江ノ電に学ぶ、日本社会再生のヒント
わずか10kmの路線に年間1700万人(観光1200万人)超を引きつける「変わらないことの魅力」や「昭和の鉄道屋の心」など。

鉄道で何よりも大切な安全は、鉄道員の心意気で保たれている。

保線・土木の技術者が、小さな鉄道会社である江ノ電の社長になった。年末に自らの脚で全線一〇の線路の上を歩いて点検しつつ、そのいろいろな設備に詰まっている長い時間を思い起こし、線路を走る電車の乗客たちに思いを致し、地域の人々をおもんぱかって、今日も安全のために心血を注いでいく。

安全に快適を加えて、安心となる。鉄道員は日々の安心へと心を込める。

■「鉄道は生き物」

 私は二〇〇八年(平成二〇年)に江ノ電の社長に就任したのですが、毎年、年末になると自分の脚で江ノ電の全線一〇の線路を歩くことにしていました。

 一日をかけて江ノ電の線路の始点から終点までを歩き、自らの眼で直接、状況を確かめたかったからです。全線の徒歩による点検は、江ノ電に来る前、はこざん鉄道の社長だった頃から続けてきたことです。

 江ノ電は首都圏近郊に位置する鎌倉・藤沢地域を走っている小さなローカル鉄道です。経営者が自分の脚と眼で全線を確認できるのは、一〇と短い路線だからこそ可能なのですが、四〇年にわたり鉄道土木の現場で働いてきた私にとっては、一人の鉄道員として、本当にありがたいと感じられたものです。

 二〇一四年(平成二六年)に江ノ電の社長を退き相談役となってからは、後任の天野いずみ社長がこの徒歩点検を引き継いでくれました。冬場の線路を歩くことは、事務職出身の彼にとって少々つらい仕事でしょうが、変わらずに実施してくれたことで安心しています。

 ところで、この点検について、こうお考えの人もいらっしゃるかもしれません。

 「何も、社長が自分で線路を歩くことはないじゃないか。現場からの報告を信用していないのか」

 確かに、毎日、保線担当の職員たちが点検し安全を確保していますし、たった一日、社長が歩いたからといって何が変わるのかと、不審にお思いになるのも無理からぬところです。

 実際のところ、点検中の私の姿を目にした方は、ゴミ拾いばかりしていると思われたかもしれません。ゴミ袋を持って、線路上に落ちている空き缶、紙屑、ビニール袋などを拾っては袋に入れていく。はた目には、清掃をしているようにしか見えなかったでしょう。

 もし、社長が線路のゴミを拾うために、わざわざ一〇を歩くのだとすると、社員の気を引き締めるためのパフォーマンスと解釈されそうです。

 でも、私が全線を自分で歩く真の目的は、清掃ではありません。もちろん、線路内をきれいにすることにも意義はあるのですが、主な目的は別のところにあります。

 鉄道で最も大切なのは安全。

 これは鉄道に携わる者にとって、絶対の鉄則であり使命です。そして、経営者が最も心血を注ぐべきなのも、安全確保にあります。

 線路を歩くのは、それが経営者として、安全を守るために最も良いやり方だと私には思えるからです。

 鉄道が安全かどうかは、書類を見ただけでは分かりません。自分の眼で見て脚で歩くことでしか、確かめることのできない側面が多々あります。線路に立ち、現場を自分で感じなければ鉄道の本当の安全は確かめられないというのが、長年現場の技術者として働いてきた私の実感です。

 では、なぜ自分で現場を歩かなければ、安全は分からないのか。

 そうお尋ねの人に、私はこうお答えしています。

 「鉄道は生き物ですから」

 鉄道は生きている。だから、人が自分の五感で直接確かめなければ事実が分からない──。これが、四〇年にわたり現場を見てきた私の信念なのです。

 では、小さな鉄道会社の社長だった私が、一〇の線路の上で何を見て、何を考えながら歩いていたのか、実際の点検に即してお話ししていきましょう(江ノ電沿線図参照)。

■線路の外も鉄道の現場

 点検当日、私は作業服に防寒着をはおり、ヘルメットと安全靴をきちんと装着します。総点検のチームとして、各部署の担当者が同行しており、さらにチームの前後に一人ずつ列車監視員が立ちます。ちなみに、日頃、保線担当の職員たちが線路を点検するときにも必ず複数で行い、一人は列車を監視します。

 江ノ電は単線ですし、急カーブで見通しの悪い場所も多い。線路を歩くときには、運行中の電車を監視する大事な役が安全上、不可欠なのです。

 チームがそろったところで、その日の作業と安全注意事項を全員で確認の上、私は始発駅である鎌倉駅のホームの端からステップを降りて線路の上に立ち、次の和田塚駅へと歩き始めます。

 鉄道員は、線路の安全を点検するとき、線路はもちろん、周囲の土地や街の様子や変化も必ず見ながら歩きます。

 沿線周辺の土地も鉄道の現場である。

 これが鉄道員の鉄則だからです。

 すると、まず気づくのが、線路近くに民家が迫っていることです。

 江ノ電は、住宅や店舗など民家に非常に接近して走るという特徴を持つ鉄道です。古都・鎌倉、風光明媚な江の島を擁する藤沢を結ぶ鉄道として、観光客の皆様に人気をいただいているのですが、住宅すれすれに電車が通る様子は珍しいでしょうし、面白いと喜んでいただいています。

