「琉球検察は歴史の暗闇に消えた」
米統治下の沖縄に存在した独自の司法組織「琉球検察」。シマの歴史を背負い、米国と日本の間で苦闘し、本土返還とともに封印された琉球検事の生き様が、証言によって現代に甦る。

  装幀/Malpu Design(清水良洋)

  本文DTP/アイランドコレクション

1章 支配下の「独立」

■性善説の刑法典

 東京・霞が関の法務省内に、琉球王朝時代の刑法典「琉球科律」が保存されていることは、ほとんど知られていない。

 琉球王朝によって琉球科律が定められた1775年、日本本土はまだ江戸時代である。明治憲法が成立する以前に琉球王朝によって制定されたその法典は、明治以降、欧米中心の法受容を進めた日本の法文化のなかで異彩を放っている。

 王朝時代から続く島々の司法制度は、日本本土のものとは全く異なって来た。中国の影響を強く受けながら、本土に先駆けて欧米列強との交流のなかに生きてきた沖縄は、独特の国際感覚を早くから育んだ。

 1786年、琉球王朝、尚穆王時代に科律(刑法典)が公布される。それは琉球の慣習や特殊性を勘案した内容ではあったが、基本的には中国法を踏襲したものとされた。日本本土で明治維新後に廃藩置県が行われる頃までは、「琉球科律」は、中国を除けば、東洋ではもっとも先進的かつ精緻な刑法典であったという自負が沖縄にはある。

 明治の廃藩置県の頃の逸話がある。琉球科律に接した日本の官僚が、その素晴らしさを讃えつつも、こう言ったという。

 「中華に比べて民度文物猶幼稚の域にある南島の民に施すには、遂に、長鞭は馬腹に及ばざるの憾あるを免れず」

 琉球にはもったいないほどの刑法典だ、という主旨だった。

 しかし、いかに法典として優れていても、科律そのものが適用されるケースは決して多くはなかったという。

 そもそもの制定目的は「万民をして習染の悪をさらし、固有の善に復らし、専ら刑なからしめんため」とされた。

 人間にもとよりあるべき「善」の性質を重視し、本来の姿に立ち返れば決して刑罰を必要としない。これは科律が人間の性善説に基づいていることを表し、それこそが琉球固有の法観念として、のちに琉球検事たちに受け継がれ、その気概を育くむことになる。

■「琉球」に込めた思い

 1879年、明治維新を経た日本は琉球藩を廃し、沖縄県として日本帝国の版図に組み入れた。天皇への崇敬心を養う皇民化計画も、時局と共に強まっていった。太平洋戦争末期、沖縄は米軍を中心とする連合軍と日本との最後の激戦地となった。

 19458月、敗戦によってアメリカの沖縄統治が始まった。8月には沖縄本島、12月には宮古島、八重山諸島に行政府が置かれた。翌462月、司法を所管する「司法府」設置に伴って、沖縄本島、奄美、宮古、八重山それぞれに裁判所と検察庁が設けられた。

 52年、日本と連合国との平和条約に基づいて、アメリカの統治機関である米国民政府(USCAR)のもとで、沖縄に自治政府が設立されたとき、住民たちはその名を、日本のにおいがする「沖縄」ではなく、「琉球政府」とした。

 第二次世界大戦中、米軍側もまた、「オキナワ」よりも「リューキュー」「リューチュー」と呼ぶことが多かったが、沖縄の人々の心のどこかには、日本併合前の、琉球王朝の良き時代に還らんとする気持ちがあったのかもしれない。

 琉球王朝が求めたとされる自主、独立、進取、栄華、そして平和の記憶を再びと祈る沖縄住民たちの願いは今なお根強く、琉球銀行、琉球大学、琉球放送など地元の企業、組織、機関の名称に残るかたちで表れている。

 沖縄では今でも、日本からの「独立論」が決して冗談とは思えないほど具体的に、かつ根強く説かれる。琉球を冠した新政府の命名には、琉球王朝の独立国時代にいずれ再び還る時が日本の敗戦によって現実となるかもしれないという期待もあったのだろうか。

 53年、それまでの検事局は、琉球政府の一部局に位置づけられ、「琉球検察庁」と改称された。

 それは日本の検察庁とは異なって、法務省に当たる琉球政府法務局所管ではなく、独自の予算と自らの人事権を持つ組織だった。検察官の任命権は琉球政府トップの行政主席にあったが、職務の担当を命じる補職権は琉球検察トップの検事長に属し、検察事務官の任命と補職も検事長自らが行った。

