インターネットで人は本当に幸せになったのか
ネットが引き起こしたさまざまな事件事故、その真相を追う!

PART. I

青酸カリをめぐるドクター・キリコ事件

事件 情報が凶器となる

19981215日、東京の無職女性(24)が宅配便で受け取った青酸カリを飲んで自殺した。送り主は北海道の男性(27)で、自分が送った青酸カリで女性が自殺したとわかった直後に自らも命を絶った。

男性は、都内の主婦が開設したホームページ「安楽死狂会」内の掲示板『ドクター・キリコの診察室』に「草壁竜次」の仮名で参加、そこで知り合った自殺志願者に青酸カリを送っていた。大学では化学を学び、医薬品会社に就職していたこともあり、ある程度の薬剤に関する知識があった。

新聞やテレビがこの事件を報道し、論評したときの基本姿勢をひと言で表現すると、それは「驚き」だった。記事や社説に「インターネットに深い闇」「死への意図を抱えた共同体」「ネットの暴走」といった言葉がひんぱんに登場、そこには、インターネットは匿名で情報をやりとりできる「危険なツール」であり、違法な、もしくは未成年者にとって有害な情報があふれている、いまのうちに何らかの規制をすべきであるといった、自らの″発見″に対する驚きが、はっきりと、あるいは暗黙裡に示されていた。

同じ頃、ケータイを使った伝言ダイヤルで若い女性を呼び出して薬剤を投与、眠りこんだすきに金品を奪う昏睡強盗事件も起こり、いよいよ「情報が凶器になるとき」などと、情報社会の危険な側面が強調された。

メディア 「サイバースペース」の発見

日本人がインターネット上の情報空間、「サイバースペース」を“発見”したのはこの事件を通してだといっていい。

「サイバースぺース(Cyberspace)」は、SF作家のウィリアム・ギブスンが1984年に発表した『ニューロマンサー』(早川書房)で流布させた言葉で、訳者の黒丸尚はサイバースペースに「電脳空間」の訳をあて、ルビのかたちでサイバースペースとふった。

この小説は、特殊な電極を媒介として人間の脳とコンピュータ・ネットワークが結びつけられた21世紀末の物語である。そのイメージは暗く、奇怪で、猥雑でもあり、フィリップ・K・ディックのSF『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(早川書房)をリドリー・スコットが映画化した『ブレードランナー』(1982年公開)の舞台である、酸性雨降りしきるロサンゼルスのダウンタウンの風景に通じるところがあった。

サイバースペースという言葉をインターネット上の情報空間の意味で最初に使ったのは、アメリカのロックバンド、グレイトフル・デッドに詞を提供していた、ジョン・P・バーローで、彼は、インターネット上の表現の自由を脅かす通信品位法がアメリカ議会を通過したのに抗議して、有名な「サイバースペース独立宣言」を書いている。その後、サイバースペースは、インターネット上に成立した新たな情報環境を指す中立的な用語として、一般に使われるようになった。

本書でもその意味でサイバー空間(サイバースペース)という言葉を使う。ちなみに『広辞苑』(岩波書店)は08年発行の第6版から「サイバー」「サイバースペース」という用語を収録している。

吹き出した「自殺願望」と「闇の世界」

サイバー空間が「自殺サイト」を通して脚光を浴びたことは、社会に潜む鬱屈した意識が、新しいツールによって吹き出した(顕在化した)と考えることもできよう。

事件を報じた某新聞の社説に「インターネットのホームページを、『自殺』というキーワードで検索すると2万件以上の情報が入手できる。……。『殺人』で検索すると約34千件の情報が入手でき、『四十八の殺人技』など刺激的な内容が目につく」という記事があった。

「自殺」というキーワードで引っかかったページには、宗教法人や悩み相談室などが主催する自殺予防のものもあるし、「自殺マニュアル」「自殺相談所」などの名で、自殺を勧めたり、自殺の方法を紹介したりするものもあったが、パソコンを使えば誰もがその種の情報に接することができるインターネットという「闇の世界」のオープン性が、多くの人にショックを与えた。

もっとも、この社説の「四十八の殺人技」というのは具体的な殺人方法を伝授したものではなく、おそらく『暮しに役立つ48の殺人技』というパロディーサイトではないかと、当時、ネットで話題になっている。「サイバースペース大発見」にともなう微笑ましい?エピソードである。

