「大きいのをとった奴の方がえらい」
「クワバカ」とは、クワガタを愛し過ぎて、人生を賭してしまった男のこと。そんな男たちを描く昆虫ノンフィクション。

1章 魔性のクワガタ

クワガタ界のカリスマ

 魔性のクワガタ──。

 クワガタ愛好家を狂わせることから、そう呼ばれるクワガタが存在する。それがマルバネクワガタだ。

 マルバネクワガタ界隈の話になると、必ずといっていいほど「サダキ」の名前が挙がった。

 さだりようすけ。一九七〇年、東京生まれ。

 定木はマルバネ採集家の間では、どこか神のような扱いを受けていた。彼らが「定木さん……」と口にするとき、そこには最大限の畏敬の念が付着している。

 のちに定木と頻繁にコンビを組むことになる杉原ひでゆきが言う。

「僕らの世代にとって、定木さんは、ひと言でいうとカリスマ。たとえば僕がポイントを案内しているのに、僕より成果を上げる。センスというか、嗅覚が人と違うんだと思います。かといって、絶対にそれを自慢したりしない。杉原君のお陰で……って言ってくれる。基本、無口な人なので、近寄りがたい雰囲気もありますけど、一対一になるといろんなことを教えてくれますしね」

 また、プロローグで登場したカメラマンの西野は、定木の「研究者」としての側面をこう評価する。

「虫屋は、世間ではコレクターの部分ばかりが強調されますが、在野の研究者の役割も担ってます。その意味において、定木さんは、絶対に嘘をつかないし、誇張しない。それは研究者にとって欠かせない資質だと思います。寡黙で、禁欲的なので、とっつきにくい印象もありますが、どこまでも真面目で、始めたことは途中で投げ出せない人」

 私が定木に初めて会ったのは、二〇一七年暮れだった。

 マルバネに一度は身をがした経験を持つクワガタ屋たちの忘年会が毎年、都内で開催されている。その会に私も参加させてもらったのだが、そこに定木もいた。

 初めて見た定木は、うわさ通り、物静かな印象を受けた。大声を出すわけでもなく、談笑するわけでもない。自ら誰かのところへ話しかけに行くのではなく、寄ってきた人と淡々と言葉を交わしていた。

 そんな冷静さの中にある「熱」を知ったのは、翌年春、インタビューをさせてもらったときだった。定木は沖縄県那覇市近郊に住んでいた。定木も南西諸島のクワガタに魅せられ、移住を決意したうちの一人だった。

 最初のインタビューは沖縄の、いかにも沖縄風な居酒屋で酒をみ交わしながら行った。

 その席には、定木のクワガタ仲間であるはやしたつひこも同席した。林は沖縄でインセクトマートというクワガタをメインとした昆虫ショップを経営していて、定木より六歳年下だった。林は定木とは対照的に弁が立ち、いかにも才気走っていた。仲間内では「将来、どんな大物になるのか」と噂になっていたというように、ビジネスマンになっていたら、とんでもない成功者になっていたのではないかと思わせるような人物だ。

 マルバネに対する経験、実績、執着。この三項目で総合得点をはじき出したら、おそらく定木と林は日本全国で一位、二位になる。マルバネ採集家の中では、双璧といっていい存在だった。

 取材現場は三人して、生のオリオンビール一本鎗。なみなみとビールが注がれた中ジョッキが、気持ちいいくらいに次々と空になっていった。スタートが遅かったこともあり、あっという間に夜一二時を回る。そんな中、定木は酔った様子もなく、静かに燃え続けるおきのように語り続けた。

 その様子は、クワガタ採集のときも、きっとそうなのだろうなと想像させた。ペースを変えず、だが粘り強く、目的達成のために燃料を燃やし続ける。

 定木は東京都板橋区で生まれ育った。物心ついた頃から生き物が好きだったが、周りに昆虫採集ができるような自然はなく、私と同じように、近所の原っぱでバッタを捕まえるくらいのことしかできなかったそうだ。

 ただ、片思いほど思いが募るのと同じように、手が届かないという状況がクワガタへの憧れを強くした。

 そんな定木に運命の一歩を踏み出させたのは、高校時代に手に取った一冊の本だった。

「ポケット図鑑のような本だったんです。『クワガタ・カブトムシ』みたいなタイトルだったと思います。子ども向けの本かと思ったら、そこには、どこに行けば、どんな種類のクワガタが採れるか書いてあったんです。オオクワガタの産地として、はるとかにらさきの名前が出ていて。なんだ、山梨県かと。それまで雲の上の存在だったオオクワが、急に身近な存在になった気がしたんです」

 オオクワガタと言えば、かつては間違いなくキング・オブ・クワガタだった。

 幻のクワガタと言われ、長い間、その生態は謎に包まれていた。ところが、一九八〇年代に入り、コアな愛好家たちの間で、頻繁に日本全国の捕獲情報が飛び交うようになった。

 一九七一年創刊の昆虫専門誌『月刊むし』(むし社刊)が一九八六年七月号において、初めてオオクワガタ特集号を組んだことがエポックメイキングになった。編集長であり、むし社の社長でもあるふじひろしが思い出す。

