命じられた側の悲劇、命じた側の戦後
自爆テロには断じて非ず、あの戦法の真実を描く太平洋戦争末期に散った若者たち。彼らの悲劇はなぜ生まれたのか? 特攻の生みの親・大西瀧治郎海軍中将たちの苦悩と葛藤を描きだす
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第一部

Ⅰ 遺書の碑

五十五年目の墓前祭

 その墓は、JR東海道線鶴見駅より南側に歩いて五分ほどの位置にあった。

 そうとう宗大本山そう寺。鶴見総持寺と略称してよばれるのがふつうだが、訪ねてみると、おどろくのはその境内の広大さである。敷地面積一五万坪というから、横浜スタジアムの約二〇倍。大都会に隣接する社寺のなかでは有数の、ゆったりとしたらん配置といえる。

 元々は石川県にあり、創建は元亨元年(一三二一年)だが、明治になって大火に遭い、全伽藍を焼失したため明治四十四年(一九一一年)に現在地に移転した、と寺の縁起にある。いまも七堂伽藍をそなえた壮大な禅寺である。

 これも千畳敷という大祖堂(本堂)を右手に境内を進むと、「石原裕次郎の墓」という案内の看板が立てられていて、いきなり世俗的な寺に一変するのも妙な具合である。駅を下りて歩いてきた婦人グループが、案の定さっさと案内板の方角にむかったので、さすがに戦後一世をふうした映画スターはちがうもんだなと、妙に感心したりした。

 だが、この日の私の目的はそれではない。平成十二年八月十六日、真夏の暑い日差しが天から降っている。

 裕次郎墓をすぎて、西側の一画にある墓地群の入口近くにたどり着くと、終戦時軍令部次長の要職にあった大西瀧治郎海軍中将の墓がある。

 この日は、大西中将の五十五回忌に当たっていた。

 午前一〇時の行事開始にあわせて、直上から照りつける夏の日差しの下、喪服姿の七、八十人の男たちが額から汗をしたたらせながら、すでに顔をそろえている。

 律義にちよりつした男たちの一団は、かつて軍令部や海軍航空本部、軍需省などで大西に仕えた部下たちで、なかにはかろうじて生き残った特攻隊員も加わっていたと、後で聞いた。

 男たちは七十歳代をとうにすぎていて、額にきざまれた皺が人生の年輪といったものを感じさせたが、大西瀧治郎が現役であったころ、彼らは一様に精気にみちた若者たちであったろうと思われた。

 五十五年前、大西中将は敗戦の玉音放送を聞き終えると、一夜友人とひそかに別れの盃をかわし、八月十六日午前二時四五分、東京・渋谷南平台の軍令部次長官舎で割腹自殺をした。

 割腹は、武士道全盛時代にあっても容易なことではない。大西は古作法通り腹を切り、けい動脈を断ち、心臓を刺して最期をとげた。行年五十四歳。

 墓は大西中将の出身地、兵庫県かみ郡芦田村(現・丹波市青垣町)の大西家菩提寺林宝寺にあるが、分骨されてこの総持寺にも建てられた。

 この墓建立は、大西夫人よしの強い意志によると言われている。

 大西夫妻には、子供がいない。淑恵夫人とは大西が三十六歳になってからの晩婚で、十歳年下という年齢差がある。

 戦時中、夫は外地や海軍の要職にあって家をあけることが多く、たまに自宅に帰ると大西にとっては娘のような存在であった、と感じた部下もいる。

 さびしい結婚生活にちがいなかったが、東京・神田生まれという生い立ちのせいもあってか、活発な性格の女性で、周辺にそんな思いを感じさせることはなかった。父は神田順天中学の創設者という教育一家育ちである。