エキセントリックな記事に抗うように、「青酸カリは生きるための『お守り』で、北海道の男性は積極的に毒物を売っていたのではない」との報道も行われている。「ドクター・キリコの診察室」を開設した主婦の話として、男性が「(青酸カリは)不思議なお守りなんだ。飲んでもらうためではなく、生きてもらうために渡した」「青酸カリの品質は5年しか保証できないけれど、5年後にはそれが僕の手元に帰ってくるのを待っている。そうしたら、また新しい『お守り』を送る。お金はいらない」と約束していたと紹介している(朝日新聞)。これさえあればいつでも死ねる、だから急いでいま死ぬ必要はない、そう考えることが自殺を思いとどまらせてくれる、だから青酸カリはお守りなのだ、ということだったようである。だから草壁竜次は、実際に死者が出たことにショックを受けて、自ら死を選んだらしい。

なお、事件より5年ほど前の93年、『完全自殺マニュアル』(鶴見済、太田出版)という本が出版され、ベストセラーになっている。筆者はフリーライター。クスリ、首吊り、飛び降りなど自殺の仕方や“名所”の詳述ガイドで、自殺者の傍らに本書が残されていたりした。

ドクター・キリコの診察室

「安楽死狂会」内の掲示板「ドクター ・キリコの診察室」は自殺願望を持つ人たちの話し合いの場として開設され、開設者本人がタイトルを考え、その“専属医師”を旧知の「草壁竜次」に依頼した。矢幡洋『Dr・キリコの贈り物』(河出書房新社)によれば、その案内文は以下のようになっていた。

     *    

無駄な苦しみを味わうことなく、安楽に、そして確実に逝きたい。誰もが願うことでしょう。

『完全自殺マニュアル』が出版されて既に5年ほどが経過し、あのなかのお薬情報も、時間の経過とともに、一部『ずれ』も生じてきたようです。5年たったいま、あのなかには紹介されていない、素敵なお薬も存在することでしょう。

眠るように、安楽に逝きたい。だけど、薬学の知識もなければ、化学のイロハも知らない。調べようにも、めんどくさい……(わたくしのことですが)。

キリコ先生は、薬学に関するエキスパートでいらっしゃいます。(以下、略)

キーワード ドクター・キリコ

『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)に1973年から83年にかけて連載された手塚治虫の代表作『ブラック・ジャック』に登場する医師。主人公のブラック・ジャックは無免許医師だが、神業ともいえるメスさばきで数々の奇跡を呼ぶ。この漫画に、治療の見込みのない患者は苦しませるよりも静かに息を引き取らせたほうが良いとの信念から、法律にふれないように安楽死を請け負う「ドクター・キリコ」が登場する(「死神の化身」というあだ名を持つと、初登場「ふたりの黒い医者」で紹介されている)。

補足

事件 昏睡強盗事件

199916日、神奈川県藤沢市の畑のなかで近くに住む女性専門学校生(20)の変死体が見つかり、財布がなくなっていた。遺体から睡眠導入剤の反応が出た。前年12月末に平塚市内の幼稚園内で凍死していた同市内の女性会社員(24)からも同じ薬物が見つかった。未遂に終わった1件も含め、3人は同じ伝言ダイヤルを利用しており、神奈川県警はほどなく都内出身の無職男性(23)を昏睡強盗罪で逮捕した。伝言ダイヤルで知り合った女性を誘い出して睡眠導入剤を飲ませ、うとうとしたところで金を奪い、そのまま寒空に放置したらしい。

未遂に終わった女子大生は、調べに対して、「伝言ダイヤルに『話し相手がほしい』とのメッセージを残したら、男性から電話がかかってきた。横浜市内の公園で『肌が美しくなる』といって勧められた錠剤を飲んだら意識がもうろうとしてきた。自宅マンションで気がついたときには財布がなくなっていた」と述べている。

メディア 伝言ダイヤル

86年にNTTが始めた伝言の録音、再生、追加録音ができるサービス。サークルなど仲間内での情報伝達が主な目的だったが、チャットルームのように使うこともでき、80年代末はいわゆる出会い系サービスの″走り″として人気になった。今回の事件で使われたのは、都内の携帯電話販売会社が開設した伝言ダイヤルだった。

PART. I(2)

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