 喜ばれることはうれしいのですが、その一方で、民家の接近は安全という面で非常に気を使わねばならない点でもあります。

 私は民家の間の線路を歩きながら、足元の軌道だけでなく、周囲の様子にも必ず気を配ります。和田塚辺りも住宅が近くに迫っている場所の多い区間で、私は家屋を見上げながら、確認をしなければなりません。

 「あの家の木、枝がもう少し伸びると危ないな」

 私は同行してくれる担当者に話しかけます。

 「そろそろ、枝を切ってもらうよう、お願いしたほうが良さそうですね」

 言いながら、担当者がチェックリストに書き加えます。

 私たちが目を向けているのは、線路脇の家の庭木でした。その木は、去年までは問題ありませんでした。しかし、樹木は成長します。現場で見てみると、線路上へ枝を伸ばそうとしていたのです。

 こうしたことがあるので、現場を自分の眼で確認する必要があるわけです。鉄道の周囲の状況は絶えず変わります。樹木の成長もその一つで、見逃してしまうと、重大な事故に発展しかねません。

 その木の枝は伸びていると言っても、今は風もないので電車の運行に何ら支障はない程度に見えますが、強風が吹けば枝は大きくそよぎます。

 江ノ電は海岸近くの鉄道ですし、海から強い風が吹きつける土地です。線路沿いの樹木が風にあおられて、電車の架線に引っかかったり、車両にぶつかったりする危険には充分な注意が必要です。安全確保のために、伸びすぎた枝は切らなければなりません。

 ただ、いくら危険だからと言っても、私たちが勝手に枝を切るわけにはいきません。樹木はあくまでもその家の所有物だからです。事情をご説明して、所有者に切っていただくようお願いするわけですが、実際には当社で対応するケースが多いのです。

 このように、民家の近くを通る鉄道の安全を確保するには、自分たちの鉄道設備を点検するだけでは足りず、その周辺の変化にも目を向ける必要があるのです。

 庭の木の枝だけでなく、江ノ電の線路近くにはたけやぶもあります。竹もまた風にそよぐだけでなく、雪や大雨が降ればその重みに耐えかねて大きくしなることがあり、線路上に大きくかぶさってしまう危険が出てきます。

 そうした状況が起こらないか、私たちは線路上を歩きながら周囲に目を配って確認していくわけです。

■道路の変化が鉄道の安全に影響する

 さらに歩いて行くと、線路を横切る道路の舗装が新しくなっていることに気づきました。私は注意深く道路を観察します。

 時間の経過で変わっていくのは、樹木などだけではなく、街そのものも同じです。

 例えば、線路を横切る道路の変化も見逃すわけにはいきません。新しく道路が作られることがありますし、今までの道路が拡幅されることもあります。

 そうなると、当然のこと、交通量が変化し、今までよりも多くの自動車が通ることを想定しなければならなくなります。それまでの踏切の設備で不十分となれば、増強改善することが必要になることもあります。

 単に古い道路が新しく舗装されている場合でも、注意が必要になります。路面を新しく舗装すると、雨水が道路上を今までよりも流れやすくなるからです。勢いよく流れる雨水が、線路のさいせきを流してしまったり、がけの土砂を崩してしまったりする恐れもあります。

 事実、道路の雨水によって線路が冠水し電車を止めたケースがありました。

 私はまた担当者に尋ねます。

 「この舗装で、りゅうしゅつけいすうがかなり上がっていそうだけれど、大丈夫かい」

 流出係数というのは、降雨量と、地面に浸透されずに流れ出す雨水の比を表す数字のことです。

 「現状では問題ない数値ですが、もう一度、確認します」

 報告書を見ながら、担当者が答えます。万が一の事故も許さない対応は、鉄道の安全管理では常識となっています。

 私たち鉄道会社が直接に管理しているのは、軌道・電力線、通信信号設備などの線路であり、車両です。しかし、鉄道とは、線路と車両だけで成り立っているわけではありません。路線が通っている街や土地もまた、鉄道の一部なのです。

 鉄道が安全に確実に運行されるためには、自分たちが所有し管理している設備の万全さえ確保すればいいというわけではありません。鉄道が通っている街や土地の状況をきちんと把握しておく必要もあります。

 そして、街にせよ土地にせよ、状況は日々変わっています。

 私が「鉄道は生き物」だと感じるのは、そういうことです。私たち鉄道員は生き物である鉄道の状態を常に見極めるために、常に自分の身体で変化を感じ取る必要があるということなのです。

 鉄道の状況を自分で感じる必要があるのは、全ての鉄道員に共通だと私は思っています。現場の担当者に任せきりにするのではなく、現実的に可能ならば、経営トップも自分の脚と眼で確かめておくべきです。

 ただ、自社の全路線を歩くなどということは、総延長が何百もある大手鉄道会社のトップでは事実上不可能です。

 だからこそ、全線を自らの脚で歩ける小さな鉄道の社長に就任した私は、「恵まれているな」と、心から思ったのです。

 年末の総点検で線路を歩くことは、保線・土木の技術者だった私にとっては、本当に幸せな仕事で、毎年、楽しんで実行していました。

 自分の大切な職場である鉄道と、直接、話をするような気持ちでしたから。

第一章 10kmの線路を歩くトップ(2)

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