「芸人は商品だ。だから大切に扱うんや。よく磨いて高く売れるようにしてやりや」
「芸人は商品だ。よく磨いて高く売れ!」 温かい”ファミリー”はなぜ”ブラック企業”と化したのか? ”伝説の広報”にして組織を知り尽くした男が初告白!!

第一章 「ファミリー」の崩壊

●日本中を騒がせた二つの記者会見

「世間の皆さま、我々のことを応援してくださっている方々、とんでもないとり返しのつかないほど迷惑をかけてしまっている関係者の方々、そして不快な気持ちにさせてしまっているすべての皆さまにおびさせてください。本当に申し訳ありませんでした」

 二〇一九年(令和元年)七月二十日。「雨上がり決死隊」の宮迫博之と「ロンドンブーツ12号」の田村亮は、目に涙を浮かべながら頭を下げた。

『フライデー』にスクープされた、いわゆる闇営業問題を受けての会見である。

 反社会的勢力とみなされる詐欺グループの忘年会に参加して、謝礼を受け取ったのではないかと問題視されたことから始まった騒動だ。

 芸人たちの忘年会参加を仲介した「カラテカ」いりしんは、即座に契約解除。忘年会に出席した芸人たちは、謹慎処分となった。そのうえで七月十九日には、宮迫のマネジメント契約解除が発表された。この会見が開かれたのは、その翌日のことだ(田村亮については契約解除が検討されていた段階だった)。こうした流れであったため、吉本興業の仕切りではなく、宮迫と田村亮が独自に開いた会見だった。

 冒頭に挙げた謝罪のあとに宮迫は、忘年会に参加して謝礼を受け取っていた事実を認めながらも、最初の段階では自分に謝礼が支払われている事実を把握していなかったと話した。その後、会見を開くまでのあいだに吉本興業やおかもとあきひこ社長とどんなやり取りがあったかの説明が続いた。この話が長かったうえに、さまざまな問題点をはらんでいた。

 謝罪会見のはずだったのに、内部事情をさらけだすような二時間半だった。ネットでは完全生配信され、大きなニュースになり、繰り返しテレビでも放送された。

 一部であってもあの会見を見た人は、何を思い、何を感じただろうか?

 この二日後には、岡本社長が五時間二十分にも及ぶおよそ中身のない会見を開いて、日本中を拍子抜けさせた。

 闇営業が問題の始まりでありながら、反社との関わりだけでなく、芸人と会社の関係性が見直されるきっかけにもなった二つの会見だった。

 ことさら吉本興業の暗部だけを取り上げたいわけではないのだが……。

 この章では、まだ覚えている人も少なくないはずの二〇〇〇年代に起きた二つの事件、「中田カウス襲撃事件」と「島田紳助引退騒動」を振り返ったうえで〝令和ショック〟を考えていきたい。

●「ビッグボス」がいなくなった日

 二〇〇九年(平成二十一年)一月九日に起きたのが、中田カウス襲撃事件だ。

 念のために書いておけば、中田カウスとは、漫才コンビ、「中田カウス・ボタン」のボケ担当である。コンビ結成は一九六七年(昭和四十二年)なので、芸歴は五十年を超える。デビュー当時はマッシュルームカットにジーンズといった姿で舞台に上がり、漫才界にファッション革命を起こした。若い女の子たちにウケるネタも得意で、漫才界では最初のアイドル的存在になっていた。告白すれば、私が小学生の頃、人生ではじめてサインをもらった芸能人がカウス・ボタンだった。いまはもちろん、アイドル時代の面影はない。どちらかというとコワモテのベテラン芸人の部類に入る。令和になってすぐに七十歳になった漫才界の重鎮である。

 そのカウスが助手席に乗るベンツが信号待ちをしていたとき、フルフェイスのヘルメットをかぶった男が突然、近づいてきた。そして、いきなり金属バットを振り回し、窓ガラスを割ってカウスの頭を殴打したのだ。

