「日中親善」の最高司令官が、なぜ南京事件の戦犯に?
“大虐殺の首謀者”として裁かれた軍人は中国を深く愛していた。ついに明らかになる南京戦の全貌──。折り重なる屍体。過酷な戦場の現実。押し寄せる日本軍に中国軍司令官は逃亡する。軍律に厳しい松井と血気にはやる師団長の確執。中国便衣兵の無法と日本兵の混乱……。その時、南京城内で何が起きたのか? 南京事件の罪を問われ東京裁判で処刑された松井石根を、中国人は今も「日本のヒトラー」と呼ぶ。著者はこの悲運の将軍の生涯を追いながら、いまだ昭和史のタブーとされる事件全貌の解明に挑む。

【凡例】引用文は一部、新字に改め、句読点、濁点、送り仮名、ルビを補い、人名、地名などの明らかな誤記については訂正を加えた。

春日山

 みねつづきてる

  月影に

しられぬ谷の

 松もありけり   源師光

序章

 昭和二十三年(一九四八年)十二月二十二日の夜、松井いわは巣鴨プリズン内の死刑囚房に座している。

 巣鴨プリズンの敷地内には、六つの獄舎が建っていた。主に奇数棟が独房、偶数棟が雑居房という構成である。

 同年十一月十二日に絞首刑の判決を受けた七名は、「第一棟」の三階に設けられた独房に、それぞれしゆうけいされていた。七名の末葉の宿りとなったその虚室は、三畳半ほどの広さで、床板が剝き出しになっていた。房同士を仕切る壁はすこぶる厚い。同じ階の他の部屋は、すべて空室とされた。

 七名は監視員からの注視を浴び続けていた。昼夜を問わない厳しい監視の最大の目的は、死刑確定者たちの自殺を未然に防ぐことであった。鉄扉には改造が施され、いつでも廊下から室内を見渡せるような設計になっていた上、便所の硝子扉までもが外されていた。その狭き栖とは、密室のようでもあり、それとは対極にあるもののようでもあった。あたかも、金魚鉢に相似していたとも言い得るだろうか。

 しかし、その過度に神経質とも思える厳重な監視体制も、あと僅かな時間で終焉する。その夜、灰青色の世界の外側は、うつせみの世を嘆くかのようにして、みぞれが降った。

 七名は暁を待つことを許されない。彼らに夜明けは訪れない。死を隣に待たせた時間は、間もなく強制的に閉じる。

 七名の内、始めに四名が独房から出された。絞首台が五基しかなかったため、一度に全員の処刑を行うことは物理的に不可能であった。そのため、四名と三名という二組に分けられた。

 最初の四名の中に、松井も含まれていた。松井の他は、東條英機、土肥原賢二、武藤章という顔ぶれである。「第一組」となった四名は、一列となり、階段を使って一階まで降りた。一人につき二名の監視員が付き添っている。四名の両手には手錠がかけられ、更にその手錠に括られた紐が、股間をくぐる形で渡されていた。

 午後十一時四十分、四名は仏間へと招き入れられた。巣鴨プリズン内は地域ごとに「色」の通称で区別されていた。例えば本庁舎は「グリーン」、運動場は「ブラウン」、第一~六棟の監房は「レッド」といった具合である。

 その仏間は「ブルー」地域にあり、元々は女囚専用の独房だった一室が改装されたものであった。

 米軍の兵士たちが「チャペル」と呼んだその一室では、浄土真宗本願寺派の僧侶である花山しんしようが、死刑囚たちに最後の祈りを捧げるきようかいとして、四名の到着を待っていた。巣鴨プリズンの初代教誨師である花山は、死刑判決が下される以前より、勾留中の彼らの心の慰めに努めてきた。

 花山は石川県金沢市に建つそうりんの十二代目住職であったが、同時に宗教学のたいとして東京帝国大学で教壇に立っていた。専門は聖徳太子の研究などを中心とした日本仏教史だが、神道やキリスト教にも深い造詣があった。

