バブル紳士からヒルズ族まで。その絶頂と転落
ジャーナリストとして、数々の大事件を取材してきた著者が、リクルートの江副浩正、住友銀行の“天皇”磯田一郎、イトマン事件の首謀者・許永中、イ・アイ・イグループの高橋治則ら、15人の怪物を通して、平成日本の暗部を浮き彫りにする―。

〝赤瓦〟での首脳会議

 いまや国策捜査機関などとなじられ、すっかり権威を失ってしまった東京地方検察庁特別捜査部は、かつて常に司法界の先頭を走ってきた。治安の維持という半面、時代のゆがみを正す役割を担っていたといっていい。特別捜査部は日本社会をある一定の方向へ導くため、舵を切る務めを要求されてきた。従ってそれが国策捜査と指摘されても、あながち的外れではない。

 しかし捜査方針は、必ずしもときの権力に寄り添ってきたわけではない。むしろ権力側が敷いたレールの軌道修正を図ってきた面もある。リクルート事件は、まさしくそんな東京地検特捜部が手掛けてきたエポックメーキングな政官界の疑獄といえる。

 まだ松の内の明けない一九八九(昭和六十四)年の一月七日、昭和天皇が崩御された。大喪の礼を控え、日本中が騒然としていた二月十三日、霞が関の〝赤瓦〟で、密かに検察首脳会議が開催された。昭和から平成に年号が切り替わるまさにその瞬間、東京地検特捜部が時代の寵児を摘発しようとする。そのターゲットは、リクルート創業者の江副浩正である。

 逮捕容疑は贈賄。検察首脳会議の一決を得た特捜検事たちの動きは素早かった。その日のうちにリクルート元会長だった江副を逮捕し、グループ企業のファーストファイナンス前副社長の小林宏やNTT元取締役の式場英、長谷川寿彦など関係者に次々と縄をかけていく。事件は、大学生向け就職情報誌を発行する新興企業のリクルートを巡る政財界の汚職として、世間の耳目を集めた。昭和から平成へと移る過程で摘発されたリクルート事件は、東京地検特捜部の手がけた多くの疑獄事件のなかでも、時代を象徴するような汚職事件として、のちのちまで語り継がれる。

「事件のときは参りましたよ」

 私が最後に江副浩正に会ったのは、事件の摘発から五年以上が経過した九四年十月のことだ。場所は新橋にあった江副育英会のオフィスだった。五年経てなお公判の真っ最中で、当人には東京地裁による一審判決も言い渡されていない。だが江副自身は、公判の渦中にありながらすっかり復活し、不動産や株取引を再開していた。当時、「週刊新潮」の編集部に在籍していた私は、それを確かめるため、改めて本人と会ったのである。

「事件のときは参りましたよ。二十四時間、マスコミに監視されてね。家を出るにもばれないよう、色眼鏡にカツラなんかをつけて変装してね。そこを写真に撮られて却って騒がれたもんです。あれからずい分経ちますけど、このあいだヘルニアの手術をして人間ドックに入ったら、四十代の身体だと言われましてね、この通り元気です」

 笑顔で事件を振り返った。地検に逮捕されたのが五十二歳のときだから、このときにはすでに還暦に近かったが、肌の色つやがよく、実年齢よりずっと若々しい。東京地裁の一審判決言い渡しの目前でもあったが、あまり意に介していない様子だった。

 新進気鋭の若手実業家と呼ばれたリクルートの江副浩正は、その後に起きたライブドア事件の堀江貴文や株のインサイダー取引で騒がれた村上世彰などとしばしば比較される。三人とも東大出身のエリートであり、江副は彼らの先輩にあたる。大胆なアイディアで一大事業を起こした拝金主義者。事件当時からそう非難されてきた。そこも堀江や村上と似ている。一般に抱かれてきた生意気な新興企業の創業者というイメージも、うり二つだ。もっともリクルート事件そのものは、ライブドアの粉飾決算や村上ファンドのインサイダー取引とは比較にならないほど、スケールが大きい。