 突然のことだった。

 とはいえ、カウスの周辺は事件以前から騒がしくなっていた。

 吉本興業という会社が、明治や昭和の体質を脱して新しい時代に合った組織に生まれ変わろうとしていた中で「お家騒動」が起き、カウスも巻き込まれていたのだ。

 まず振り返っておけば、ビッグボスとして君臨していた林正之助会長が心不全で亡くなったのが、一九九一年(平成三年)のことだ。

 吉本の歴史にとっては、大きなターニングポイントである。

 この人の存在はそれだけ大きかった。正之助会長の葬儀・告別式は、社葬として、なんばグランドげつで行われた。「笑いの殿堂」で葬儀を行うのは異例のことであり、匂いがつかないようにと線香はかない配慮がされた。

 劇場の一階は政財界やマスコミ関係の人たちで埋まり、芸人やタレントたちは二階に入った。各界の大物の顔が見られ、参列客は約二千人にのぼった。

 漫才ブームをけんいんした「よこやまやすし・西にしかわきよし」の横山やすしにとっても、正之助会長は特別な存在だった。正之助会長に「育てられた」という思いが強かったのだ。にもかかわらず、身辺に問題が相次いでいたことから、一九八九年(平成元年)に契約を解除されていた。吉本発展の功労者でありながら、吉本から契約解除された数少ない芸人の一人になっていたのだ。吉本を離れたあとも映画に出演するなど、完全に芸能界から退いたわけではなかった。しかし、誰だかわからない相手から暴行を受けて体を悪くするなど、不遇の晩年を過ごしていた。

 会長の葬儀には、一人でこっそりと会場に現われ、二階席で泣き崩れていた。

「キー坊(西川きよし)さん(現・かつらぶんが司会しとるけど、ほんまはわしがあそこにおらんといかんのに……」とえつしていた。

 会場を中座したやすしはすっかりせて体を弱らせており、その姿をマスコミに撮られたくなかった。そのため劇場の外でマスコミ対応をしていた私は、記者を寄せつけないようにしながらやすしを肩に担ぎ、会場から離れたところに停めていた車まで送っていった。

 やすしの話は本題には直接関係ないが……。それだけ大きな影響力を持つ人が平成に入ってすぐに亡くなったということだ。

 屋台骨を失った吉本はここから揺れ動いていく。

 即座に騒動が起きたというよりは、組織にきしみが生じていたのだ。

●「創業家当主」が起こした、お家騒動

 正之助会長が亡くなったあとには、中邨秀雄副社長が代表取締役社長に就任した。七〇年代の吉本の再興に貢献した人物である。

 正之助会長の娘婿である林ひろあき氏は代表取締役専務だったが、この後に副社長、社長、会長とのぼりつめていくことになる。「家」という視点から見たなら、疑問が挟まれることはない昇進だった。しかし、この段階でもやはり目に見えない摩擦は起きつつあったのかもしれない。正之助というカリスマを失っていたからこそのことだ。

 二〇〇五年(平成十七年)に裕章会長が亡くなると、対立構造が表面化してしまう。

 裕章前会長の妻であり、正之助元会長の長女である林マサ氏が、創業家当主としてお家騒動を起こしてしまったのだ。マサ氏は、当時の経営陣に対して、自分と裕章会長の子であるまさ氏を「役員にしろ!」と迫ったのである。

 この頃、副社長になっていた大﨑洋現会長をホテルに呼び出して、暴力団関係者(元暴力団幹部)が脅迫していたことは『週刊現代』にもスクープされた。しかし、実際にはマサ氏は同席していなかったという。

 大﨑会長の自著にも近い評伝、つねまつひろあき氏の『笑う奴ほどよく眠る 吉本興業社長・大﨑洋物語』(幻冬舎、二〇一三年)の中でも記されているので、確かな事実だ。大﨑副社長が帰るのを許さず脅しつづけていたのだから、監禁という言い方もできなくはない。二十一世紀に入っていながら〝カタギの会社〟で行われるべきことではない。

 この直後、マサ氏は『週刊新潮』に告発手記を発表している。

「『吉本興業』は怪芸人『中田カウス』に潰される!」と題されたものだ。手記の中でマサ氏は、「カウスが山口組五代目わたなべよしのり組長との交流を公言し、その名をカサに着て吉本の経営に口出しをしている」ということを訴えた。

