメルは不充分な攻撃準備しかせず、結果的に大損害を出したとする批判がなされた。イスラエルの軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトも、一九七七年に出版された『補給戦』で、北アフリカのすうじく(独伊)軍に補給の問題が生じたのは、独伊軍首脳部の無能ゆえではなく、ロンメル自身のへいたん軽視によるものだと指摘している。

 かかる研究成果によって、ロンメルは、偶像から批判の対象へと変わっていく。

進む再評価

 二〇〇〇年代には、ロンメル評価は、いわば等身大のものとなっていた。デニス・ショウォルターやモーリス・フィリップ・レミィ、ゲオルク・ロイトといった歴史家やジャーナリストが発表したロンメル伝により、戦略的視野や高級統帥能力には欠けるところがあるものの、作戦・戦術次元では有能な指揮官といった評価が定着したのである。ある意味、第二次世界大戦中から続いていたロンメルの偶像化の流れが止まり、逆流したといえる。二〇〇八年十二月から二〇〇九年八月にかけて、ドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州歴史館は、ロンメルに関する特別展を開催した。ロンメルはヴュルテンベルク出身であるから、「郷土の偉人」を顕彰したのかと思えば、さにあらず、特別展の名称は、「ロンメル神話」(Mythos Rommel)だった。この特別展は、ロンメルの虚像がいかに形成されたかに力点を置くものだったのである。象徴的な事例といえよう。

 さらに、二〇一〇年代に入ると、ロンメル批判は一歩進んで、ヒトラーの軍人としての彼を評価できるのか、評価してよいのかという問題意識が生じてきたし、それをかきたてるような事件も起こった。

 バーデン=ヴュルテンベルクの東部にある都市ハイデンハイム、すなわちロンメル生誕の地には、彼の記念碑がある。一九六一年、ロンメル生誕七十周年の折に、アフリカ軍団の戦友会の請願によって立てられたものだ。二〇一一年、この記念碑をめぐる論争に火がついた。記念碑の除幕式から五十年を経たのを機に、ハイデンハイム市当局が追加設置した銘板に、「戦争においては、勇敢さならびに英雄的な気概と、とがや犯罪が密に相接している」との一文があったことが、批判を呼んだのである。複数の歴史家から、こうしたロンメル顕彰の碑は、彼を「暴力支配の犠牲者」として英雄化するものであり、撤去すべきだとする意見が出された。一般市民からも、その異議申し立てに同調する者が多数現れ、ロンメル記念碑を「ナチ将軍の記念碑はもういらない」と大書した布で覆うという抗議行動もなされた。

 また、二〇一三年十月に、極右政党ドイツ国家民主党のメンバーが、「砂漠の狐の足跡をたどる」と称して、記念碑にもうでたことも、論争に拍車をかけた。このまま、ロンメル記念碑を放置しておけば、ネオナチの「聖地」になりかねないとされたのだ。こうして、ロンメル記念碑の撤去も検討されるに至ったが、二〇一八年現在、いまだ結着はついていない。

 この種の問題は、ロンメル記念碑だけではない。やはりバーデン=ヴュルテンベルク州のドルンシュタットにある連邦国防軍のえいじゆには、「ロンメル兵営」の名が付せられている。が、二〇一七年に、連邦国防軍の極右現役将校によるテロ未遂事件(難民受け入れに賛成した前大統領などの暗殺を計画していた)が発生して以来、ナチの将軍の名を兵営に冠するのは好ましくないとの批判が相継ぎ、改称が検討されている。さらに、二〇一八年に、ドイツ国防省の政務次官ペーター・タウバーが、SNS上でロンメルを悼む発言をしたところ、指弾の的となる事態となったのも、記憶に新しいところだ。

 つまり、現今のロンメルの評価は、軍事的・歴史的なそれを超えて、政治的な色彩を帯びつつあるのだ。事実、ここ数年のあいだに出された研究には、ロンメルという歴史的存在への解釈が、現代のわれわれにとって、どのような意味を持つかという問題意識に基づくものが多い。

 以後、かかる研究動向、ロンメル像の変遷を押さえつつ、彼の生涯とその時代を叙述していくことにしたい。

第二章 「アウトサイダー」ロンメル(1)

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