 戦後、旧軍人の家庭は一様に貧しいものだった。大西宅は、家屋も家財も全焼し、夫人は縁をたどって薬ビンの卸商でこうをしのいだ。

 そんな暮らしぶりのなかで、淑恵夫人の唯一の願いは夫の墓を身近に建てることであった。

 もう一つ、周辺で語りつがれているのは夫の命令により特攻死した若者たちの霊をもまつる観音像を同時に建立したい、という夫人の切なる願いである。のちに、「うみわし観音」と名づけられた石彫像がそれだ。

 いま私の眼前に、その海鷲観音立像がある。

 右手に、

大西瀧治郎之墓」

 と、思いがけず小ぶりな墓碑があり、左手にほぼ等身の高さで、この観音像が並立して建てられている。

 軍令部次長、海軍中将の死といえども若き特攻隊員の死と同じ、という観音像を建てたいと念じる夫人の思いを具現した結果なのだろうか。

 特攻出撃を命じたあと、大西中将は心を許した知己に、「命じられた者だけが死ぬのではない。命じた者も死んでいる」と洩らしたことがある。淑恵夫人はその夫の思いをよく汲みとっていたにちがいない。

 せめて七回忌までに建立したいという夫人の願いもあって、自刃後の法要をすませ有志の協賛も得て一年遅れの昭和二十七年九月二日、二つの碑は総持寺のこの地に建立され、開眼供養がなされた。

 その日より四十八年目──。同じ敷地内に大西中将の命日に、遺書として次長官舎に残された一文が「遺書の碑」として石碑に刻まれ、今日がその除幕式となったのである。

 発起人の中心は、大西中将が特攻作戦を決断したフィリピンでの第一航空艦隊司令長官時代、副官をつとめた門司ちかのり元主計大尉。私は拙著取材の折に、はじめて知遇をえて、また当時の二〇一航空隊慰霊団とともに旧マバラカット基地を共に再訪した縁もあって、この墓前祭の招きを受けたのである。

 除幕式は総持寺貫主、板橋興宗禅師の読経によってはじめられた。板橋禅師は海軍兵学校の大西の後輩で、昭和十九年秋に入校した第七十六期生。このクラスは在校中に終戦を迎えた、いわゆる戦争に〝行きそびれた〟世代だ。

 引きつづき、若い僧侶たちのしようみようが墓前に流れた。かねを叩き、大音声で経文を読み上げる、曹洞宗の迫力ある儀式である。

割腹自決の朝

「遺書の碑」は、二十世紀最後の年に当たって、大西瀧治郎の真意を後世につたえたいという気持から建立した、と趣意書にある。

 大西中将の遺書は、昭和二十年八月十五日、日本が無条件降伏のポツダム宣言を受諾して、天皇の玉音放送がおこなわれる以前にすでに書かれていた、と門司副官は推測している。

 十五日正午、徹底抗戦を主張してあくまでも本土決戦を画策していた大西中将は、海軍省内の自室でこの玉音放送を涙を流しながら直立不動で聞き、軍令部の部下たちと解散のあいさつをかわして部屋を出た。

 夕刻、大西は児玉の家に立ち寄っている。

 児玉は晩年、政財界汚職のロッキード事件の黒幕として司直の追及を受ける身となるが、当時は青年右翼として知られていた。当時、三十四歳。津久井龍雄らの国家主義運動に共鳴し、昭和六年、井上準之助蔵相暗殺を計画し、逮捕されている。

 彼が主宰する「児玉機関」は、軍需省の委嘱により資材調達の官業の役割を果たしている。昭和五十九年、病没。

 大西の周辺には、なぜか児玉誉士夫、川南豊作、つぎ一夫といった右翼や国士といった異色の人物が取りまいている。矢次一夫などはその代表格で、児玉ともども大西の思想に傾倒した。

 矢次一夫は佐賀県の出身で、学歴は小学校卒でしかないが、若くして国策研究会を設立、主宰。戦時中は大政翼賛会参与、戦後は岸信介首相の特使として韓国を訪問。日韓協力委員会設立に関与し、また北朝鮮の故金日成主席ともパイプをもった昭和の怪物として知られている。

