文部省は本当に「三流官庁」なのか?
いまどき「天下り」スキャンダルで、事務次官までも辞任した文部科学省。戦前は内務省文部局、戦中は陸軍省文部局、戦後も自民党文教局、日経連教育局などと揶揄され続け、つねに「三流官庁」視されてきた。
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第一章 文部省の誕生と理想の百家争鳴(一八六八~一八九一年)

「学制前文」から「教育勅語」まで

はじめに欧米列強ありき

 ドイツの近代史家トーマス・ニッパーダイは、主著『ドイツ史』の冒頭に「はじめにナポレオンありき」と記した。ナポレオン率いるフランス軍の侵略が、ドイツのナショナリズムを刺激し、ドイツの近代化をスタートさせたという意味である。そのひそみにならえば、日本の近代史は「はじめに欧米列強ありき」といわなければならない。

 圧倒的な科学力と軍事力を誇る欧米列強に対抗し、いかに日本の独立を守るか。これこそ、日本近代化の原動力だった。この至上命題を抜きに日本の近代史を語ることはできない。本書でとりあげる教育の分野もまたしかりである。

 一八六九年一月十四日付で、木戸孝允が提出した普通教育の振興に関する意見書には、当時の問題意識が端的に現れている。

 いわく、「国の富強は人民の富強」である。したがって、一般の人民が「無識貧弱」なままでは、「王政維新」の美名は空名に終わり、「世界富強の各国に対峙するの目的」も果たせないだろう。それゆえ、わが国は、文明各国の教育制度を取捨選択し、全国に学校を振興して大いに教育を施さなければならない。これは「今日の一大急務」だ。

 いかに強力な兵器を揃えても、いかに立派な工場を建てても、一般国民が無学で無気力なままでは宝の持ち腐れにしかならない。明治新政府は、教育こそ近代化の成否を左右すると考えたのである。

 そこで、一八七一年九月二日、東京の湯島に教育行政の中央機関が設けられた。それが文部省である。廃藩置県が断行され、中央集権体制が整ってから、わずか四日後のことだった。こうして、近代日本の教育行政はスタートした。

 新政府は賢明で、行動も早かった。ただ、いざ教育を行うとなると具体的な目標がなくてはならない。「理想の日本人像」がなければ、予算配分も、指導方針も、的確に定めることができないからである。

 ところが、肝心の理想像はなかなか定まらなかった。日本の教育はこのあと、啓蒙主義や儒教主義や国家主義など、さまざまなイデオロギーに振り回されることになる。文部省の設置は、今日まで延々と続く、長く険しい「理想の日本人像」探求のはじまりでもあった。

文部省の前身は内部対立で瓦解

 では、具体的に明治前半の教育を見ていきたい。先述のとおり、一八七一年九月に文部省は設置された。ただ、このときまで教育行政機関がまったくなかったわけではない。

 新政府は、旧幕府の学問所を接収・復興し、一八六九年八月十五日に大学校を設置した。当時の行政機構はたいへん簡素であり、大学校は、最高学府と教育行政機関を兼ねていた。今日でいえば、東京大学と文部科学省が一体化したようなものだ。つまり、大学校は文部省の前身でもあった。

 大学校は一八七〇年一月十八日大学に改称され、国学と儒学を担当する大学本校と、洋学を担当する大学南校と大学東校に再編された。

 洋学の必要性に説明はいるまい。一方、国学と儒学はそれぞれの立場から尊王思想を鼓吹して、明治維新の推進力となった。その功績から、新時代の最高学府にも場所を与えられた。なお、教育行政機関としての機能は、湯島の大学本校に置かれた。ここは、江戸時代に昌平坂学問所(昌平黌)が置かれていた場所でもある。

 このように表面上は順調に整備されつつあった大学だが、実際にはまったくうまくいっていなかった。この最高学府の主導権をめぐって、国学派と儒学派と洋学派が内部で激しく対立したからである。