「月刊むしは、アカデミックな内容が多いんです。なので、たまには気休めで、ちょっとミーハーなテーマでつくってみようかなとオオクワ特集を組んだ。そうしたら、いつもは三千部ちょっとだったのに、二万部くらい売れたんです。二トントラックで三台分ぐらいあったかな。それが業界で噂になり、一気に六誌ぐらいクワガタ雑誌が創刊されたんです。今はもう全部、なくなっちゃいましたけど」

 昆虫の世界では、愛好家のことを「虫屋」などと呼ぶ。クワガタやカミキリムシを始めとする甲虫の専門家は「甲虫屋」、クワガタにしか興味を示さない人は「クワガタ屋」といった具合だ。

 藤田の得意分野はクワガタとカミキリムシで、これまで百種類以上の新種を発見している。つまり「甲虫屋」だ。藤田は虫屋の世界では知らぬ人のいない権威であり、巨人だ。一見すると、紳士的で穏やかだが、虫への情熱はやはり常軌を逸したものがあり、図鑑や書籍など何冊もの著書を持つ。

 一九八六年の『月刊むし』オオクワガタ特集ですでに「黒いダイヤモンド」という表現が使われている。この頃はまだ稀少性を表現する言葉だったが、のちにオオクワ売買がエスカレートしてくると、メディア等では高額であることの代名詞として定着していくことになる。

 もちろん、この頃から、マニアの間では、すでに高額で取り引きされるようになっていた。一九八九年のあるショップの生きている状態のオオクワ販売リストを見ると、「六五ミリ、四万五〇〇〇円」「六六ミリ、五万四〇〇〇円」「六七ミリ、六万四〇〇〇円」「六八ミリ、七万五〇〇〇円」「六九ミリ、八万七〇〇〇円」となっている。

 六五ミリ以降はきれいに約一万円ずつ上がっていき、六九ミリになるとその値上がり率が少し高くなる。このリストは六九ミリまでしか載っていなかったが、おそらく七〇ミリになったら安くても一〇万円はしたはずだ。そして、七〇ミリからの一ミリアップは、下手したら倍額になっていくくらいの価値があった。

 ひとまず、七〇ミリのオオクワガタというのは、その頃、クワガタ屋の一つの究極の夢だった。そのクラスの個体は、生涯をオオクワ採集にかけて採れるか採れないかというラインだ。

 そうした投機性も相まって、定木が高校生になった頃、オオクワ採集は大人の遊戯として急速に広まっていった。

 今の何十倍も情報が貴重だった時代、オオクワ採集というマニアな世界の情報は子どもが簡単に触れられるようなものではなかった。

 それだけに、山梨にオオクワガタが生息しているという情報を得ただけで、定木は金庫の鍵を手に入れたような気分になった。

「まあ、錯覚だったんですけどね。それから大変でしたから……」

 定木が真っ先に目指したのは山梨県韮崎市だった。大阪府町、佐賀県ちくがわ流域と並びオオクワガタ三大産地と呼ばれる中の一つで、関東におけるオオクワの聖地である。いずれの地もオオクワガタの発生木である良質なクヌギが豊かだという共通点がある。

 関東のクワガタ愛好家たちは、当時、シーズンになると大挙して韮崎に押し寄せた。定木が話す。

「クワガタ好きの原点は、オオクワガタ。『〇時一分新宿発しも行き』というのがクワガタ仲間の合言葉になっていましたから」

「〇時一分新宿発下諏訪行き」というセリフが淀みなく出てきたことからも当時の記憶の鮮烈さがうかがえた。定木が続ける。

「三時間ぐらいかけて、夜中に韮崎に着くんです。そうすると、いかにもそれっぽいやつが一緒に降りたりする。脚立をかついでいたり。そういう僕もかついでいましたが。そうやって知り合うというのが、当時、唯一の仲間のつくり方でしたね」

 私が小学生だった頃、オオクワガタは稀少なだけでなく、採集自体、ほぼ不可能だというようなニュアンスで語られていた。

 とても大人しく、普段、木にできたうろ(穴)の裏などに身を隠しているため、人目に触れることがない。誰も入ってこない山奥の、誰の目に触れることもないクヌギの中でひっそりと眠り、誰の目に付くこともなく静かに生命を全うする。それがオオクワガタのイメージであり、私の中では、生涯お目にかかることなどないだろう、正真正銘の幻のクワガタだった。

 定木が答える。

「そうそう。オオクワガタというのは、木の裏側というか、洞の中に潜んでいるんですよ。それが夜になると餌を食べに出てくる。夜中、森の中を歩き回って、その瞬間を狙ってました」

──それで、けっこう採れたんですか?

「いや、採れないです」

──一年に?

「何匹か……ですね」

 その労苦を想像するだけで、ため息が出た。

「大変だったんですよ。でも、その大変さがまた魅力で、みんなハマったんじゃないかな」

第1章 魔性のクワガタ(2)

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