 大西とは昭和十四年、大陸戦線での第二連合航空隊司令官時代に知りあい、軍需省、軍令部次長時代と交際を深めて行くが、臨時の次長官舎が渋谷南平台の矢次自宅近くに建てられたことから、朝夕の往き来が繁くなった。

 大西の伝記編者はこれらの交際を「イカモノ食い」とか「ダボハゼ」と評し、かならずしも高い評価をあたえていないが、大西にはかえって彼らを面白がる風があった。周辺が交際を絶つようしきりに説得を試みたが、彼は断固として聞き入れようとはしなかった。

 大西は空襲で上落合の自宅を焼かれ、淑恵夫人は群馬県尾瀬に疎開し、彼自身は一時児玉宅に寄宿していた。

 大西は児玉に、御前会議で和平決定となったいきさつを語り、

「今夜は官舎に泊まるよ」

 と言って出て行った。児玉は直感で、大西は自決するつもりだなと感じたと、後年回想している。

 午後六時、大西は次長官舎で浴衣に着がえ、一升酒をぶら下げて近くの矢次一夫宅を訪ねた。

 矢次一夫の自伝『昭和動乱私史』には戦前、戦後の政財界の裏面史が語られていて興味を惹かれるが、そのなかに大西との最後の一日が記されている。

 矢次によれば、大西とは酒で親しみ、ヘボ将棋で交わり、政治と軍事問題ではつねに口喧嘩の好敵手として、「今日もなお忘れ得ぬ亡友の一人」と書いている。

 大西は玄関に迎え出た矢次の妻に、「今夜は大いに飲むよ、奥さん酌をたのむ」と、玉音放送のことなどケロリと忘れたかのように声をかけ、上機嫌だった。

 この夜、二人の間では敗戦後の日本についてやりとりがかわされたが、最後になって「この機会に話しておきたいことがある」と、改まった口調で大西が言った。

 海軍兵学校時代、彼の同期生であり親友でもあった多田武雄中将子息の想い出話である。

 多田武雄は海軍航空本部総務部長、軍務局長をへて昭和二十年五月、海軍次官となったが、病に倒れ、この日も大西が帰途、築地海軍病院に見舞ったという間柄である。若いころ、隣同士に住み、多田の長男圭太が生まれるとわが子同様に抱いて可愛がった、と淑恵夫人の想い出にある。

 半年ほど前、神風特別攻撃隊第一陣が発進してしばらくたったころ、比島マバラカット基地の長官官舎を訪ねてきた青年士官がいる。

「大西長官はおられませんか」

 二階の長官室に案内されてきた若者は、大西を見ると、「おじさん!」と懐かしげに声をかけて部屋に入ってきた。多田の子息、圭太中尉であった。

 多田中尉は兵学校七十一期生で、昭和十八年九月十五日卒業。六カ月後に少尉任官、その後飛行学生の訓練を受け、この十月に海軍中尉に進級したばかりである。

 多田中尉は、「明日、第一朱雀すざく隊が編成され、自分が先任者に選ばれました」と告げ、「お別れに来ました」と明るい表情で言った。

 しばらくつもる話をして、長官室を連れだって出て、多田中尉は階段下の庭に立った。

「元気に、しっかりやれよ」

 大西が声をかけると、飛行靴をそろえて立った中尉は軽くお辞儀をし、

「さようなら」

 と挙手の礼をし、後も見ずに一目散に暗い門の外へ駆け出して行った。その日が、大西との最後となった。

 多田圭太中尉はその後、第二朱雀隊に転じ、昭和十九年十一月九日、レイテ湾在泊艦船をめざして特攻出撃し、還らなかった。

「大西は、私に、この話をしている間、大目玉に涙を一杯溜めていた」

 と、矢次一夫の私史にある。──大西は話をつづけた。

「比島から帰って、多田と毎日顔を合わせるようになってから、一人息子の見事な戦死ぶりを、多田も聞きたかろう、俺も話したい、と毎日思い、今日は、今日こそは、と思いながら、遂に話すことが出来ないままで、今日まで過ぎてしまったよ、機会があったら、君から多田に、この話をしてくれないか」