 僧侶であり学者でもあった花山は、昭和二十一年(一九四六年)一月、終戦連絡中央事務局と司法省から連絡を受けた。それは、自ら希望していた巣鴨プリズンの教誨師の役職に内定したという報であった。仏教だけでなく他の宗教にまで広くしつしていた花山は、加えて英語も堪能で、このことが米軍側との折衝を滑らかにすると期待された末の人選であった。花山は若い頃に約二年間、ヨーロッパに留学した経験があった。

 花山が教誨師という重職に指名されたのは、彼が四十七歳の時のことである。志願したこととは言え、自らの職務がいかに重大であるか、その歴史的な役割を考えると、花山は震える思いであった。

 四名が仏間に入ってきた。

 法衣姿の花山は、仏前のロウソクから線香に火を灯すと、それらを一本ずつ、四名に渡していった。四名は渡された線香を香炉に順番に立てた。

 四名は奉書に署名をするよう求められた。花山は用意した墨汁の瓶を開けようとしたが、コルクが思うように抜けない。仕方なく花山は、代わりに万年筆用のインク瓶を使うことにした。

 四名は手錠のまま筆を持ち、それをインクにつけて、最期の著名を為した。松井は若い頃から書が巧みで、その筆致はあまねく評判であったが、これが彼の絶筆となった。

 石川県金沢市に今も建つ宗林寺の一室に、この時の絶筆が保管されている。

 固く施錠された部屋の中にその原物はあった。花山信勝の長男であるしようどう氏が、檜の箱の中から丁寧に取り出す。勝道氏は信勝を継いで十三代目住職となった人物で、現在はその息子であるまさずみ氏がこの寺の十四代目住職となっている。

 信勝は平成七年(一九九五年)三月二十日に九十六年に及んだ生涯を閉じている。彼の命日は、オウム真理教によって「地下鉄サリン事件」が引き起こされた日と重なった。日本の仏教史の研究に尽力した信勝の一生を考えれば、それは一つの皮肉にも映る。

 目の前の机上に置かれた半紙は、四名のものと三名のものと二枚ある。風化した紙の彼方此方には飴色の斑点が浮かび、多くの歳月の流れを感じさせた。

 手錠のまま書かれたというこの絶筆の一枚目には、四名の姓名が縦書きで、右から土肥原賢二、松井石根、東條英機、武藤章という順に記されている。文字は薄墨のような色をしているが、裏返して紙の裏側を見ると僅かに藍色の名残りを確認できる。勝道氏は言う。

「以前はもっと藍色が濃かったように思います。墨ではなくインクが使用された証拠と言えるでしょう」

 四名の筆致は美的価値ということは別にしても、武人の書であると同時に充分に能書家のそれである。これは書の必定であるが、その墨蹟にそれぞれの個性がよく表れている。

 四名の筆は、死を直前にした境地にもかかわらず、否、或いは死が目の前にあるからこそなのかもしれないが、気張ったところや、ぎこちなさがいずれもなく、虚飾が削がれ、どことなく淡々としている。手先でこしらえた色がなく、それでいて静寂とした筆の調子の奥の方に、確固不抜たる信念が感じられる。

 東條のものは一見、剛胆にも見えるが、実は四名の中では最も繊細な書風で、女性的な色もそなわっており、ここに彼が有していた本来の内なる性格の一端を垣間見ることができる。細部にまで神経が行き届いているが、それが過度に感じられる部分もある。

 一方、松井の筆は、良いものを書こうという作意や匠気がすでに抜け、そのことが逆に凜とした印象を生んでいる。皮肉なことに、ごうした者のその後とは別に、書には生命が織り込まれている。それはその筆心が、鋳型から流れ出たものではなく、正直なところから溢れた結果であろう。

 松井は背が低く、瘦軀であったが、筆調にはわいしような色彩がない。こんぱくの軸の太さが、筆の穂先から滲み出ているようである。

 後ろめたさといったものも感じさせないが、そのことが過剰でなく、自重と共に静かな叫びとして整っている。囚われたところの無さは、諦観の末の心地と考えれば得心が行く。

 また、松井の書は中国風である。かの北大路魯山人は「優美さ」を重んじる日本の書に対し、中国の書は「容貌風采」を大切にすると看破した。松井の書体は、雅やかで淡い配色が施される日本家屋よりも、派手さがあって原色の配置を好む中国家屋に似合うようである。丸みよりも直線的な筆の伸びに松井の筆の特徴がある。

