「大衆の利益を尊重することだけに、政治や行政がなびくことは決してあってはならない」
「政策」とは何か。メディア、財政金融政策、第4次産業革命等の多様なパースペクティブから、先端的課題に今、鋭く問いかける。
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 京都大学経済研究所は経済理論に重きを置く研究機関であるが、その研究を活かして、現代経済の課題に対する政策処方箋を提示することにも目を向けている。経済研究所に附置する先端政策分析研究センター(CAPS)では、いわば理論と政策をインターフェースさせる政策研究を行っている。そうした研究を行う上で重要なポイントは政策をどう評価するかという問いである。

 政策を評価すること。それは、ひとえに政策立案者だけに限られるものではない。むしろ、政策を監視するという意味からは、私たち市民一人ひとりに問いかけられていることである。それでは私たちは、政策をどのようにみたらよいのか。政策をみるための着眼点とは何か。政策をみる眼をやしなうにはどうしたらよいのだろうか。

 本書は、二〇一九年三月二日に開催された京都大学経済研究所シンポジウム「政策をみる眼をやしなう」の記録である。このシンポジウムの狙いは、政策をみるための拠りどころとなる座標軸とはどのようなものか、その座標軸からみたとき現代の政策はどのようにとらえられるのかを考えることにある。シンポジウムの前半では、学界の第一人者である先生方や政策報道の第一線で活躍されているメディアの方に講演いただくとともに、後半では現役の役人の方をまじえたパネル・ディスカッションを行うことで、上記の問いかけに対して学びを深めようとするものである。

統計不正問題から政策を考える

 昨今、経済政策を議論する上で避けて通れないニュースが、厚生労働省による「毎月勤労統計調査」の統計不正問題であろう。政府統計は信用できないという世論や心証が形成され、『日本経済新聞』(二〇一九年一月二七日)によると、七九の国民が政府統計を信用できないとみている。こうした状況は不正発覚から時間が経過しても事態は変わらないどころか、むしろ不信の大きさは深まってさえいるようにみえる。客観的なデータは経済政策の大前提である以上、政府統計の不正は日本の権威喪失ばかりか、研究者にとっても研究成果の信頼性喪失につながりかねない由々しき事態だ。

 もっとも、政府は最初から統計をないがしろにしていたわけでない。今日の中心的な政策立案のキーワードに「エビデンス・ベースト・ポリシーメーキング」(証拠に基づく経済政策)という考え方がある。政策は、統計とりわけ客観的データに依拠して立案されなければならないということを意味し、CAPSの重要な研究課題にもなっている。二〇一七年五月の政府の統計改革推進会議の「最終とりまとめ」でも、現状は「エピソード・ベースト・ポリシーメーキング」(経験に基づく政策)になっており、それを「エビデンス・ベースト・ポリシーメーキング」へ転換することが強調されている。

 統計改革推進会議は二〇一七年一月に、「政府全体におけるエビデンス・ベースト・ポリシーの定着および国民のニーズへの対応等の観点から、抜本的な統計改革および一体的な統計システムの整備等を政府が一体となって強力に推進するために必要な検討を行う」ために設置されたものである。統計不正問題の発覚は、こうした改革が空回りしている、あるいは少しも進んでいなかったことを証明するが、同時に統計データと政策の重要性を改めて政策当事者にも社会全体にも提起する機会ととらえることもできよう。日々見過ごされがちなデータ・統計の信頼性は、そのまま政策・政府の信頼性につながる。

 「政府・政策を監視する」つまり「政策をみる眼をやしなう」とは何を意味するのか。「政策をみる」とは、具体的には、政策がどのようなデータやエピソードを基礎にして、誰によって、誰のために策定されているのか、政策を策定するすべての主体・道具(方法)・対象は信頼に足るのか、をしっかり見定めることだ。それには、みる眼こそが不可欠になる。「眼をやしなう」には、政策・理論(理屈)・サンプル(経験)に関する知見を積み重ねることが求められるが、それに加え、現実感覚の大事さ──今、自分の周囲で起きていること、庶民の「常識」との距離──を知ること、政策が結果を導くすべてではないことを認知しておくこと、が必要となろう。

 「政策をみる眼をやしなう」には、理論や経験だけでなく現実感覚も重要な要件になる。たとえば「アベノミクス」の成果が喧伝され、統計不正問題のようにデータの信憑性が指摘されて初めて、人々は政策の実効性に疑問を持つのだろうか。データにかかわりなく、実施された政策評価において、たとえば「成長の実感がない」、あるいは「物価上昇が感じられない」といった庶民の常識、感覚もまた政策をみる眼として欠かせない。