■統治下の司法制度

 統治下の司法制度は独特だった。

 当時の沖縄は、高等弁務官を長とする「米国民政府」と、その補助機関として沖縄住民からなる「琉球政府」によって二重に統治されていた。

 高等弁務官は、合衆国大統領の承認を得て、国防長官が現役アメリカ陸軍将官から任命した。この高等弁務官が制定する「布令・布告」が、その頃の沖縄における法体系の基本を形づくっていた。

 「布令・布告」は、行政・立法・司法の全分野にわたり、沖縄住民の選んだ立法院の制定する民立法のすべてに優先した。つまり、圧倒的にアメリカ優位の制度だったのである。

 米国民政府のトップたる高等弁務官は強大な権力を持っていた。行政主席や琉球上訴裁判所裁判官の任命権、琉球政府職員の罷免権、立法院が制定する立法の拒否権、琉球民裁判所が扱う訴訟の米国民政府裁判所への移送権、受刑者への恩赦権……。

 いくら米国側が「司法の独立」を認めているとはいえ、結局それは「建前」だった。建前が堅持されていても、それがいつ例外的に崩されるのか分からないなら、「独立性が担保されている」とはいえない。

 琉球検事を含め、戦後沖縄の法曹人はこうした複雑な状況のもとで司法を運用していた。

 特に、日本本土の法律を踏襲した新しい刑事訴訟法が施行された57年以前は、日本の旧刑訴法と米国由来の刑法・訴訟手続法典が併存して効力を持つという複雑なものだった。

 当時の琉球検察の組織に関する記録は極めて少ないが、日本弁護士連合会が61年にまとめた「沖縄司法制度の研究」は、米国統治下の沖縄司法の実態と構造的問題について論じている。(……は省略部分。読みやすくするため改行を施した。以下同じ)

 「沖縄における現行の司法制度は……米国民政府裁判所制と琉球『政府』裁判所(民裁判所)制とが、後者が前者に従属する形で並列する二本建の制度になっている。また、その適用すべき法令も……恣意的性格をもつものが多いため問題のある布告、布令等に絶対的優位性がおかれている。

 これは、米国が、米民政府とその『下部機構』ともいうべき琉球政府との二元制の下に沖縄における『施政権』を行使していることに照応している。……沖縄の司法制度における最大の問題は……沖縄が異民族に支配されているところから生ずる必然的な結果であり、米国による軍事占領の事実がこれに拍車をかけているものである」

 琉球検事たちは、布令・布告の運用に腐心していた。布令・布告がいかに日弁連の指摘するように「恣意的性格」の濃いものでも、現にそれを運用しなければならない立場にある司法職員にとって、その前提を否定することはありえない選択だった。

 沖縄はあくまでも米国に「占領」され、「統治」されている場所なのだ。

 この時期の沖縄における司法の独立性については対立する両論がある。実態として独立が守られていたという現場の主張と、それが形式上のものに過ぎないとする本土側の主張である。

 この本土と沖縄の法曹人の認識の差は、のちに沖縄の本土復帰が具体化するなかで、琉球検事の立ち位置にも複雑に反映されていく。

■独自の司法試験

 日弁連は、当時、沖縄の法曹人に日本本土の法曹資格を持つ者が一人もいないことに懸念を示していた。では沖縄では当時、どんな人間が検事や弁護士、判事をしていたのか。実は琉球検察の発足以来、本土とは別に沖縄独自の司法試験があった。

 日弁連の「沖縄の司法制度とその問題」によると、52年に設立された琉球法曹会の会員は沖縄の弁護士資格を有しており、1967年現在で弁護士116人、判事48人、検事37人、その他で合計312人。会員のなかから試験局員を選んで、沖縄の司法試験を実施した52年から67年までの合格者は48人、うち23人が本土で研修を受けている。

 試験局員には、弁護士も判事もいたが、皆、実務家で学校を出ていない者が多かったという。それゆえに本土の法曹資格を持つ弁護士や検察庁内の帝大出のエリートたちは、琉球検事ら沖縄の法曹人を見下していた。

 この沖縄独自の司法試験には制度上の不備があると、日弁連が強く批判していた。

 沖縄の司法制度は「……弁護士事務の円滑適正な遂行に必要な諸規定に欠けている。……戦後の人材不足に応え緊急に人材を供給するという過渡的性格を有しているため、弁護士の社会的職責にかんがみるに、その資格条件が余りに緩きにすぎる」(「沖縄の司法制度とその問題」)

