外交の「道徳的敗北」とは?
「戦後問題」を発端に刻一刻と悪化する日本の立ち位置。打開策を緊急提言!

第一章 戦後七○周年談話

近代日本をいかに総括するか

村山談話の重要性

 ドイツが歴史を乗り越えるには、虐殺の性格、東西の分裂、分析的な西欧の精神世界、そのほかたくさんの要因があった。

 同様に日本には、責任についての「線引き」の困難さ、統一国家としての条約処理の重要性、包括的な精神風土ほかたくさんの要因があった。

 そういう中で、いくたのはんもんを経ながら「村山談話」が形となり、ようやく世界の中に、いずれの国もやれなかった時代を先取りしたものとしての評価を得るための努力が始まり、また、日本的霊性に裏打ちされた思想としての理解をえられるかもしれない、そのときに、その意義を自ら砕くとしたら、誠に残念なことだと、私は考える。

 村山談話によって明らかになってきていることをもう一回考え、その立場を強めていくことにこそ、これからの日本が考えるべき方向性、考えを深めていく指針があるのではないだろうか。

 拙著『歴史認識を問い直す』(角川新書、二〇一三年、一四六ページ)

歴史問題の意味

 戦後七〇年がたって「歴史問題」がなぜいまだに解決されていない問題として議論の対象となるのか。国内においても非常に感情的な問題となり、国際社会でもいわば日本問題として繰り返し指摘される。この問題は、端的に言えば、先の大戦は何であったかという問題に帰着する。同時に、七〇年の戦後日本の在り方は何であったかというもう一つの問題にほうちやくする。

 それでは戦後日本人はこの問題にとんちやくで何も考えてこなかったかといえば、まったくそうではない。最近に至っても日本の有力な月刊誌『文藝春秋』に毎月と言ってもよいくらいとりあげられるテーマは、「先の大戦」が日本にとって何であったかというものである。さらに歴史学の方法と対象は大きく変化し、新資料の発掘が進んでいる。戦後作られていた歴史理解とずいぶん違った史実が登場し、それは時に我々の既存の見方に根本的な反省を迫るところがある。

 けれども戦前戦後のそういう様々な経緯を踏まえてなお、歴史問題についての現下の左右の対立は、もう克服しなければいけない。そうして、大まかな日本人としてのコンセンサスを基礎に、世界との関係でも和解の基礎となる立場を打ち出し、すぐに和解は実現されなくとも、徐々に日本をとりまく世界政治の焦点からこの問題を外していかねばならない。それが日本の国益である。

 左右と言う言葉を、必ずしも厳密に定義せずに使うことをお許しいただきたい。国内政治的、あるいは、論壇風にも厳密な定義をここで試みている余裕がない。普段新聞やテレビといったマスメディアで使われているような、左派と右派と言う言葉でご理解いただければと思う。

「台形史観」としての近代日本

 問題の根幹に、明治以降、先の大戦に至る日本の歴史は何であったかと言う問いがある以上、まず、これについての見方を示さねばならない。

 明治以降、先の大戦にいたる日本の歩みを解りやすく言えば、「台形史観」になる。それは、明治維新(一八六八年)を起点として、近代の日本は上昇しはじめ、約四〇年たらずの日露戦争の勝利(一九〇五年)をもってその上昇の目標を達成した。それから約二〇年あまり日本はいくつかの選択の間を揺れ動くが、まんしゆう事変(一九三一年)を起点として、いわゆる「一五年戦争」の時期を経て敗戦(一九四五年)に至り、結局、明治以降蓄積してきたものをほぼすべて失ったということである。

 問題が若干複雑になるのは、この最後の一五年が台形の下降線となったことは否定できないとしても、当時の日本のいかなるリーダーも、下降することを目指して政策を実施した人は一人もいなかったという事実に起因する。新たなる上昇に向かって日本を動かさねばならないと考えて行動したにもかかわらず、そのどこかで政策を間違えたがゆえに、結局蓄積したもののほとんどすべてを失った。

 さらにもう一つ、当時の日本人の多数は、戦局の不利が本土空襲を始めとして各所で明らかになっていくにもかかわらず、大義を信じて戦いを続けており、八月一五日の終戦は、いわば突然天から降ってきたもののように受け止めたという事実がある。大義のための歴史の頂点から一瞬にして歴史の底辺にたたき落とされたことの落差の中から、戦後七〇年の日本人の魂の遍歴が始まったように見える。