 さらに、「政策をみる眼」に関連して言えば、経済の状況・結果が政策だけに帰されるわけではないことも理解しておく必要がある。変化が生じた場合に当然のことであるが、政府によって実施された政策だけが変化をもたらしたわけではなく、変化以前の状態がどのようなものであったか、どのような社会・政治・経済・環境の変化が生じているのかなども考慮されなければならない。特に、統計問題のために私たちは国内に眼をむけがちであるが、グローバル経済・社会の状況をとらえる視座は欠かせない。つまり、政策をみる眼には、複眼的な視座をやしなうことも重要な要件になる。

政府・政策を監視する

 政策の策定には、官僚・政治家だけでなく、国際機関、財界、労働者団体、消費者、住民、NGONPOなどさまざまな利害関係者が関与しており、メディアがそれぞれの利害を関係づけている。国民は投票以外に、さまざまなチャネルで政策に影響する(図表序1)。全体の利害の統合・調整、政策および法制度の策定される場は政府であり、政策のエンフォースメント(実効性)もまた政府に依存する。利害関係者が多様になればなるほど政府の役割は大きくなる。政府が信頼されていなければ、いかに精度の高い有益なデータを活用して、いかに立派な政策を立案したとしても、それが実施される保証はない。その意味では、政策評価において、政府も質を問われている。

 実際に、国や政府の質を測定することは難しいが、その試みもある。スウェーデンのヨーテボリ大学「政府の質研究所」(The Quality of Government Institute)ではQOG(Quality of Government)という政府の質に関する指標を分析し、不正のない信頼性に足る公平な、そして能力を持った国家機関を研究している。また、世界銀行の世界統治指数(Worldwide Governance Indicators)では、公平性、良い統治、法の支配、汚職、政府の効率、公益・公正に資する国家・公務員、制度と政策を公平に執行する能力などの項目をあげて、各国の政府の質を評価している。

 政府の質が低くなると、不正が増えて、政府の効率も低下する。政策は恣意的に策定されやすく、政策の執行能力も下がる。その結果、芳しい政策の結果も得られない。逆に政府の質が高くなり、透明になると、政策は絶えず社会に緊張感を持って監視・実施される。

 概して民主主義の制度化が進めば、それだけ政府の質は改善されるが、いずれの国の政府も歴史的な経緯を経て形成され、国民に認証されてきたものである。それゆえに、過去の歴史的初期条件が政府の質に影響するという「遺産」が、現在の政府の質を強く規定している。遺産がみすぼらしく低いものであれば、当該社会における公務員の意識、市民のモニター(監視)する力も多くを期待できない。そのことが、政府の質をさらに低くする。

 一般に政府の質は安定した法制度・市場インフラを確立した先進国で高く、法制度が不安定なままの発展途上国やロシアなどの新興経済国では低くなる傾向がある。もっとも、先進国、途上国、新興国それぞれのグループ内でも、国毎に政府の質の水準は異なる。汚職を一つの指標としてみれば、Transparency InternationalのCorruption Perception Index 2018(汚職認知指数)のデータによると、同じ欧州であってもデンマークはクリーンの度合いで一位であるが、EU新規加盟のクロアチアは六〇位、不断に危機のリスクを有するギリシャは六七位と著しく異なる水準にある(日本一八位)。

 政府の質が低下すると、市場経済のベースになるインフラストラクチャー、経済制度も劣化する。政府の質はそのまま市場の質に反映される。低い政府の質のもとでは、たとえば汚職のために支払いを求められるという意味で、市場での取引コストも高くつくことになる。高い取引コストは、より低いコストを求めて非公式のルールに依拠するため、政策の執行力を引き下げるリスクを帯びる。

政府の質と市民の監視

 「政策をみる眼」つまり市民がモニター(監視)する力はそれ自体、政府の質の高さを指し示す重要な指標の一つになる。

 図表序2は、世界銀行の世界統治指数(WGI)の経年の変化を指し示している。上のグラフが日本で、下のグラフがアメリカである。両国を比べると、アメリカの方がはるかに安定して高水準にあることが明らかになる。アメリカはチェック・アンド・バランスが効いており、政府の質は非常に高い。ただし、政治的安定性だけは例外で、州の投票結果で当選者が入れ替わり、国を二分する大統領選挙が行われるために、政治は不安定化しやすい。二〇〇四年はジョージ・W・ブッシュの選出、二〇一〇年はオバマ政権時の中間選挙、二〇一六年はトランプ現象を指し示している。日本は全体的に右上がりで政府の質は年々良くなっているようにみえるが、評価項目のうち説明責任の低さが特徴的である。日本では政策が想定通りにうまくいかなくても、政策の失敗が明確化され、政府に対する責任の追及がされることはない。つまり、日本政府の説明責任、責任の所在は不透明になりがちであり、このことが日本社会の特徴とすれば企業の責任においても同じ現象が生じやすい。

