この島のことを、誰かが書き残しておかなければならない
「水納島はこの40年のあいだに明治から平成になったようなもんですよ」。年間7万人の観光客が訪れる沖縄県北西部の小さな島で、6日間の滞在中に聞き知った島の歴史や流れてきた時間。住宅のコンクリート化、沖縄返還、海洋博。40年前に電気と水道が開通したこの離島が見つめ続けてきた、沖縄と日本の記憶しておきたい歴史の姿。

1日目

 海辺の道をバスはゆく。645分に名護バスターミナルを出発した本部半島線は、市街地をぐるりと巡ったのち、国道58号線から国道449号線に入った。本部循環線とも呼ばれるこの道路は、沖縄県北部にある本部半島の輪郭をなぞるように走っている。他に乗客の姿はなく、貸切である。道路沿いには住宅が建ち並んでいる。新しい家は平らな屋根、古いおうちは瓦屋根。いずれにしても建物自体はコンクリートで造られているようだ。

「次は屋部やぶ、屋部でございます」。録音された声が次のバス停を案内する。屋部という地名には聞きおぼえがあった。那覇の牧志公設市場界隈を取材するなかで出会った「宮城紙商店」の店主・宮城敏行さんは、たしか旧・屋部村の出身だったはずだ。

「うちの父は、農業もすれば漁業もしていたんです」。ケータイからDropboxを検索すると、敏行さんの語りを文字に起こしたデータがすぐに出てくる。宮城さんの語りはこう続く。「うちは兄弟が8名いるんだけど、父は半農半漁で、お袋はお袋で豆腐屋をやっていたから、親の仕事をウンと手伝いましたね。まだ電気が通っていない時代で、電話も部落に1個だけ。風呂を沸かすのも、ごはんを炊くのも薪だから、よく山に薪を取りに行ってましたよ」

 昭和191944)年、8名兄弟の4男に生まれた敏行さんは、現金を稼げる仕事に就こうと、中学卒業と同時に那覇に働きに出た。牧志公設市場を中心とする〝まちぐゎー〟を取材していると、敏行さんに近い境遇の方とよく出会う。戦後の闇市に起源を持つまちぐゎーには、自然発生的に商店街が形成され、今日まで続いてきた。そこには那覇出身の人たちだけでなく、地元を離れた人たちも数多く働いてきた。ぼくは『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』という本を出版し、今は琉球新報で「まちぐゎーひと巡り」と題した月イチ連載を続けていて、そうした語りを那覇で聞き続けてきた。アーケードが張り巡らされたまちぐゎーを離れ、こんなふうにバスに揺られていると、視点が反転していくような心地がする。

 敏行さんがたどった道を逆行するように、風景が流れてゆく。現在の町並みを眺めてみても、電気が通っていなかった時代を想像するのは難しかった。小さな川が二つ流れている。この川沿いに集落が築かれてきたのだろう。「次は山入端、山入端でございます」。山に入る端と書いて、やまのは。地名の通り、少し先にでこぼこした山が見えてくる。バスに乗っていると、レンタカーで走るのと違って、土地の名前を知ることができる。

 バスは国道449号線を離れ、山入端の集落の中に入り込んでゆく。国道449号線は美ら海水族館方面へと続く道路であり、多くの観光客と同じように、ぼくも何度となくレンタカーを走らせてきた。でも、こんなふうに集落に入り込むのは初めてだったし、そこに集落があると意識したことすらなかった。勝山入口、第一安和、第二安和を通過すると、次のバス停はセメント工場前だ。名前の通り、そこには琉球セメントの工場が建っている。

 この一帯はかつて名護町だったが、戦後の復興を迅速に進めるべく、昭和211946)年に屋部村として独立することになった。土地の81パーセントを石の多い山林が占めており、耕作地に乏しく、村民生活は難渋を極めた。収容所から帰村した3代目の村長・吉元栄真は、屋部村タクアン事業計画を発案する。屋部村の名産品であるヤブ大根をタクアンに漬け、那覇で売り出そうという計画だ。群島政府に働きかけて資金をとりつけ、タクアン作りに邁進したものの、売れ行きは芳しくなく、ほとんどカビてしまった。

 多大の負債を抱えた村長は、今度は紡績工場の誘致を目指して立ち上がる。だが、群島政府の経済部長・呉我春信に掛け合ったものの、「紡績は経済的にも風土的にも沖縄には適さないと思う」と一蹴されてしまう。落胆する村長を前に、呉我は代替案を示し、「あなたの村には石灰石の山がある、それを利用したセメント事業なら調査費を出しましょう」と告げると、すぐに村長は翻意する。昭和271952)年には磐城セメントの技師を招聘し、実地調査をおこなったところ、原石の質量、工場敷地の条件、輸送ルートともに申し分なく、製糖事業とともに沖縄の二大産業になりうる可能性があるとの調査報告がなされた。