明治維新から日露戦争まで

 一九世紀のなかば、東アジアは、欧米列強の進出に遭遇した。その中で、日本のみがこれに抗して勝ち残り、当時の列強にす一流国となり、中国はアヘン戦争を起点とする「世紀の屈辱」の中におち、韓国は、日本帝国の一部となった。なぜ日本のみが欧米と肩を並べるまでに成功し、中国と韓国が失敗したのか。

 明治の成功の要因は、江戸という時代が持っていた力の延長で考えねばならない。士農工商という横割りと、幕府を頂点とする藩のアイデンティティという縦割り社会の安定性、そこから生まれた二六〇年の平和、そこから生まれた富と文化の蓄積、その終局期に幕府と雄藩の間に分散された力の均衡と指導者たちのもった情報・判断・実行力。それが、維新の原動力となった。

 同時に、体制の転換は、激動の時でもあった。「尊王じよう」は、列強の強圧に面した時の自然な反応であったが、それが薩摩と長州の列強との戦いにおける敗北と幕府の長州征伐の失敗により、「尊王」を軸とする大政奉還に至った明治の指導者の決断は、やはり驚異的だったと言わねばならない。

 その後の政策は、言わばなすべきものがなされた典型のように見える。時代の目標は、「富国強兵」と「脱亜入欧」に集約されていく。外交面では、江戸末期に締結した不平等条約の改正と国境線の画定が課題となるが、実質的には、大陸に対する日本の立ち位置を徹底したリアリズムを基礎に確定することが、この時代の最も緊要な戦略的課題となった。

 一八七一~七三年に外務きようを務めたそえじまたねおみは、ちようせん半島と台湾を勢力下におさえて、「半月形」にしん国に迫る策を立てた。最初の台湾出兵は七四年、征韓論を唱えた西さいごうたかもりを中央政府から排した明治六年政変(七三年)の三年後には日朝修好条規(江華条約)をもって韓国の開国を迫った。ここから後は、東学党の乱を機として参謀本部との連携の下に行われた陸奥むつむねみつの絶妙な外交指導による日清戦争の勝利まで、日本外交の展開はよどみがない。

 日清戦争で得たリアオトン半島を三国干渉により返還せざるを得ない事態に陥ったことは、政府のリアリズムを一層強化することとなった。大陸においてすぐに浮上したのはロシアである。明治政府は、しんしようたんによる軍事力の拡大と日英同盟による外交力の強化を図りつつ、満韓交換と満韓一体との間を模索するが、おうりよつこうを越えた韓国領内へのロシアの基地建設をもって対露開戦、一九〇五年、米国セオドア・ローズヴェルト大統領の支援をうけてポーツマス条約をもって劇的な終戦を迎えた。

 ここまでの日本史は、明治維新以降の国家上昇の物語であり、りようろうの『坂の上の雲』の語る国民の叙事詩である。アジア政策について別の策を主張した人たちがいなかったわけではない。たるとうきちの『大東合邦論』(一八九三年)おかくらてんしんの『東洋の理想』(英語原文一九〇三年)はその典型であろう。しかし、民間におけるこのアジア主義は政府が採用することにはならなかった。

 さてこの歴史を中国と韓国の側から見た時に何が映るのだろう。清においても朝鮮においても、結局のところ、時代の変化に適応した改革を実施できなかったことは否定のしようがない。こうしよてい(在位一八七五~〇八年)こうそう(在位一八六三~一九〇七年)という明治天皇とほぼ同時期の主君をいただき、「扶清滅洋」(一九〇〇年のだん、「衛正斥邪」(一八六〇年代のだいいんくんという「尊王攘夷」に類した対応をしながら、結局、東アジアをとりまく列強の力に抗すすべがなかったことを示している。

 中国・韓国から見れば、じゆつの変法(一八九八年)にしても、甲申の変(一八八四年)にしても、明治の日本にならった改革を志向する明確な方向性がありながら、結局国としては、中国は日清戦争の敗北と台湾の割譲により、韓国は日本からの開国圧力とその圧倒的な影響力の拡大により成功の日の目を見なかった。結果、今日に至る「反日」の土壌がこの時期からはぐくまれたといえよう。

