1万対4万2千、「玉砕の島」の守備隊長
戦死者10222名。最後に残ったのは34名。玉砕から75年、いま明かされるペリリュー戦の全貌。
シェア ツイート

序章  両陛下のご訪問

 平成二十七年(二〇一五年)四月八日、パラオ共和国のロマン・トメトゥチェル国際空港から伸びる幹線道路の沿道には、無数の小さな「太陽と月」があった。

 パラオの国旗は、日本の日章旗に近似した図柄の「青海満月旗」である。海を表した明るい青地に、光り輝く満月を配したこの国旗は、「月照旗」と呼ばれることもある。一九八一年、パラオに自治政府が発足した際、日章旗とよく似たこの国旗が正式に制定された。日章旗と月照旗の相似には、両国の歩みが集約されている。

 天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下。以下、同)のパラオご訪問は、「戦後七十年」の節目に行われた。私はこのご訪問に同行取材する僥倖に恵まれた。

 同行記者団が乗った大型バスに対しても、「太陽と月」は盛んに振られていた。スマートフォンで車列を撮影する若い世代の姿も目立つ。この時、沿道の警備にあたっていた警察官の一人であるマッカーサー・ウーアムさん(38歳。年齢は取材時。以下、同)はこう振り返る。

「両陛下のパラオご訪問は、我が国が経験する最大級の行事でした。万が一の場合に備えて優秀な狙撃手を手配するなど、我々は入念に準備しました。もちろん、当日は大変な緊張感でした。私が驚いたのは、両陛下の車の速度が非常に遅かったことです。さらに、両陛下は窓を開けて笑顔で手を振りました。安全性を考えれば、窓を閉めてもっと速く走るべきなのです。私は思わず上司に『あれでは危ない!』と声を上げました。すると上司は『それが天皇の要望なのだ』と答えたのです」

 パラオ国民の歓迎ぶりについて、地元紙「ティア・ベラウ」でチーフエディターを務めるオンゲルン・カンベス・ケソレイさん(46歳)は、次のように表現する。

「両陛下が車の窓を開けて笑顔を見せたことは、パラオ国民に極めて強い印象を残したと思います。あの日は、パラオにとって歴史的なイベントでした。十年前、『日本の天皇がパラオに来る』という情報が広く流れましたが、結局は実現しませんでした。私たちは十年間も待っていたのです」

「戦後六十年」の折、両陛下はパラオを含む太平洋諸国を巡る慰霊の旅をご希望されたが、警備やインフラ上の問題から、最終的にはサイパンのみのご訪問となった。ケソレイさんが続ける。

「今回は本当に両陛下がパラオを訪れたということで、国民はみんな喜んでいます。戦争を知る年長の方は、天皇と言えば『ヒロヒト』の名前を思い出すでしょう。若い世代も年長者から『日本の統治時代は良かった』と聞いて育っています。戦前の日本はパラオに道路や港、病院などをつくっただけでなく、人々に教育を与えました。戦後も日本は多くの投資や援助を続けてくれました。日本とパラオは、歴史的に深い関係性のある国。パラオにとって日本は『兄』のような存在なのです」

「兄」という言葉を聞けば、両国の国旗の近似性も得心が行く。

     ◆

 翌九日、両陛下は宿泊先の巡視船「あきつしま」から大型ヘリコプターを使って、パラオ南部に位置するペリリュー島に入られた。ペリリュー島は先の大戦時、実に一万人以上もの日本兵が散華した「玉砕の島」である。

 島内での両陛下の移動には、マイクロバスが使用された。同島でも多くの小旗が両陛下をお迎えした。ただし、日章旗と共に振られていたのは月照旗ではなく、青地に鳥がデザインされたペリリュー州の州旗であった。

 この小旗を用意したのは、青森県在住の横浜慎一さん(52歳)である。以前からペリリュー島での遺骨収集に携わってきた横浜さんは、旧知だった同州のテミー・シュムール知事から小旗についての相談を受けたという。

「州の財政が苦しいため、自前で小旗を用意するのが難しいという話でした。それで日本で寄付を募り、集まったお金でこの小旗を準備しました。布製にするか紙製にするかで悩んだのですが、『紙のほうが音が出るから良い』ということで紙製にしました」