 中国の孔子や孟子の思想に由来する儒学と、日本固有の精神や文化を求め、外来の思想を排斥する国学は、もともと反りが合わない。さらに洋学は、西洋列強の文明を前にして、儒学や国学などそもそも時代遅れの学問とみなした。明治維新の推進力となったこの三つの学派は、いざひとつとなったとき、互いに批判して協調するところを知らなかった。

 最終的に、この対立は洋学派の勝利に終わった。新政府は、何よりも西洋文明の習得を優先したからだ。八月八日、国学派と儒学派は追放され、その拠点である大学本校は閉鎖された。この煽りを受けて、教育行政機関としての機能も事実上停止してしまった。

 かくして、国学・儒学・洋学の並立はもろくも瓦解した。

 ただ、こんなことで教育制度の整備を止めるわけにはいかなかった。一八七一年八月二十九日廃藩置県が行われ、中央集権体制が整った。そこで新政府は、九月二日、大学本校を廃止し、あらためて独立した教育行政機関として文部省を同地に設置したのである。

 以上の経緯から、文部省ははじめ湯島の旧大学本校に置かれたのだった。

洋学派の牙城として出発

 開庁時の文部省は、「の聖堂の広い一室で、上はより下は受付に至るまで、一つの室の内にゴタ〱机を並べて居る」(のちの文部少輔・九鬼隆一の証言)ような状態だったという。しかも、トップの文部卿は空席であった。そのため、ナンバーツーである文部大輔の江藤新平が最初期の省務を切り盛りした。

 江藤は半月ほど在職したにすぎないが、新生文部省の性格を決定づけた。というのも、文部省の職員に、大学東校と大学南校(九月五日、それぞれ東校、南校と改称)の教官や事務官を多数登用したからである。その結果、文部省は洋学派の牙城となり、教育行政も啓蒙主義的なものになった。

 このとき採用された面々は錚々たるものがある。のちに帝国大学総長に就任する加藤弘之。帝国博物館館長に就任する町田久成。明治天皇の侍医となる岩佐純。順天堂医院を創設する佐藤尚中。司法次官、和仏法律学校(現・法政大学)校長、行政裁判所長官などを歴任するつくりりんしよう。そして初代文部次官に就任し、その手腕から「文部省の辻か、辻の文部省か」といわれる辻新次など。その多くは、このあとも教育行政に深く関わる人物である。

 そして九月十二日、ようやく大木たかとうが初代文部卿に就任した。その二日後、南校掛、東校掛、記録課、受付課という簡素な機構が設けられた。これに入れ替わるようにして、江藤は十八日に左院(立法上の諮問機関)に転出し、文部省を退いた。

 大木と江藤は同じ佐賀藩出身で、ともに藩校弘道館で学んだ盟友である。江藤はその後征韓論を唱えて下野し、一八七四年に佐賀の乱に加わって処刑されてしまうが、大木は順調に出世し、枢密院議長などを務めた。ふたりの明暗は、新時代にはっきりと分かれた。

 ただそれはあくまで後日談。新生文部省は、佐賀藩出身のふたりによって、その基礎を固められた。翌年初頭には、事務章程が定められ、機構も学務課、記録課、職務課、用度課、書籍課、受付課の六課体制に再編された。文部省はここに本格的に業務を開始した。

 その成果はさっそく明らかになる。つぎに見る「学制」の頒布がそれである。

 ちなみに、文部省の庁舎は、一八七二年九月に常盤橋(現・千代田区丸の内)に移った。同年十一月、教部省との合併にともない馬場先(同)へ仮移転。翌年四月常盤橋に復帰した。ついで一八七七年四月に竹平町(現・千代田区一ツ橋)に移り、一九二三年九月関東大震災で焼失するまでその地にあった。現在地に移転するのはさらにさきだが、これはのちに触れる。

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第一章 文部省の誕生と理想の百家争鳴(一八六八~一八九一年)(2)

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