みずほ銀行誕生 その裏側を知る元バンカーの告白
そのとき、銀行で何が起こっていたのか? 銀行と日本経済がたどってきた道を振り返る意欲作

1章 手探りの国際化―終戦から内需主導の高度成長へ

19451970年の重要な出来事

19458月 第2次世界大戦が終結

194510月 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発足

19462月 金融緊急措置令・日本銀行券預入令を公布(預金封鎖・新円に切り替え)

194810月 大手銀行、財閥色がある行名を変更

(安田銀行→富士銀行、三菱銀行→千代田銀行、住友銀行→大阪銀行、野村銀行→大和銀行、第一銀行は帝国銀行から分離発足)

19494月 1ドル=360円の単一為替レートを設定

194912月 外国為替及び外国貿易管理法を公布・施行、輸出業務を民間に移行(輸入は19501月から)

19519月 対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約調印

19524月 対日平和条約(サンフランシスコ平和条約)・日米安全保障条約発効、GHQが解散

19528月 日本、国際通貨基金(IMF)に加盟

195212月 大阪銀行、住友銀行に行名復帰(千代田銀行は19537月、三菱銀行に復帰。帝国銀行は19541月、三井銀行に復帰)

19544月 外国為替銀行法を公布・施行

19559月 日本、関税および貿易に関する一般協定(GATT)に加盟

19567月 政府が56年度経済白書を発表、「もはや戦後ではない」と述べる

195612月 日本、国際連合に加盟

19637月 ケネディ米大統領、金利平衡税の導入などドル防衛策を発表

196410月 東京五輪開催

19652月 ベトナム戦争開始

19655月 日銀、山一証券に特別融資

19677月 第1次資本取引の自由化(19735月にかけ5次にわたる自由化を実施)

196910月 MF、特別引出権(SDR)創設を決定

197039月 日本万国博覧会、大阪で開催

解説

2次世界大戦で大打撃を受けた日本経済は、戦前の水準まで戻す復興期(19451954年)を経て、年率10%前後の経済成長を続ける高度成長期(19551970年)へ。米国は世界経済の覇権を確立し、日本にとって様々な要素が有利に働いた。

復興期のうちの7年間は米国の占領下にあり、供給力の回復を目指す日本政府が財政支出を増やすと、激しいインフレが発生した。1949年に占領軍経済顧問として来日したジョゼフ・ドッジによる均衡予算「ドッジ・ライン」でようやくインフレは終息し、1949年には1ドル360円の為替レートを設定して貿易取引を正常な形に戻していく。

戦後の混乱期は10年で終わり、高度成長期に入る。民間企業の設備投資が急増し、「投資が投資を呼ぶ」好循環が生まれた。「三種の神器」(白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)や「3C」(自動車、クーラー、カラーテレビ)といった耐久消費財が急速に普及し、生活の風景が急変する。技術革新が進んで日本製品の品質が向上し、輸出も拡大した。大手商社をはじめとする日本企業の海外進出も活発になった。

邦銀は、海外に進出した日系企業をサポートする業務を手掛けるようになったが、全体から見ると比重は小さかった。高度成長期にさしかかったときに富士銀行に入った橋本は、海外支店の開設などに携わり、国際業務の基礎を吸収する。

1.フルブライト留学と米国の実像

「おい、富士銀行に来る気はないか」。

大学4年の秋、母の知人である山本正明(後に沖電気工業社長)が突然、声をかけてきた。外交官試験に失敗し、別の就職先を探そうとしていた矢先だった。

学生仲間の中に、外交官を志す人が何人かいた。司法試験や公務員試験には全く関心がなく、公務員になるなら外交官がよいと思った。そこで外交官試験を受けたが、勉強不足、準備不足がたたった。

留年して再受験する選択肢もあったが、4人兄弟の長男であり、早く親に負担をかけないようにしたい。外交官試験も冷やかしで受けたところがあり、それほどの執着はなかった。商社でも受けようかと思っていたところだった。

