日本の最強官庁150年の秘史
「増税の空気」はいかにして形成されたのか? 気鋭の憲政史家が「通説の誤り」を解き「最強官庁」の150年を読む。

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大蔵省の誕生

財政の専門家とキャリア官僚制の起源

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11 明治維新の本質

お金を用意する専門家集団

 そもそも、明治維新とは何だったのでしょうか。教科書などでよく説明されるのは、「欧米列強の侵略から日本を守るには古い江戸幕府の体制では無理があるので、薩摩や長州などの雄藩が連合して天皇を中心とした新政府を作り、富国強兵を行った」というものです。要するに、それまでの幕藩体制を打破しようという動きです。

 言い換えれば、幕府や各地の藩がバラバラに税金を集めて軍艦などを造っていたのでは、強大な西欧列強に対抗できない、だから、幕府も藩もなくして東京の新政府に税金を集めて西欧列強に対抗しよう──これが、明治維新の本質です。

 しかし、こうした国家課題を実現するためにも、財源が必要です。そして、その財源となる税金を集める専門家が求められるようになりました。そこで、大蔵省の出番となったわけです。政治家が課題を実現するための、お金を用意する専門家集団としての大蔵省は、こうして、歴史の重要な部分に、しかも目立たない形で登場しました。

大蔵官僚の原体験

 東京に税金を集めるという課題は、明治六(一八七三)年の地租改正で実現しました。土地の三%を税金として金納する、江戸時代のように米を年貢として地元の大名に納めるのではない、というようにしたわけです。

 繰り返しますが、明治維新は幕藩体制という地方分権体制を否定し、強力な中央集権を目指した動きです。ただ、税金を東京に集めるといっても、「誰がどのように集めるのか」という論争は尽きませんでした。また、税金の徴収に限らず、中央で決まった命令をどうやって地方に伝達し、実行させるのかも問題でした。

 そこで、(過程の動きはめまぐるしいので省略します)大蔵省とは別に、内務省という組織を作り、地方行政は内務省に任せることにしました。

 この結果、大蔵省は「税金を取る」という権限はそのままに、地方と関わり合うという面倒な仕事の大部分は内務省に任せることができました。よって、大蔵省は少数精鋭で、成績優秀者のみの採用が可能となります。軍人・外交官・法曹家以外では、大蔵省は必然的に成績優秀者が行く役所となっていきます。

 また、大蔵省は税金という、特殊な勉強と実務経験をした人でなければ扱えない、スペシャルな仕事が中心です。そのため、大蔵官僚は非政治的な存在であり、「財政のテクノクラート」という位置づけになっていきます。

 ちなみに、明治の官僚たちの勤務体系は、「午前八時出勤、午後三時帰宅」という牧歌的な時代でした。時代を経るに従って勤務時間はどんどん延びるといっても、「不夜城」と呼ばれる現在の霞が関、そこで働く官僚たちの過酷な勤務体系からは想像もつかないかもしれません。政治家と張り合う、他の役所から権限を奪ってくるという、猛烈な官僚に変貌するのはまだまだ先の話です。大蔵省に関して結論を先にいえば、それは昭和初期のことです。

 草創期の大蔵官僚は、後に政府高官に出世して政治家になった人を除けば、自分たちは財政の専門家であり、非政治的な存在であるという意識でした。あくまで「一官庁の一部局の一官僚」という、「政治家ではない」という意識が原体験としてあったのです。

花形は主税局だった

 明治十七(一八八四)年五月、大蔵省に主税局──徴税をつかさどる部局──が正式に設置されます。主税局の名は現在でも財務省に残ります。明治・大正の大蔵省では、この主税局が花形になります。昭和以降は、徴税権ではなく、予算編成権を握る主計局が大蔵省の筆頭局になりますが、この頃は、「税金を使う」ことよりも「税金を集める」ことのほうが重要視されていました。

 明治期に主計局が主税局の後塵を完全に拝していたのは、当時、主計局には「天敵」がいたからです。その天敵とは、衆議院のことです。これはどういうことでしょうか。

 主計局の最大の仕事は予算編成です。予算とは、税金をどう使うか、すなわち、国家の意思そのものです。大日本帝国憲法第六十五条に、「予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ」とあります。これはつまり、国家の意思である予算に関する最終的な決定権は、選挙で選ばれた代議士の集団である衆議院にあるということを示しています。

 歴史学界では、「明治憲法下では、衆議院は予算先議権しかなかった弱い存在だった」というのが通説になっていますが、これはとんでもない誤解です。予算は国政のすべてと言ってもよく、先議権とは決定権に他なりません。

 衆議院に予算案を先に提出しなければならないということは、貴族院は衆議院の意思に逆らえないということを意味します。つまり、貴族院が予算をまったく修正しなければ、それは衆議院の意思に従うことを意味します。逆に貴族院が一銭でも修正すれば、今度は衆議院の承認を得なければなりません。したがって、先議権とは事実上の決定権です。

 予算先議権がどれほど強力だったかは、明治初期の内閣の末路を見ればわかります。

 伊藤博文や山縣有朋らの長州閥や、黒田清隆や松方正義らの薩摩閥は、宮中・枢密院・貴族院・陸海軍・内務省などの省庁を支配下においています。しかし、選挙で選ばれる衆議院だけは、薩長閥に批判的な板垣退助や大隈重信の率いる政党が優位です。