テレビで放送された〝贈収賄現場〟

〈助役が関連株取得 公開で売却益1億円〉

 犯罪史上最大級の疑獄事件の端緒は、一九八八年六月十八日付朝日新聞の報道だった。これにより、リクルートがグループ中核の不動産会社「リクルートコスモス」の未公開株を市の助役へ譲渡していた事実が発覚する。リクルートコスモスは、今のコスモスイニシアだ。そしてここから、コスモス株の政官財各界へのばら撒きが判明していった。

 株式市場の店頭公開前に、値上がり確実なグループ企業の未公開株を譲渡し、利益を供与するという新手の賄賂。そう国会で議論を呼んだものだ。その未公開株の譲渡先が実に幅広い。自民党の中曽根康弘や竹下登、宮澤喜一ら、首相経験者をはじめとした与野党の大物政治家から、霞が関にある中央省庁の高級官僚、さらにNTTやマスコミの関係者にいたるまで、江副から株を受け取った人物はありとあらゆる分野に及んだ。政官業の有力者百五十人に二百万株が渡っていた。

「妻がもらったので、私は知らない」

「秘書が受け取ったかもしれない」

 賄賂を受け取った政治家や官僚がそう弁明し、流行語になる。おまけに疑惑の渦中、爆弾男の異名をとる社民連所属の代議士、崎弥之助まで登場し、話題を振りまいた。この年の八月三十日、コスモスの社長室長だった松原弘が、社民連の崎の議員宿舎を訪れた。

「リクルートを助けてほしい。……国会での追及を中止してほしい」

 松原がそう言って菓子折といっしょに用意した五百万円の現ナマの包みを崎の目の前に差し出した。その露骨なやり取りが隠し撮りされ、前代未聞の〝贈収賄現場〟が日本テレビで大々的に報道された。隠し撮りは崎によるパフォーマンスに思えなくもなかったが、それらの事件の出来事がさらに騒動の火に油を注ぐ格好になったのは間違いない。

 平成になって初めて摘発されたリクルート事件は、過去、密室で繰り返されてきた政界汚職と一種様相を異にする劇場型の疑獄だといえる。事件の主役である江副浩正もまた、実に不思議なキャラクターをしていた。外出の際にカツラを被って変装した。それは、派手な変装姿を世間に見せつけたかっただけだったのではないか。そう思わせるほど派手好みで、目立つ存在だった。主役の江副を含む四人が贈賄罪、八人の収賄罪の合計十二人の刑事罰が確定している。

父は数学教師

 江副浩正は一九三六年六月、父良之と母マス子の長男として愛媛県越智郡波方村(現・今治市)に生まれた。今治実科高等女学校の数学教師だった父の良之が、赴任先の生徒であるマス子と結婚して生まれた子供だ。その後、一家が移り住んだ大阪で少年時代を送り、戦時中には空襲の災禍に見舞われた。大阪府内の豊中市立克明小学校から、兵庫県にある中高一貫の私立甲南中学に進学した。屋や御影に住む資産家の子弟の通っていた甲南高校で、教師の息子である一般家庭の江副は医大を目指す生徒に囲まれていたが、ひとり東京大学文科類を目指し、合格した。

 東大時代には、財団法人東京大学新聞社に所属して営業活動を学んだ。そのノウハウを生かし、江副が株式会社大学新聞広告社を設立したのはあまりに有名だ。東京大学新聞編集部の先輩には、森ビル二代目社長の森稔がいた。その縁あってか、江副は第2森ビルの屋上にぼろ屋を建てて事業を始め、のちの「リクルートブック」になる就活学生向けの情報誌「企業への招待」を発行する。ビルの屋上から新たな情報産業の産声があがったのである。