東京大学に合格したころ、母が東京に一人だけ知人がいると紹介したのが、富士銀行に勤める山本であった。山本の自宅にはしょっちゅう通い、富士銀行の名前は知っていたが、就職は全く考えていなかった。

「銀行はあまり考えていなかったんですけど」と答えると、「実はな、今、常務取締役の岩佐凱實(いわさ よしざね)という人がいて、これからは銀行も国際業務に力を入れなければいけない、英語ができて国際業務に関心があるような学生がいたら採用したいと言っている」。

「それじゃあ、富士銀行を受けましょうか」と、101日に面接試験を受けに行った。副頭取の金子鋭(かねこ とし)がトップとして応対した。開口一番、「君は成績が悪いね」「そうですか」といったやり取りのあと、「だけど、聞くところによると英語がよくできるそうだけど、どうやって勉強したんだ?」「実は、高校時代にスウェーデン人の宣教師のお手伝いをしていました」「じゃあ何だ、君のは、スウェーデンなまりの英語だな」と意地悪な質問が続いた。

ああ不合格だなと思い、じゃあほかを受けようと思って帰ったら、夕方に採用通知の電報が届いた。後から聞くと、金子にいじめられた学生は入行していたようだ。こうして入行が決まったが、翌年(1957年)4月の入行時に、金子は富士銀行初代頭取の迫静二(さこ せいじ)の後を受け頭取に、岩佐は副頭取(後に頭取)に就任する。

橋本が大学卒業までに、どのように英語力を高めてきたのかは後に説明する。ここで話題になっている銀行の国際業務とは、外国為替、輸出入の資金決済に関わる業務である。

輸出入を増やしていた日系企業のサポート役で、銀行自身が海外市場に打って出るわけではなかった。輸入信用状(LC)の発行業務などが中心であり、輸入LCを開くには、海外の銀行とコルレス契約を結ばなければならない。銀行の国際部門は、海外の銀行と契約を結び、レールを敷く地味な仕事を担っていた。

日本経済の再建には、貿易振興以外に道はなし

少し歴史をさかのぼろう。終戦後の19459月、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は「降伏後における米国の初期の対日方針」を打ち出し、平和目的のために必要な原料などの輸入と、輸入の支払いを賄うのに必要な商品の輸出を許可するが、輸出入、外国為替、金融取引の統制を維持し、すべてをGHQの管理下に置くと宣言した。日本の銀行は、外国為替業務をストップせざるを得なかった。

しかし、富士銀行内では、日本経済を再建するには貿易の振興以外に道はないとの見通しを立て、やがて外国為替業務の拡充が必要になるとみて対策を検討していた。

後に頭取となる金子鋭は194510月、取締役業務部長の就任あいさつでこう語った。

「日本の経済は戦争で破壊されたうえ、資源も何もない。これからは戦前以上に貿易が重要になる。銀行でいえば外国為替の仕事が重要になってくる。

戦前、当行の外国為替は他行に比べて遅れをとっていた。しかし、戦時体制になってからは、どこの銀行でも本当の外国為替はなかった。今や同じスタートラインにあると考えてよい。これからどこがどれだけ勉強し、努力するかが勝負である」

金子の読みは的中する。東西の対立、冷戦を背景に米国は対日政策を転換させ、民間貿易を徐々に自由化したのである。

19478月、米政府は制限付きで民間輸出の再開を許可した。それまで輸出の相手は各国政府か政府機関に限定していたが、外国の民間業者との取引を認め、民間業者が来日して商談できるようになる。ただし、商談は仮契約にとどまり、日本側は貿易庁が契約の主体となった。商品の種類や価格の設定にも制限があった。

194712月、貿易庁と貿易公団は民間貿易に関わる経理事務の一部を日本の銀行に委託することになり、富士銀行を含む9行が「外国為替取扱銀行」の指定を受ける。委託事務の内容は、外貨表示の輸出荷為替手形の振り出しの代行、信用状の取り次ぎ、信用状と船積み書類の予備点検、円貨代金支払いの取り次ぎであった。

