なぜ医療現場のリスコミはうまくいかないのか
エボラ出血熱、デング熱、新型インフル……感染症の襲来による被害拡大を防ぐために必要なコミュニケーションの技術。

1章  リスク・コミュニケーション入門

1)リスク・コミュニケーションとは何か?

なぜ、効果的なリスコミが大切なのか

「はじめに」でも申し上げたように、リスクに対峙するときは、リスクそのもの「だけ」を扱っているのでは不十分です。リスクの周辺にあるものに配慮し、効果的なコミュニケーションをとることが大事になります。

 世の中にはたくさんのリスクがあります。多くのリスクは、単にひとりの人に対するリスクではなく、複数の人を巻き込みます。

 我々はリスクに関する情報をあちこちから入手します。意識して集めることもあれば、なんとなく耳に入ってくることもあります。前者の例としては、インターネットによる検索作業、後者は例えば、テレビのニュースから飛び込んでくる情報がそれにあたります。

 2011年の東日本大震災のときにも、たくさんの情報が飛び交いました。ちょうどツイッターやフェイスブックが普及しだした頃で、こうしたソーシャルメディアを用いた情報収集、情報発信も盛んに行なわれました。役に立つ情報もあれば、役に立たない情報もあり、露骨なげん・デマも飛び交いました。

 テレビの影響力も相変わらず大きなものでした。私たちは自動車や家屋をなぎ倒していく津波の映像に恐怖し、東電福島第一原発の爆発映像にせんりつしました。不眠不休で記者会見を行なう政治家に感動したり、不適切な発言をする政治家に怒りを覚えたり、失望したりしました。

 このように、リスクにはコミュニケーションが非常に大きな影響を与えています。効果的なコミュニケーションは、リスクそのものを減らしたり、リスクに付随するパニックを回避するのに有効です。逆に、稚拙なコミュニケーションは、リスク回避失敗に直結し、リスク以上のパニックをじやつします。

 効果的なリスク時のコミュニケーション、すなわちリスク・コミュニケーションがとても大切だということがご理解いただけましたでしょうか。

なぜ、感染症か

 では、感染症というリスクについて考えてみましょう。感染症においてもやはり、効果的なリスク・コミュニケーションは非常に重要です。

 感染症とは、微生物が原因になる病気のことをいいます。そこには、他の病気にはない、いくつかの特徴があります。

 まず第一に、当たり前のことですが、感染症は感染します。つまり、人にるんです。ときに動物から、ときに人から、ときに食べ物や飲み物から……。心筋梗塞も、癌も、アルツハイマー病も怖い病気ですが、直接外からやってきたりはしません。

 この「外からやってくる」というイメージが、感染症に特有の、ある種の恐怖を付随させます。

 実際には、やってくるのは感染症の原因である微生物であって、感染症という病気「そのもの」ではありません。でも、イメージとしては、病気「そのもの」が外からやってくる感じです。多くの人にとって「ばいきん」=「感染症」ですから。医療者の中にすら、いや、感染症専門家と自称する人々の中にも、そういう誤ったイメージを持っている人は多いものです。

 第二の特徴は、感染症の原因は、ほとんど目に見えないということです。インフルエンザ・ウイルスも、結核菌も、肉眼では見ることができません。目に見えないものがでんするという不確かさが、恐怖に拍車をかけます。

 まれに、目に見えるものも「感染症」を起こすことがあります。例えば、さなだむし。しかし、こういう目に見えるものは、たいていオドロオドロしい格好をしており、恐怖は増幅されることはあっても、減じることはありません。「条虫ってかわいい」なんて思うのは寄生虫マニアだけです(ちなみに岩田はかわいいと思います)。

 それから、感染症を媒介するもの(ベクターといいます)も無視できません。こうしたベクターには、蚊とかダニとかノミがいます。こういう「ムシ」たちも、見た目に恐ろしく、ダーティーなイメージも強く、人に嫌悪感や恐怖感を植え付けます。

 第三の特徴として、感染症はときに、短期的に集団発生します。ときに局地的に発生し、場合によっては世界中を巻き込んで広がっていきます。これも、心筋梗塞や癌やアルツハイマー病にはない特徴です。

 とくに現代では、交通が非常に発達し、諸外国で流行した感染症も日本に容易に入ってきます。2014年のエボラ出血熱は、短期的に西アフリカでぼつぱつし、広がっていきます。昔だったら「遠いアフリカの出来事」で片付けられていたかもしれない感染症に、極東は日本の我々が怯える時代になっています。

 2009年に流行したH1N1インフルエンザは、当初、メキシコで局地的に流行していましたが、またたく間にアメリカ、カナダと広がっていき、日本も含めた世界中で流行しました。

 こういう世界的な流行のことを「パンデミック」といいます。

 一世紀近くさかのぼる1918年にも、インフルエンザのパンデミックは起きました。俗に「スペイン風邪」と呼ばれるこのときのパンデミックでは、世界中でインフルエンザが流行し、実に4000万人もの死者が出たといいます。