 一方、図表序3は、中国とロシアのWGIを示している。いずれの項目でも、先進国に比して極めて低水準にある。特に低さが目立つのが日本同様に説明責任であり、その意味では後発で発展した諸国の政府に共通する現象とも映る。この図は最も高い政府の効率を除くとすべての項目が低い水準になっていることを示し、中国政府には説明責任が微塵もないようにさえみえる。一九九二年以降市場移行を進めているロシアでは、政府の効率は改善されているが、政府の質は中国以上にみすぼらしくみえる。法、説明責任、汚職はいずれも著しく低い水準にあり、政府に対する信頼などまったく見いだせそうもない。その結果、中ロ両国では政策の良し悪しが問題になるのではない。そもそも、両国の政策は国民に対する信頼性を欠き、政策実施の有効性、執行能力に大きな問題が存することになる。

 国民の政策をみる眼の厳しさは政府の説明責任と直結する以上、みる眼をやしなうことは政府の質を高める条件になる。とくに歴史的に政府の質が低い国においては、政府の効率を高める以上にみる眼をやしなうことが確実に政府の質を高めてくれる。

説明責任者を見つけ出す眼と経済学の戒め

 それでは、「政策をみる眼をやしなう」ためのポイントはどこにあるのか。本日の講師の先生方はそれぞれすでに示唆に富む著作(岩波新書)を刊行されている。ここでは、著作を通して政策をみる眼に対する視座を取り出そう。

 軽部謙介氏は著書『官僚たちのアベノミクス』(二〇一八年)の中で「誰がどのように仕組んだのか」、あるいは「誰がその中身に改変を加えようとしたのか」という視座を提示している。政策論議ではともすればツール(道具)や方法に目が行きがちだが、それよりも政策にかかわる人間とその利害関係こそが重要になる。

 図表序1に示したように、政策を策定し実施する場合、種々のステークホルダーが関係する。政策の策定に当たるのは官僚だけでなく、為政者(政治家)・政府・議会が強い影響力を行使する。政治主導という語がそれを如実に表している。そのうえに日本銀行はじめ政策立案機関や国際的な専門家集団もまた影響を及ぼす。中央銀行の世界的なネットワークもそれに加えられよう。また、政策は国民のためにあるとすれば、国民こそが政策立案にもっとも関与すべき存在となろう。しかし国民は一義的ではなく、住民、消費者、生産者、労働者、投資家などさまざまな顔を持っている。世代間、男女間、教育水準間さらには所得間などで多種多様な利害で相互に対立し、分断された存在になっている。必ずしも利害が一致しておらず、一つの政策ですべての国民のニーズが同時に満たされるわけではない。政策をみる眼を議論する場合も、どういう立場でどういう主体が政策を策定しているのかを問う視点は欠かすことができない。もっと直截的に言えば、政府の質が低いと言われる日本においてこそ説明責任者を適切に見つけ出す眼が問われている。

 政策を主導する政府が既存の経済哲学に立脚する場合、軽部氏の言葉では特定の人間・利害関係にのみ立脚すれば、動的な政策は策定されにくい。環境と経済の歴史的に相容れない緊張関係を持つ領域をベースに(環境)政策に接近した諸富徹・浅岡美恵『低炭素経済への道』(二〇一〇年)で、諸富氏は「非連続的な発展」を展望する政策形成を重視し、そのための政治のイノベーションをも提起する。低炭素経済への移行という、静態的ではなく、動的でイノベーティブな政策こそ二一世紀の不確実性を越える政策になるのであり、そのときに政府には、負担の公平さとともに、人を救い、痛みをやわらげるという責任が付きまとう。高い政府の質こそが、人々から不安を取り除き、動的な政策を実施することを可能にする。

 「政策をみる眼をやしなう」の議論でさらにもう一つ考えたいのは経済学の役割である。経済学はこれまで政策に一種の科学的装いを提供する役割を果たしてきたといって過言ではない。政策を考える場合にも、経済学をどうとらえるのかが重要になる(図表序1)。

 佐和隆光『経済学とは何だろうか』(一九八二年)は経済学のあり様を「制度化」をキーワードに描き出した名著で、多くの経済学者に影響を与えている。佐和隆光『経済学のすすめ』(二〇一六年)はその延長線上にある。『経済学とは何だろうか』は「ケインズが歯医者のように公平な技術者である政府経済顧問が偏見にとらわれない科学的助言をおこない、政策決定者はそれに従って公共の利益のために行動するという姿を経済学者の理想像として描いているが、それは自信過剰であって、せいぜいある政策が有効ではないということを述べることが経済理論の役割」と述べている。いわゆる科学主義的な見方への戒めであり、経済学に一体何ができて、何ができないのか、何をしてはいけないのか、こうした問いを自覚することが経済学者には求められ、政策をみる眼にこそ、特権としての経済学のおごりではなく、謙虚にみる視座が必要となる。

 本書では、以上の三名の方々による講演とパネル・ディスカッションが収められている。本書が、政策、さらには社会をみる座標軸について、少しでも考えを深めていく機会となれば幸いである。

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【講演1】政策報道の現場で考えたこと─メディアは何をどう伝えるべきなのか─軽部謙介(1)

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