 翌週にもマサ氏は同じような内容の手記を載せたので、今度はカウスが『週刊現代』に反論の手記を出した。こうして、両者の争いはドロ沼化していったのだ。

 どうして突然、中田カウスという芸人の名が出てくるのか、と不思議に思われる人もいるはずなので、簡単に説明しておく。

 芸人の中でもベテランとなっていたカウスは、この少し前まで裕章、マサ夫婦とは、良好な関係性をつくっていた。良好というと語弊があるかもしれない。裕章会長の懐刀的存在になっていたのだ。

 この間、中邨秀雄元会長によるある疑惑が持ち上がっており、カウスは一定の役割まで果たすようになっていた。本来、芸人がやるべきことではない。そういう〝汚れ役〟までさせていた気兼ねもあったのだろう。裕章氏は、自分が会長になってしばらくすると、カウスを会社の「特別顧問」に就けている(のちにカウスは自分の意思で退任している)

 しかし、その裕章会長が体調を崩して入退院を繰り返すようになった頃から裕章会長、マサ氏、カウスの関係には変化が生じた。

 このあたりの事情については、ジャーナリストの西にしおかけんすけ氏がまとめた『襲撃 中田カウスの1000日戦争』(朝日新聞出版、二〇〇九年)が詳しい。この本に載せられているカウスの証言によれば、病床の裕章会長に対して、妻であるマサ氏は、はっきりと憎しみをぶつけるようになっていたのだという。

「あんたは孤独に病院で死になさい」

 そのような言葉まで口にしていたそうだ。理由はひとつではないにしても、裕章会長の女性問題などが原因ではないかと考えられている。

 病身の裕章会長に対してやいばを突きつけているようなマサ氏をよく思わなくなったカウスは、裕章会長が亡くなったあと、マサ氏と距離をおくようになった。そのためマサ氏は、カウスが「寝返った」ととらえたのである。

 この頃のカウスの動きについて、「計算高い」という言い方をする人間は、マサ氏のほかにもいなくはなかった。しかし、私はそんな見方をすることには疑問を持った。

 カウスとすれば、お家騒動や派閥闘争などに興味はなく、「吉本興業という会社を存続させて、自分が好きな漫才を続けていくためにはどうすればいいか」を考えただけだったのではないか、という気がするからだ。

 吉本興業は、激動の時代を乗り越えていく中で何度もかたちを変えながら大きくなっていった組織だ。進むべき道を見誤っていたなら、存続できていなかった危機は何度もあった。それを知っているカウスだからこそ、吉本興業という組織に先行きが怪しくなるような道を歩ませたくなかったのではないだろうか。

 保身というよりは本能的なものだったのではないか、と私は思う。

 当時、カウスからは半分シャレで「竹中さんはどこの側や?」と聞かれたこともあった。敵味方をはっきりさせたいといった意味ではなかったはずだ。当時の状況が嫌になっているからこその皮肉めいた問いかけだった。

「どこの側でもありませんよ。強いて言うなら、力のない側の冨井(宣伝広報室やNSCにおける私の直属上司)の下です」と笑って私は答えた。

 それで腹を割ってくれたのか、以来、カウスはいろいろな話をしてくれるようになったのだ。芸人やタレントとはあまり距離を縮めすぎないようにしている中にあり、比較的親しく付き合う仲になっている。

 この頃の吉本は、本当にキナ臭かった。

 社内にも創業家側の人間がいないわけではなかったので、「スパイがいるかもしれない」などといった声も聞かれていた。広報マンだった私も、何か情報を持っているのではないかと勘繰られていたのだから、たまらなかった。

 社内外からの極秘情報などを握っているだろうとも見られていたので、いつどのように狙われるかはわからない。そのため、資料や書類、カバンなどを荒らされたり奪われたりしないように気をつけながら、びくびくと出退勤していたものだ。

第一章 「ファミリー」の崩壊(2)

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