1万対4万2千、「玉砕の島」の守備隊長
戦死者10222名。最後に残ったのは34名。玉砕から75年、いま明かされるペリリュー戦の全貌。
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開戦後のパラオ

 だが、そんな平和で穏やかなパラオの地も、昭和十六年(一九四一年)十二月の日米開戦以降は、徐々に雰囲気が変わっていく。

 開戦時、日本軍はパラオを南方作戦の拠点として位置付けた。フィリピン攻略戦に参加した一部の兵力は、パラオから出撃した部隊である。前駐日パラオ大使であるミノル・ウエキさんはこう話す。

「戦争が始まってからは、尋常小学校が国民学校という名前に変わりました。その後、日本人の人口が増えていったため、第二国民学校もつくられました。国民学校では毎朝、北のほうに向かって宮城遥拝しました。それはパラオ人が通う公学校でもやっていましたよ。パラオ人も『私は立派な天皇陛下のせきになります』と。天皇陛下…

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