 スペイン風邪と同時期に、第一次世界大戦が起きましたが(19141918年)、このときの戦死者(非戦闘員含む)が1000万〜2000万人程度と言われています。当時、スペイン風邪というパンデミックが、いかに大きな恐怖を社会に与えたかが容易に推察できます。

 ときに、このスペイン風邪はなぜ「スペイン風邪」と呼ばれているのか。実は、このときのインフルエンザの流行はアメリカから始まったそうなのですが、第一次世界大戦の影響を受けなかったスペインからの情報発信の影響が大きかったのです。それで「スペイン風邪」と名付けられたようです。こういうところでもコミュニケーションの影響が出ています。

 短期的に集団に影響を及ぼす感染症の流行は、自然災害にたとえられるかもしれません。地震や津波、台風や大雨と似たような性格を持っています。いや、自然界がもたらした感染症の流行は、自然災害「そのもの」と呼んでもいいのかもしれません。

 このように、感染症には他の病気にはないいくつかの特徴があります。そのため、感染症には独特の恐怖感を惹起する効果があるのです。その恐怖は、ときにまっとうなものであり、ときに的を射ていない恐怖です。だからこそ、効果的なリスク・コミュニケーションが重要になってくるのです。

リスク・コミュニケーションとは?

 では、リスク・コミュニケーションとはいったいなんなのでしょうか。

 リスク・コミュニケーションは、テクニカル・コミュニケーションの一種です。

 テクニカル・コミュニケーションとは、科学や技術(テクノロジー)に関する情報についてのコミュニケーションです。子どもから、新しい技術や道具を扱う労働者、科学者まで、いろいろな人に活用できます。テクニカル・コミュニケーションの目的は、情報伝達、教育、あるいは説得です。

 リスク・コミュニケーションは、リスクを伴う場合のテクニカル・コミュニケーションです。健康、事故防止、環境問題など、さまざまなリスクを扱います。やはり対象者はいろいろな関係者すべてになります。例えば、シートベルトに関するリスク・コミュニケーションは、シートベルトを使うすべての人(子どもを含む)に適用できます。

 コミュニケーションの対象となるリスクは、ときに恐怖を惹起します。逆に、そのリスクに対して無関心だったり、気づいていないこともあります。「このようにリスクに対応しましょう」というメッセージを出しても、「そんなのムリムリ」と思ってしまい、メッセージが伝わらないこともあります。

 厚生労働省は以前、日本脳炎にかからないようにするために、「外出するときは長袖、長ズボンを着用して、肌を露出しないようにしましょう」とメッセージを伝えました。

 日本脳炎というのは蚊が媒介するウイルス感染症です。確かに、蚊に刺されないようにするには肌を露出しないのが好ましい、というのは事実です。しかし、日本の夏休みに、子どもに向かって「外に出るときは長袖、長ズボンにするんだよ」と言う親が、いったいどれだけいるでしょうか。「そんなのムリムリ」と思うのが普通ではないでしょうか。

無関係な人の参画で生じるさらなるリスク

 そもそも、聞き手がそのリスクとは全く無関係だったりして、会話がみ合わないことすらあります。

 典型例は、STAP細胞に関する騒ぎです。

 STAP細胞ができたと主張する論文は大きな話題になり、その論文の妥当性に疑いが生じたときは、多くの人たちがこのトピックを論じ、議論がなされ、怒りが表明されました。その実、そういう「騒ぐ人たち」のほとんどは細胞生物学の素養も関心もなく、普段『ネイチャー』や『サイエンス』といった専門誌を読むこともなく、STAP細胞とは直接的にも間接的にも何の利害関係もない人たちでした。

「いやいや、STAP細胞ができていれば、将来医学的にそのような恩恵を受けて……」なんていうのは、まさに「机上の空論」です。ノーベル生理学・医学賞の対象となったiPS細胞でさえ、その臨床応用がいつできるのか、どのくらいできるのかすら、不透明なところが大きいのですから。

 そこにはかつぽうを着た若い女性科学者のサクセスストーリーとその没落を、愉快に、あるいは嫉妬心・ルサンチマンを込めて騒ぎ立てるヒステリーがありました。「こいつは殴っても誰にも文句は言われないらしいぜ」という免罪符を得た人たちが、として人をタコ殴りにするような非難集中が起きました。

 私はSTAP細胞の論文が妥当だ、と擁護しているのではありません。「妥当ではない」「間違っていた」という理由で、関係のない人が外野から、理不尽なまでに石を投げ続けた事実がヒステリックだったと言っているのです。

 悪い行為を罰することは妥当ですが、罰するのは法や規則であり、私人(メディアを含む)が人を罰するのは、リンチ(私刑)です。結局、この騒ぎは、ひとりの人間の死にまでつながってしまいました。リスクと無関係な人がよけいなコミュニケーションに過剰に参画して、「人の死」という新たなリスクが生じてしまったのです。

第1章 リスク・コミュニケーション入門(2)

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