 松井の書が中国趣味であるのは、犬養毅もそうであったように、その生涯自体が深くかの国からの影響を受けていた結果に他ならない。あえて中国風を狙う書家も日本には往古より少なくないが、松井の場合、その筆の運び方の全幅において、中国大陸の薫りが立つ作りとなっていて、それが仮借の書法ではなく、中味のある、言わば天分から生じたものであることがわかる。

 絶筆を書き終えた四名はその後、コップに注がれた葡萄酒を吞んだ。その葡萄酒は「NOVI TIATE」という銘柄で、この言葉にはキリスト教における「修練」といった意味が含まれている。教会でのミサなどに用いるために修道会が造るワインの一つである。

 花山信勝の長男である勝道氏は、父親が生前、

「東條さんは二杯、吞んだ」

 と話していたことを覚えているという。

 それから、死刑囚たちは用意されたビスケットを口に含むことが許されたが、これに実際に口をつけたのは松井のみであった。他の三名は、入れ歯を外していたことを気にして遠慮した。

 松井も常用の入れ歯を外している状態だったが、彼だけはビスケットを所望した。花山が一つのビスケットを松井の口の中に入れた。松井は口をもぐもぐとさせてから飲み込んだ。皺の多い彼の喉元が、それ自体が一つの生き物であるかのようにして、呼応しながらしゆんどうした。

 四名はその後、コップの水を吞んだ。

 芝居がかった死への儀式が、ゆっくりと進捗している。

 花山の読経の後、台本どおり、刑場へと向かう。最後の万歳三唱の音頭は、東條の薦めにより、最年長である松井がとることとなった。松井はすでにこの時、数えで七十一歳という老境である。

「天皇陛下万歳」

 という松井の声の後、万歳三唱が行われ、更に、

「大日本帝国万歳」

 との発声が続いた。

 身を削るような声が、深夜の拘置所に響き渡った。

 松井は手に念珠をかけていた。花山がその念珠を指して、

「これを、奥さんに差上げましょうか」

 と聞くと、

「そうして下さい」

 と松井は答えた。花山は念珠を受け取った。

 それから四名は、仏間から八十メートルほど離れた場所にある刑場へと歩いて向かった。死刑囚たちは、当番将校や花山の先導で、土肥原、松井、東條、武藤の順で暗がりの中を進んだ。まさに還らざる死出の旅路である。

 先を行く花山の背後に、念仏の声が連なる。彼らは念仏を唱えながら、騒然とした流転の時代を生き抜いた自らの人生について、その記憶の断片を反芻していたのかもしれない。

 刑場の入り口で、四名と花山は最期の別れを交わした。花山はそれぞれと握手を交わし、

「ご機嫌よろしゅう」

 と声をかけた。花山によれば、四名は、「みなにこにこ微笑みながら、刑場に消えられた」という。

 午後十一時五十七分、四名が通された死刑執行室は、まだ真新しい。黄色がかった照明が、まるで映画の撮影所のように、明るく絞首台を照らしていた。

 立ち会ったのは、アメリカ第八軍憲兵司令官であるビクトール・W・フェルプス、巣鴨プリズン所長のモーリス・C・ハンドワークの他、中国代表の商震、イギリス連邦代表のパトリック・ショー、ソ連代表のクズマ・デレビィアンコらである。

 絞首台は、地下に身体が落下する「地下式」ではなく、階段を上る必要のある「上架式」であった。高さ三メートルほどの絞首台の上までは、十三段ある階段を使用することになる。

 死刑囚たちは身長と体重を予め測られていた。体格の違いによって、ロープの長さなどが調節されている。

 絞首刑は、首が絞まることによる窒息死というよりも、落下の衝撃で首の骨が砕けることによって死を招き入れる方法である。ロープの調節を過てば、速やかに死ぬことができなかったり、逆に首が千切れてしまう恐れもある。