19488月、日本の民間業者が外国の業者と直接、契約を結べるようになった。日本の銀行は日本の輸出業者から受け取った船積み書類を照合し、在日外国銀行に持ち込む。外国銀行はこれを買い取り、GHQに外貨代金を払い込む。日銀は払い込み通知書に基づいて国の貿易資金特別会計から支払いを受け、民間銀行は日銀から受け取った代金を業者に支払う仕組みだ。銀行は輸出業者が振り出した手形を担保とする融資を増やしていく。

富士銀行内に「外国部」が発足し、国際業務が本格的にスタートしたのは19489月である。従来の本店営業部外国課は、外国為替業務に関する本部機能を備えていたものの、融資のりん議だけは審査部の審査を受けていた。外国部は本部機能と営業機能に審査機能も取り込み、独立色が濃い組織となったのである。

終戦から3年。民間貿易の再開で外国為替業務が急拡大しており、素早く動ける組織が必要になったのだ。外国部の人員は20人超。本店営業部外国課の総勢7人から急増したが、まだまだ小規模だったといえる。

輸出は政府から民間に中心が移ったものの、貿易資金特別会計を通じた円の支払いで決済するため、外貨の売買は発生しない。貿易金融とはいっても、実態は国内金融だった。

戦後の日本が民間輸出を再開した当初、大半を繊維製品が占め、貿易の中心は大阪だった。富士銀行の輸出取引も約8割が大阪での取引であり、行員が書類をリュックサックに詰めて夜行列車で東京に運んで処理していた。19481月に21000万円だった貿易手形融資の残高は、同年10月に137000万円となり、東京銀行に次ぐ2位、輸出荷為替の取扱高も19492月時点で全国取扱高の15%を占め、東銀に次ぐ2位となった。

夜間勤務が続く「外国部」

外国部の仕事は急拡大する。スタッフの養成や事務体制の整備が間に合わず、書類の様式作りから始めた。ナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク(現・シティバンク)から資料をもらい、辞書を引きながら作業を進めた。新入行員が輸出書類のチェックにあたることもあり、書類の山がなかなか片づかず、毎晩夜10時、11時まで仕事をしていた。

19492月、一部の商品を除いて輸出契約の承認権限が日本政府に移り、民間貿易が拡大する。3月に外国為替管理委員会が発足、4月には1ドル360円の対ドル為替レートがスタートした。

11月、富士銀行を含む11行が外国為替銀行の指定を受けた。富士銀行では外国為替取扱店として新たに31店舗が認可され、取扱店は計43店舗となった。従来は、在日外国銀行への取り次ぎが主な業務であったが、外国為替銀行は外貨を売買できるようになる。

外貨はそれまで外国銀行を通じてGHQに集中していたが、外国為替銀行を通じて委員会に集中する方式となった。

194912月、外国為替及び外国貿易管理法が施行となり、同月から輸出、19501月から輸入が民間に移る。19504月、外為銀行は在日3行、在米3行との間でコルレス契約を結べるようになった。

富士銀行の相手は、在日ではナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨーク、バンク・オブ・アメリカ・ナショナル・トラスト・アンド・セービングス、チェース・ナショナル・バンク・オブ・ザ・シティ・オブ・ニューヨークの3行、在米ではアーヴィング・トラスト、マニュファクチャラーズ・トラスト、バンク・オブ・マンハッタンの3行だ。

契約を結ぶと、海外の銀行との間で手形の取り立て、輸入信用状の開設、送金が認められる。同年6月にはドルも保有できるようになり、委員会を経由せずに在日外銀にドル勘定を設けて預けることが可能になった。インターバンク(銀行間)取引や資金操作などの外国為替・資金業務を拡大する素地が整ったのである。

19524月のサンフランシスコ平和条約の発効で、米国による資産差し押さえの危険がなくなり、同年6月、日本の銀行は海外のコルレス銀行に外貨勘定を持てるようになった。

第1章 手探りの国際化―終戦から内需主導の高度成長へ(2)

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