 矢次がその約束を果たしたのは、大西が自刃した後、通夜の棺の前である。旧友の死を耳にして駆けつけた多田夫妻は、はじめて一人息子の戦死の状況を知ることができた。

 さすがに多田中将は海軍の武人らしく、

「そうでしたか、ありがとう」

 と一言礼をのべただけだが、矢次が見ていると、夫人ははじめて耳にするわが子の最後の姿に涙にくれるばかりであった……。

 大西中将が矢次の家を出たのは、八月十五日深更である。午前一時、帰る間際になって「将棋を指そう」と言い出し、三番つづけたが立てつづけに負けてしまった。ふだんは矢次のほうが三番に一番勝てばぎようこうという実力の差なのだが、大西は、

「どうも負けぐせがついたみたいだな」

 と大笑いし、足もとをふらふらさせながら帰って行った。この上機嫌ぶりに矢次は騙された。

 次長官舎でも、の中で何か書きものをしている大西の姿を従兵が目撃している。

 官舎は南平台のうつそうたる森にあり、二階の奥まった畳部屋が彼の好んだ居室であった。この夜はとくに異常な様子でもなく、ふだんと同じなので周囲に油断が生じた。

 大西が自刃したのは午前二時四五分である。夜明けの五時前に空襲警報が鳴り、官舎の使用人たちが表に出てみると、まだ大西の部屋から灯が洩れている。

 不審に思って戸を開けると辺りは血の海で、畳の上にシーツを敷き、その上に血まみれの大西が突っ伏しているのが見えた。

 あわてて従兵が連絡を取り、多田次官が軍医少佐を連れて駆けつけてきたのは午前七時ごろのこと。軍医が手当てをし、包帯でぐるぐる巻きにして寝かせようとすると念を押すように、

「生きるようにはしてくれるな」

 と、しぼり出すような声で言った。

 矢次は熱海のしげみつまもる前外相邸に出かけていて留守で、間もなく大西の副官と児玉誉士夫が駆けつけてきた。

「はじめて腹を切ったものだから……」

 大西はまだ生命永らえていることを恥じるように言い訳し、「貴様がくれた刀は切れぬ」と児玉にグチを言ったりした。自決用の刀は、児玉が贈ったものであったからだ。

「奥さんをお迎えに行って参ります」

 自刃の追い腹を止められて、疎開している淑恵夫人に知らせようと児玉が海軍省の車で飛び出して行くと、大西は妻との永別は覚悟の上というように瞑目した。

 大西の死がせまりつつあることは、だれの眼にも明らかであった。腸が腹から飛び出し、それを包帯で止めているだけで、顔面から血の気が失せ、蒼白な表情へと変わっていた。だが、大西は一言も苦痛を訴えていない。

 午前一〇時ごろであったか、横になっていた大西が起き上ろうとモゾモゾと身体を動かそうとした。軍医が、

「閣下、どうしたのですか。しっかりして下さい!」

 と声をかけると、制止されると思ったのか、「なにっ!」と自分を叱咤するように勢いこんだ声を出した。そのとたん、口から大量の血を吐き、息絶えた。

「死の間際、大西は起きて宮城を遥拝しようとしたのだろう」と、最後を看取った多田中将は後にこう洩らしている。

 淋しい通夜となった。昼すぎになって矢次が熱海からもどり、夜には淑恵夫人も群馬県千明牧場から駆けつけてきた。

 ──大西中将の十三回忌となった昭和三十二年六月、これもかつての同僚、部下、友人知己たちのきもりで伝記『大西瀧治郎』(故大西瀧治郎海軍中将伝刊行会)が編まれた。

 そのなかに、夫の死を目前にした淑恵夫人の回想が掲載されている。

「臨終に間に合うことは予期していませんでしたが、あの大きな目玉をギョロリとむき出して、恐い死顔をしているのではあるまいかと思いながら、死の対面をしてみると古武士の作法通りの立派な最期で、かすかに微笑を浮かべており、とてもいい顔をしていたので安心しました」