日露戦争から満州事変まで

 日露戦争に勝利した時点での日本人の高揚感は想像に余りある。ここからしばらくの間、日本は到達した丘の上に広がった平原を前にして、様々な政策の間を揺れ動いたのではないか。

 戦後の東アジア世界は大きく変容する。列強の植民地分割とパワーポリティックスに参画した日本は、韓国併合(一九一〇年)に帰結する朝鮮半島への浸透を図るとともに、かつら・ハリマン協定の廃棄を端緒として満州に対するアメリカの権益の拡大阻止にかじを取る。

 かくて、南満州を日本が北満州をロシアがその勢力圏の下に置くという相互の利益範囲の確定を求めて四次の日露協商に進む。さらに、日露戦争に勝利した日本の強大さは、カリフォルニア州における日本人移民の排斥と土地所有の制限、禁止と、日本を仮想敵国とする最初の軍事作戦(オレンジプラン)の策定を呼び、太平洋をはさむ日米の緊張が高まることとなった。

 他方清朝は、しんがい革命(一九一一年)によって翌一二年に崩壊。しかし革命を主導しナンキンにて旗揚げしたそんぶんは国内を統一する力はなく、新ちゆうみんこくの大総統には、なんいんとんしていたえんせいがいが就任、一六年死去まで袁世凱の時代が続いた。

 この間一四年にぼつぱつした第一次世界大戦は「大正のてんゆう」をもたらし、日本はドイツのさんとう権益(鉄道及び鉱山)を接収する一方、山東権益を含む広範な利権を袁世凱政権への「二一カ条要求」として受諾を迫った。だが、パリ講和会議における山東権益の日本による継受承認は、利権の直接還付を要求する中国の猛反発を買い、国権回収のナショナリズムを盛り上げ、五・四運動(一九一九年)の展開につながった。

 この動きにもう一つ転機を与えたのがロシア革命(一九一七年)である。四次の日露協商に基づく日ロの提携は終わりを告げ、一八年八月日本は米国との共同出兵に踏み切り、米国が想定した限定出兵の規模をはるかに上回る七万の兵力をシベリアに派遣した。そしてニコラエフスクにおける邦人虐殺事件もあり、米国撤兵以後も自衛出兵として居残り、列強の中で最後まで駐兵を続けることとなった。

 国家間の利害が一挙にさくそうしはじめた状況下で、二一~二二年のワシントン会議によって、アメリカ主導の一つの方向性が現れ、日本もまたここからしばらくの間、この流れについていくこととなった。ワシントン会議は、海軍軍縮、日英同盟の廃棄と四か国条約の締結、九か国条約に基づく中国の独立と領土保全、門戸開放、機会均等の約束の三点を軸とする。軍縮についてはとうともさぶろう海相による「米英日五・五・三」提案受諾が、外交に関してはしではらじゆうろう全権の判断が大きな役割を果たしたとされている。さらに会議場外において、山東におけるドイツ権益の放棄、ニコラエフスク事件の保障占領としての北からふとへの駐兵を除くシベリアからの撤兵という、第一次世界大戦とロシア革命から積み残した案件を片づけたのである。

 これからしばらくの間日本外交、とりわけ対中国外交は、外務大臣となった幣原の考えを基調とし、国際協調主義・経済外交中心主義・内政不干渉の三原則を軸に進められることとなる。

 だが相手となった中国はこの間甚だしい混乱が続いた。キンは満州系の軍閥ちようさくりんが支配、二一年にソ連の支援を受けた中国共産党が成立、広東カントンに陣をとった孫文は二四年「北伐」を宣言し共産党との提携を実施(第一次国共合作)。しかし、二五年の孫文死去の後、その後継者となったしようかいせきは共産党のせんめつに舵を取り(安内壌外)、二八年の北京を最後に北伐を完成、南京を首都とする中華民国を樹立することによって、形の上での統一を回復した。国民党、共産党、軍閥の力が割拠する不安定な中国に対し、幣原三原則が有効な政策であったかについては各種の議論がある。

第一章 戦後七○周年談話 近代日本をいかに総括するか(2)

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