 写真・岡本尚文、監修・普久原朝充の『沖縄島建築 建物と暮らしの記録と記憶』によると、沖縄でコンクリート工法が普及したのは、「基地の建設にともなう多様な建築技術や意匠の影響」だという。また、昭和251950)年に米軍政府が民間に資金を貸し出す「琉球復興金融基金」を立ち上げ、台風やシロアリ対策のためにコンクリート造を推奨したことで、一般住宅のコンクリート化が著しく早まり、セメントの需要は高まっていた。しかし、事業は難航し、工場を操業して出荷に漕ぎつけたのは戦後20年が経過した昭和401965)年の春だ。以来、沖縄県唯一のセメントメーカーとして稼働し続けてきた。

 ここで生産されたセメントで、どれほどの建物が建てられてきたのだろう。バスの車窓から見える建物も、琉球セメントから生み出されたものなのだろうか。

 安和の集落を抜け、バスは再び449号線に戻る。まだ7時を過ぎたばかりだというのに─あるいは道路が混まない早朝だからだろうか─ダンプがたくさん行き交っている。道路が少しホコリっぽく感じる。左には海が広がり、右にはごつごつした岩山が続く。「石山原いしやまばる」という地名がぴったりだ。あちこちに採石場があり、山は削られている。塩川、崎本部と進むと、「ドライブインレストランハワイ」がある。ベルビーチゴルフクラブの看板に、水族館割引券の看板。風景が少しずつリゾート感を増してくる。瀬底大橋の前を通り過ぎ、「ザ・ビッグエクスプレス」というスーパーマーケットが見えてきたところで、バスは右折する。

 緩やかなカーブを描きながら、バスは集落に入ってゆく。セメント瓦の古い住宅。平たい屋根のコンクリート造住宅はクリーム色、黄緑色、レモン色と、思い思いの色に塗られている。歯科医院に写真館、美容室に金物店。昔から栄えてきた集落なのだろう、商店が軒を連ねている。民謡スナックにコインランドリー、鉄工所に自動車整備工場。谷茶たんちゃの停留所でバスを降りれば、200メートル先に渡久地港が見えてくる。

 初めてこの港を訪れたのは、今から7年前、2015年の春だ。その年、ひめゆり学徒隊に着想を得て今日マチ子さんが描いた漫画『cocoon』が、マームとジプシーによって舞台化されることになっていた。2013年にも舞台化された同作品を再演するのに先駆け、演劇作家の藤田貴大さんと、主人公のサンを演じる女優の青柳いづみさん、そして音楽を担当する原田郁子さんはリーディンライブグツアーをおこなった。ぼくはそのツアーに同行し、旅の途中でこの港に立ち寄ったのだった。

 渡久地港からは、水納海運が運航するフェリーが出ている。行き先は水納島という小さな島だ。リーディンライブグツアーの途中に、この島にある水納小中学校でワークショップを開催することになり、島に渡った。当時小中学校に在校していたのは、中学3年の島袋理輝君と、小学5年の湧川海色まりんさん、それに小学2年の宮里琉太君の3名だけだった。まずは3人に島を案内してもらい、海辺を歩いた。島の周囲にはリーフが広がり、砂浜には珊瑚のかけらが無数に打ち上げられていた。拾い集めた珊瑚を叩いて鳴らしながら歌をうたい、校舎を皆で練り歩き、ささやかな発表会をした。ワークショップを終えると、海色さんの父・湧川やすしさんが夫婦で営む民宿「コーラルリーフ・イン・ミンナ」にチェックインし、学校の先生や島の人たちを交えた宴会となった。早々に酔っ払ったぼくは、この夜のことをほとんどおぼえていない。おぼろげながらも記憶に残っているのは、皆で夜の海まで散歩して星を見上げたことと、桟橋に静かに浮かんでいたフェリーの姿だけだ。

 翌朝、島を出るとき、海色さんは桟橋まで見送りにきてくれた。フェリーが渡久地港に向けて旋回し、走り始めた瞬間に、海色さんは海に飛び込み、手を振って見送ってくれた。真っ白な砂と、きれいな天然ビーチ─島の風景も印象的ではあったけれど、それ以上にあの瞬間が、海に飛び込んだ海色さんの姿が目に焼きついているせいか、ぼくは毎年のように水納島に足を運んできた。

 バス停から港まで、キャリーバッグを引きずりながら歩く。ごろごろと大きな音が響く。こんな状況下だからか、いつもより音がうるさく響いているように感じてしまう。こんな時期に、キャリーバッグを引いてやってくる観光客なんて、白い目を向けられるに決まっている。PCR検査は陰性だったものの、だから安全だと言い切れるわけでもなく、ここに暮らす人には不安を与えてしまうだろう。