 両陛下は島の南端に位置するペリリュー平和公園内の「西太平洋戦没者の碑」をご訪問。巨大な石造りの慰霊碑の前に白菊の花束を一束ずつ手向けられ、深々と拝礼された。碑の南側に広がる紺碧の溟海から、時おり波の音が届いた。

 その後、両陛下は参列者とのご懇談に臨まれた。両陛下が最後にお話をされたのは、ペリリュー戦からの生還者である元海軍上等水兵・土田かずさん(95歳)である。私はそれまでに土田さんとは東京で二度ほどお会いしていた。日本を発つ前、土田さんは、

「陛下がパラオに行けば、どれだけ英霊が感激されるか」

 と話していた。ペリリュー平和公園内の待機所で両陛下のご到着を待っている際、土田さんは、

「失礼がないようにとの心配もありますが、わくわくしております」

 と笑顔だった。

 ところが、実際に両陛下を目の前にした土田さんの表情には一切の笑みもなく、そこには凜とした気のみなぎりがあるのみだった。土田さんは一瞬、座っていた椅子から立ち上がろうとしたが、両陛下が屈んでお話を交わされた。陛下は、

「ご苦労さまでした」

 とのお言葉で、土田さんの苦労を偲ばれた。土田さんは引き締まった顔を保ったまま、ほとんど頷くことしかできなかった。南国の強い日差しに照らし出された土田さんの横顔は、かつての一兵士の表情に戻っているようにも見えた。

 その後、両陛下はマイクロバスに戻られた。両陛下は車内に乗り込まれても着座することなく、それどころか車体が動き出してもなお、立ったまま参列者の方々に手を振られていた。両陛下の視線の先に目を転じると、そこには二本の杖を大きく打ち振る土田さんの穏やかな笑みがあった。

 私はそんな土田さんの姿を見ながら、かつてこの島から発信された「サクラ、サクラ、サクラ」という言葉を改めて嚙み締めていた。

 ペリリュー戦とは、幾つかの意味で異色の戦闘であった。約一万人の日本軍守備隊に対して、米軍の総兵力はおよそ四万二千人。戦力の差は明らかであったが、日本軍は島じゅうに張り巡らせておいた地下壕を駆使して徹底抗戦を試みた。結果、米軍最強と謳われた第一海兵師団は、「史上最悪の損害」をこうむったとされる。

 それは驚異的な奮闘であった。昭和天皇からは「お褒めのお言葉」である御嘉尚(御嘉賞)が実に十一回も贈られた。これは先の大戦を通じて、極めて異例のことである。

 七十四日間に及ぶ激戦の末、日本軍守備隊は玉砕したが、地下壕を利用したその戦い方は、その後の硫黄島や沖縄での戦闘にも影響を与えたと言われている。

 そんなペリリューの戦いを指揮した守備隊長が、中川くに大佐である。そして、中川が地下壕内で自決を遂げる前、集団司令部に宛てて打電した最期の言葉が「サクラ、サクラ、サクラ」であった。

 だが、実はその後も銃声は鳴り止まなかった。わずかな残存兵が地下壕に籠もり、ゲリラ戦を継続したのである。その戦いは、なんと敗戦後の昭和二十二年(一九四七年)四月まで続いたのだった。

 ペリリュー戦とは、そんな未曾有の戦いであった。

     ◆

 天皇皇后両陛下のぎようこうけいにより、ペリリュー戦の存在は以前よりも世間に知られるようになった。しかし、その実態には不明な部分が多く、特に守備隊長であった中川の生涯に関しては、そのほとんどが明らかにされていない。それは不思議なほどの「空白」のように私には思えた。私は少しでもその奇妙な空白を埋めたいと思った。

 中川州男とは一体、どのような人物であったのか。いかなる意思によってペリリューの戦いは行われ、そして終わりを告げたのか。

「サクラ、サクラ、サクラ」という言葉の背景を探る旅が、こうして始まったのである。

シェア ツイート
第一章 頑固だが純粋な「肥後もっこす」(1)

この作品では本文テキストのコピー機能を無効化しています

01