 企業からの求人案内広告料だけで情報誌発行の運営費用を賄い、収益をあげる。江副はそんな広告代理業と出版業の中間のような独特のビジネスモデルを確立した。

「社員もみな大学生のノリで、企業から求人案内をとっていきました。リクルートはやがて、転職雑誌や旅行情報誌、結婚情報誌などを次々と創刊していきましたが、ビジネスの基本は同じ。若い社員による営業で成り立ってきた。そうした底の浅いビジネススタイルは、江副さん個人の軽いノリのキャラクターによるところが大きかったのではないでしょうか。しかし、ビジネスに理念がないから、仕事がつまらなくなり、やめていく社員も多かった。側近と呼ばれた幹部社員たちも、結局は彼の元を去っていきましたね」

 あるリクルートOBは自嘲気味に話した。リクルートという新参企業の急成長には、首相の中曽根康弘による政策転換がその背景にある。

中曽根の規制緩和路線

 一九八二年十一月、鈴木善幸の後を受けて第七十一代内閣総理大臣に就任した中曽根は、八七年に竹下にその座を譲るまで、五年にわたる長期政権を築いた。政権の長さは小泉純一郎に次ぐ戦後歴代四位だ。中曽根は米国流の規制緩和政策を取り入れた小泉たちの先駆者といえる。英首相のマーガレット・サッチャーが唱えた新自由主義の流れのなか、米大統領のロナルド・レーガンと歩調を合わせて行政改革を推し進めた。

 八〇年代前半、高度経済成長期に目覚ましい産業の発展を遂げ、対米輸出による貿易黒字を膨らませた日本に対し、米国は内需拡大と日本市場の開放を迫った。中曽根はそんな米国の期待通り、開放政策に舵を切っていく。中曽根とレーガンというときの日米首脳はロン・ヤスと呼び合う盟友と騒がれた。が、その実、日本が米国の要求を実現してきたに過ぎない。やがて米国流の規制緩和が日本に上陸し、中曽根民活という流行語が生まれた。国鉄や日本電信電話公社、日本航空など、親方日の丸だった特殊法人の民営化というレールが瞬く間に日本の国土に敷かれていったのが、この時期である。

 中曽根は内需拡大のため、プラザ合意による円高容認、金融緩和政策に踏み切った。カネ余りが火付け役となり、あぶくが膨らんでいくかのように不動産や株の価格が途方もない勢いで高騰していった。そうしてバブル経済が八〇年代後半から九一年まで続いた。

 中曽根の政策は、その十年後の二〇〇〇年代の小泉純一郎政権、さらに現在にいたるまで続く規制緩和策の原型といえる。が、この時代は変化の度合いがより大きい分、極端なハレーションを生んだ。小泉時代のITバブルなどとは比較にならないほど、経済の肥大化が進んだといえる。そんななか、旧来の官庁による規制を潜り抜ける大胆な政官界工作が顔を出す。

 若きベンチャー起業家である江副浩正にとって、中曽根時代の規制緩和路線は、絶好のビジネスチャンスだ。従来の規制をどうやって搔い潜るか、そこが思案のしどころだった。リクルート事件は、そんな時代の端境期で起きたのである。

 事件で逮捕されたリクルート関係者は、会長だった贈賄側の江副本人をはじめ、社長室長の辰已雅朗や秘書室長の小野敏廣たちだ。江副らは就職情報誌を売るために政官界への工作を繰り返し、さらに新たに取り組んだ電話の回線事業を有利に運ぼうとした。それがNTTへの働きかけである。

 そんな工作の動きに従い、リクルート事件は賄賂を渡した相手に応じ、「政界ルート」「文部省ルート」「労働省ルート」「NTTルート」と呼ばれた。だがこの賄賂四ルートは、それぞれが単独で起きた直線的な贈収賄工作でもない。東京地検特捜部は、人脈や出来事が絡み合う四ルートの複雑な事件の糸を解きほぐそうとした。

第一章 江副浩正 ベンチャーの革命児(2)

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