 昼少しすぎたころになって、棺が来た。

 物資かつの時代であったから棺桶も貧弱なもので、骨格の逞ましい大西の身体が入り切らず、手まどっている矢次に代わって手伝いの人間が無理矢理押し込んだのだが、「痛々しく見るに堪えない思いをした」と、矢次自伝にある。

 後になって大西中将は、「特攻の創始者」という評価が巷間に定着したが、しかしながら最後の夜になって、こんな気になる言葉を遺している。

「特攻隊のような戦法は、その意味では不都合極まるとの批判になるだろう。俺なんぞ、いかに国家のためとか、敗けられぬと考えたにせよ、見事ないい若者を特攻隊で殺して、自分ながら救われないね。げん地獄に堕ちるさ」

 多田次官の息子の特攻死が念頭にあったものか、しみじみとした口調であった。また矢次は、何かの折に大西がひとりポツネンとしている姿を見たことがあるが、それは何ともやり切れなそうな淋しい孤独な姿であった、と回想している。

 大西瀧治郎の遺書はすでに広く知られているが、御影石に刻まれた全文とはこうである。

  特攻隊の英霊にもう

  善く戦ひたり深謝す

  最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり

  吾死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす

  次に一般青壮年に告ぐ

  我が死にして軽挙は利敵行為なるを思ひ 聖旨にひ奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり

  隠忍するとも日本人たるの(ママ)持を失ふ勿れ

  諸子は国の宝なり

  平時に処しほ克く特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽せよ

   海軍中将大西瀧治郎

 この遺書には別に一文があり、八月十六日の日付で、部下の軍令部第一部長富岡定俊少将への謝意、さらに総長豊田そえ大将には「わび申上げられ度し」として、「別紙遺書青年将兵指導上の一助ともならば御利用ありたし」と付記されている。

 遺書の中身は、文字通り特攻についての己の責任と覚悟を語ったものである。そして自身は、その責めを一身に負って割腹して果てた。

 敗戦後の混乱を予想した最後の一文は、とくに印象が深い。若き戦士たちは軽挙妄動せず、祖国再建のために生きて最善を尽せよ、と冷静に語りかけている。そして言う。

「世界人類の和平の為最善を尽せよ」

 遺書が記されたのは、門司副官の推測通り八月十五日中だとしたら、大西中将の行動にははなはだしく矛盾がある。その前夜まで、彼は徹底抗戦を主張し、天皇の弟宮高松宮を動かしてまで敗戦決定の御前会議を引き伸ばそうと画策していたのだ。

 軍令部とは、海軍の作戦方針決定の中枢機関である。次長はその中心で、大西中将はその立場を利用して部下たちを叱咤し、海軍の元老たちに戦争継続を主張するよう働きかけた。

 もしその工作が成功して、本土決戦となっていた場合、八月十五日以降戦争がつづき、さらに数十万、数百万の若き戦士たちの死が生まれていたことはまちがいない。民間人の犠牲者をふくめれば、死者の数ははかり知れぬものがある。

 結局のところ、大西の一億総特攻は結実することなく、海軍側では豊田軍令部総長、米内光政海軍大臣の二巨頭が動かず、八月十四日夜、最後の御前会議で日本の敗戦が確定した。

 その意味で、大西瀧治郎とは謎の多い人物といわねばならない。特攻について多くを語らず、自己弁明の理屈づけをせず、「特攻は統率の外道」とまで言い切った。そして血の海のなかで苦悶しながら、一生をおえた。

 だが、大西中将の悲劇は、最前線の第一航空艦隊司令長官の立場に列せられたときからはじまったといわねばならない。そして、もしこの人事がなければ、大西による航空機による体当たり攻撃はおこなわれていなかったかも知れない──という意外な事実に突き当たる。

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Ⅱ 日米レイテ決戦場へ(1)

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