 でも、考えてみれば、コロナ禍になるまえだって、キャリーバッグを引いて訪れるぼくは、外からやってくる余所者に過ぎなかった。何度も足を運んできたはずなのに、この谷茶という集落にどんな歴史があるのか知らないし、水納島に行っても浅瀬でちゃぷちゃぷして過ごすだけで、そこにどんな時間が流れてきたのか、知っていることはごくわずかだ。生まれ育った土地を離れて暮らしている限り、どこを歩いていても余所者だ。何度も再訪を重ねた土地だって、自分が見過ごしたものがあふれている。

 8時半にフェリーターミナルのシャッターが上がると、一台、また一台と乗客がやってくる。観光客なんて自分だけかと思っていたけれど、水着の上にTシャツをまとった海水浴客の姿もある。水納島には美しい砂浜があり、マリンスポーツを楽しめることから、年間7万人もの旅行客が訪れる。

 9時ちょうどに高速船「ニューウィングみんなⅡ」は渡久地港を出港した。ぼくは後方デッキに立ち、フェリーが立てる水しぶきを眺めていた。港には漁船も停まっている。漁を終えて戻ってきたところなのか、漁師が船底を洗っている。新本部大橋のアーチをくぐると、進行方向の左手に瀬底島が、右手に伊江島が見える。フェリーは15分ほどで水納島にたどり着く。久しぶりに目にした砂浜の様子にぎょっとする。そこには巨大なショベルカーが3台あり、砂を掬いあげダンプに積んでいる。呆気に取られながらフェリーを降りると、例年であれば「海水浴場」と看板が出ているところに、「浚渫工事を行っています」と看板が出ている。読み方もわからず、途方に暮れていると、宿の祥さんが軽バンで迎えにきてくれた。

「あれは浚渫しゅんせつと言って、寄ってしまった砂を移動させてるんです」。祥さんがそう教えてくれる。「突堤だとか防波堤だとか、ビーチに構造物がいっぱいあるもんで、海岸線が壊れてしまってるんですね。航空写真を見るとよくわかるんだけど、潮の流れで砂が流されてしまって、突堤のまわりに溜まるんです。反対に、砂が流されたところは海岸線が削られてしまうから、原状回復というか、復旧工事をしてもらっているんですね」

 景気が良かった頃には毎年のように浚渫工事が行われ、海岸線が維持されてきたけれど、ここ数年は放置されたままになっていた。浚渫が行われるとしても、桟橋の東側にある定期船の停泊地が優先され、海水浴場である西側の海岸線はどんどん歪んできた。それがようやく、数年ぶりに浚渫工事が行われているのだという。

 祥さんの軽バンに揺られること1分、あっという間に「コーラルリーフ・イン・ミンナ」にたどり着く。他に宿泊客はおらず、5つある客室のうち、真ん中の3番の部屋に案内してもらう。6畳の和室で、テレビと冷房は完備されている。ただし、部屋の中にいるとソフトバンクの電波は繫がらないので、買い込んできたビールを冷蔵庫で冷やし、客室の前にある「食堂」のガーデンチェアに腰掛ける。この場所は屋根で覆われているものの、吹き抜けになっており、朝食や夕食はここでいただく。12食付で6000円。本来であればお昼ごはんはついていないのだけれど、島内のパーラーが休業していることもあり、特別にお昼も用意してもらえることになっている。ただ、今日だけは自分で用意してもらえないかと言われていたので、昨日のうちにどん兵衛を買っておいた。沖縄だと、西日本仕様のどん兵衛だから、見かけるとつい買ってしまう。同じように、沖縄のコンビニには東日本では終売となったカールが並んでいるので、こちらもつい買いたくなる。

「橋本さん、今日のお昼なんですけど」と祥さんが切り出す。「用事がなくなったので、今日も簡単なものでしたらお昼はご用意できますけど、どうしましょう?」。カップ麵はいつでも啜れることだし、お言葉に甘えて、今日のお昼も用意してもらうことにする。

 祥さんの言う「用事」とは、ニンジンの収穫だった。今日のお昼にニンジンの収穫をするつもりでいたけれど、先送りにするのだという。

「先月までフェリーが40日間もドックに入って検査してたから、代わりの小さい船しか出てなかったんですよ。だから、今年はあまり出荷できてなくて、まだ畑にニンジンが生えたままになっているんですね。出荷日に合わせて収穫しないといけないんだけど、露地栽培だから、雨が降ったあとじゃないと抜けないんですよ。今日なんか、絶対抜けない。船が欠航になると収穫しても出荷できなくなるし、タイミングを合わせるのが難しくて。今年はまだ3分の1も収穫できてないですね」

1日目(2)
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