 時計の針が十二時を回り、日付は十二月二十三日となった。

 それは皇太子明仁の誕生日でもある。

 階段の下で各々の手錠が外された。その代わりに、四名の身体は革紐で縛られた。四名が順々に階段を上り始める。松井が先頭であった。

 階段を上り終えた彼らは、四カ所の落とし戸の上にそれぞれ立った。四名の名前が確認された。立会人たちは、死刑囚たちの相貌を凝視し続けている。台上からも、念仏の声が漏れていたという。

 零時一分、四名の頭に黒い頭巾が被せられた。

 間髪入れずに、天井からするすると四本の綱が降りてくる。

 四名の頭部が輪をくぐる。生と死の狭間に介在する暴力の輪である。その輪は論理的でもあり、非論理的でもある。

 綱の具合が調節される。

 革紐によって、両足首がくるぶしの辺りできつく縛られた。

 零時一分三十秒、憲兵司令官の号令により、ルーサーという名前の軍曹がレバーを引いた。その瞬間、四名の足元にある踏み板が、一斉に外された。ガタンという鈍い音が室内に響いた。

 その音は、四名の耳に届いたであろうか。或いは、脳に感知される前に、神経は遮断されていたか。

 四つの肉体は、宙に釣り下がった状態となった。八つの足の裏と、地面との間に存する空間が、彼らの生命を奪ったとも言える。

 彼らの心臓から脈打たれていた鼓動は奪われた。温かい血潮はその流れを止め、冷却と硬直への坂を下り始める。四名の生涯が、うたかたの如く果てた。

 松井石根が冥界へと発った瞬間である。胃の内部にあったのは粘着質を帯びたビスケットの欠片……。

 四名の死亡が、医師により順番に確認される。

 松井の死は、零時十三分に認められた。

 この四名の後、続けざまに、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎の三名も刑の執行に臨んだ。三名は先の四名と同様、まず仏間へと招き入れられたが、この時、広田が花山に対し、

「今、マンザイをやってたんでしょう?」

 と聞いたという話がある。先の四名が行った「万歳」を、広田が「マンザイ」と称したというのである。このことは小説家の城山三郎が、自身の小説『落日燃ゆ』の中で「広田の痛烈な冗談」といった論旨で描き、この本がベストセラーとなったことで巷間に知られるようになった。七名の内で唯一の文官であった広田が、「最後に軍人たちの行為を皮肉った」という話が、この小説をこうとして完成した。しかし、花山信勝の長男・勝道氏によれば、信勝は生前、何度も次のような話をしていたという。

「広田さんが『マンザイ』という言葉を使ったのは本当だ。しかし、それは皮肉で言ったのではない。広田さんは九州の出身であったが、かの地の方言では『万歳』のことを『マンザイ』となまる」

 板垣の音頭により、広田も大きな声で、

「天皇陛下万歳」

 と三唱をした後、刑場へと向かったという。

 広田ら三名への刑の執行は、零時二十分のことである。

 これが「戦犯」と断じられた七名への死刑執行であった。亡骸は棺に納められた。

 松井が有罪となった訴因は、第五十五「連合軍軍隊並びに俘虜及び一般人に対する戦争法規慣例の遵守義務違反」である。

 いわゆる「南京大虐殺」の責任者として、彼は刑場の露と消えた。

 宗林寺の境内には法隆寺の夢殿を模して造られた「聖徳堂」という八角堂が建つが、その地下室に彼ら七名ゆかりの品々が今も眠っている。

 その中には、刑の執行直前に彼らが口に含んだ葡萄酒の瓶もある。

 色褪せたラベルには銘柄名と共に産地として「California」と書かれていた。琥珀色のその瓶の内部には、以前は「吞み残し」があったという。瓶には固く蓋がされていたものの、内部に残存していた液体は、長い時の経過の中で蒸発してしまった。

 空の瓶が見えざる虚しさを体現しながら、一つの残夢のようにして、或いは誰かの後ろ姿のようにして、意味ありげにきつりつしている。

 本当に蒸発してしまったものとは果たして何か。

 それを探るための不確かな彷徨が始まろうとしている。

第一章 日中友好論者への道(1)

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