 そして、元老の内閣はすべて予算をめぐる対立で退陣に追い込まれています。長州閥は板垣系と、薩摩閥は大隈系と連携して内閣を維持しようとするのですが、常に彼らの攻撃か造反で総辞職に追い込まれています。衆議院の多数を彼らが占め、予算を否決していく以上、元老たちは政権を担当できないのです。

 予算は大蔵省主計局によって作成されますが、その予算は議会で承認されなければ効力を発しません。この頃の大蔵省主計局は、せっかく作った予算が衆議院で一夜にしてひっくり返されるという体験を絶え間なく持つ、可哀想な集団だったのです。それよりは、黙々と専門的な仕事に専念できる主税局が花形になるのは自然な流れでした。

 このすうせいは、戦費確保の徴税が主要課題だった日露戦争時まで続きます。

 ところが、大正期に入ると政治家の力が強くなり、予算が重要視されるようになってきます。このため、大蔵省内でも変化が起き、主税局に次いで主計局が重要視されるようになります。実際、大正期の主計局長であるいち乙彦、西野げんでんあきら、河田いさおと、主計局畑の人間が後に次官へと出世しています。

 もちろん、主税局長出身の菅原みちよしや黒田英雄、理財局長出身のかみ勝之助のように、他局出身者の次官もいます。また、しようかずや小野義一(いずれも元理財局長)、濱口さち(専売局長官)のような政治任用もあったため、現在の財務省のような「主計絶対」ではありません。

 しかし、日露戦争が終わった後の大正期は、予算の使い道、そして政治への対応が重要になってきたということです。

大蔵省のソフトパワー

 ここまで触れてきた徴税権と予算編成権は、大蔵省の二大権限です。いわば、ハードパワーです。現在の財務省においても、この命令権限(Power of command)は受け継がれ、絶大な権力となっています。一方、ハードがあればソフトもあります。

 ゲーム機でも、ハードである本体がどんなに優れていても、みんなが買いたがるようなゲームソフトがなければ意味がありません。官僚機構においてもそれは同様で、いかに権限が強くても、それを使いこなす影響力(Power of influence)を発揮できなければ無意味です。

 では、大蔵省にとってのソフトとは何でしょうか。それは、情報と人事です。

 まず、情報の面から見ていきましょう。

 大蔵省を作った最も重要な人物として、「大蔵省育ての親」と呼ばれる松方正義に触れておきましょう。松方は二度就任した首相としての評価は高くありませんが、七代十一年にわたって務めた蔵相としては、日露戦争の戦時財政を支えた他、日本資本主義の確立に貢献しました。

 あまり知られてはいませんが、松方は日本のアーカイブの祖でもあります。近代日本は、西洋から輸入した図書館と博物館は立派に発展させましたが、なぜかアーカイブだけは輸入しなかったといわれます。その証拠に、いまだにアーカイブの定訳がありません。そうした中で、松方は自分のしよしようする大蔵省では他の役所に先駆けてアーカイブを実践させました。

 アーカイブとは文書管理のことですが、それには「実用→整理→保存」の過程が必要です。ここで最も重要なのは整理です。整理がなされていなければ、公開してもよい文書なのか、公開できない秘密を含む文書なのかすらわかりません。文書には、場合によっては国家機密も含まれます。よって、アーカイブとは機密保持体制の確立であり、安全保障そのものなのです。これは、幕末以来の修羅場をくぐった元老の松方だからこそできたことだと評価すべき事柄でしょう。

 これを本書で特筆する理由は、現在に至る財務省の情報管理の凄まじさに繫がっているからです。財務官僚は、政治家・マスコミ・他の省庁から取った情報を細大漏らさず持ち帰り、幹部全体で共有します。その徹底ぶりは霞が関随一です。

 戦後の大蔵・財務省大臣官房は「政界操作本部」の異名を持つのですが、こうした基礎的な伝承技術を見落としてはならないでしょう。エリート集団は一朝一夕に作られたわけではないのです。

 次に、もうひとつのソフトパワーである人事について説明しましょう。

 大蔵省をはじめとする日本の官庁は、課長→局長→次官→大臣という役職制度になっています。これは企業でいえば、課長→部長→専務→社長といったようなものです。

 大臣は徐々に選挙で選ばれた政治家が就任するようになるので、試験で受かった官僚の頂点は、「次官」ということになります。現在では正式には「事務次官」と呼ばれますが、これは政治家が就任する「政務次官」と区別するための名称です。政務次官(現在の名称は政務官)が駆け出し政治家のポストであるのに対し、事務次官はその省の頂点です。

 また、どこの省でもそうですが、出世コースがあります。現在の財務省では、官房長(大臣官房)→主計局長→事務次官というコースになります。この「官房」とは、秘書のことです。現在は大臣ではなく、実質的には事務次官の秘書室としての機能を果たしています。

 その長である官房長は局長職の一つです。主な仕事は次官の意を受け、局の調整をすることです。したがって、官房は、どの省でも筆頭局とともに中枢です。

第1章 大蔵省の誕生 財政の専門家とキャリア官僚制の起源(2)

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