 緩いのは、資格条件だけではなかった。

 米国統治下の琉球地方検察庁は、戦後すぐの仮庁舎を経て、現在の沖縄県庁の場所にあった司法ビル内にあった。司法ビルとはいえ、2階建ての建物である。全職員合わせても100人いるかいないかという小所帯で、検察特有の物々しさとは無縁だった。

 出勤すると、まずは全員が朝の茶をすすり、上下別のない雑談に花を咲かせる。そこでは大和言葉、つまり日本語を話す者はおらず、皆ウチナーグチ、つまり沖縄の方言だった。方言といっても、本土のように語尾や抑揚が多少異なるといった程度のものではない。おそらく本土の者であれば、同じ日本語とは到底思えなかったはずだ。

 気楽な現地語が飛び交うなかで、ひとしきり茶を飲んだ後は、新聞を広げるのが習いだった。記事を読むわけではない。死亡広告をにらみ、隈なく目を通すのだ。血縁関係が尊重される沖縄である。血族である門中や知人が亡くなっていれば、葬儀に駆けつけなければならなかった。

 死亡記事を見た者から、まず「○○さんが亡くなってるよ」と声が上がる。

 それを口火に、話題は移る。その名を知る者の口から故人の思い出が語られたかと思えば、思い出を共有した時代の回想へと発展していく。そこで息のあった者同士、夕方になれば連れだって午後の告別式へと出向いていくことになる。

 告別式に出向くとなれば、上司よりも早く退庁していく。牧歌的な光景だった。

 戦前の大和世(やまとゆー)、つまり日本統治時代には、勤務時間内に知人の告別式に出席するのは御法度だった。それがアメリカ世(あめりかゆー)になって、むしろかつての琉球の時間が戻って来たような感さえあった。アメリカ統治が琉球の空気を皮肉にも甦らせ、それを歓迎する雰囲気さえ強かった。

 大和世では、日本語を使うことだけでも無理があった。それこそ舌を嚙みながらの「大和口」なのだ。「ジャパニーがうらんなたくとやー」(内地人がいなくなったからな)と、アメリカ統治の時間を皆、事あるごとに喜んだ。

■武器密輸出事件

 とはいえ、戦後間もなくの混乱した時期でもあり、検挙される犯罪数は決して少なくはなかった。1949年頃までは島内にはなお通行制限や制限区域が設けられていたが、この時期まで警察は、多い年には1000人を超える違反者を検挙する。米軍物資の窃盗や横流し、さらには密輸出関連が多かった。

 いずれも軽微なものが多かったが、ときには米国政府を慌てさせる大がかりな事件もあった。

 沖縄の米軍保管庫から大量の武器が盗まれ、それが香港を経由し、中国共産党の毛沢東軍に売り渡された事件があった。事態をつかんだ台湾の蔣介石(中国国民党)からの通報を受け、米国政府は、現地の米国民政府公安局に捜査を指示した。

 事態が風雲急を告げるさなか、事件が起きた。荷車に覆いをかけて運んでいた男が、米軍の憲兵に誰何されたものの、言葉が分からないふりをしてやり過ごそうとした。発砲した憲兵の弾は男に命中し、荷車の覆いを取り除くと、中には機関銃2丁が隠されていた。

 米軍物資の窃盗が横行していた時代とはいえ、こうした小さな武器流出も数が集まれば問題である。

 これを機に大規模な捜査が行われ、琉球警察が男の住む集落を捜索した結果、ほとんどの家から大量の武器を押収するに至った。

 さらには、香港に向けて出港準備していた米軍払い下げの舟艇も発見され、梱包された米軍の武器をまさに水際で押収した。集落あげての犯行であったことに、捜査当局の衝撃は大きかった。

 こうした密貿易は当時の沖縄では決して稀なことではなく、生活の糧を求めた沖縄人の苦肉の策だった。とはいえ、さすがに米軍の武器までが密輸出されたとなれば、米軍統治下の沖縄では看過できない。

 一方、逮捕、検挙はしたものの、同じ沖縄人として生活を支える苦しさを知る捜査関係者にとって心中は複雑だった。

 数十体もの白骨化した死体を乗せた小さな木造船が、沖縄近海で漂流しているのが見つかったこともあった。おそらく沖縄と香港間の密貿易船が遭難したのだろう。密貿易とはいえ、死と紙一重の場にあえて身を投じざるを得ない人々の姿は、捜査陣の心を揺さぶった。

 沖縄の捜査当局が決して強引な捜査をしない姿勢は、そうした沖縄固有の事情の上に成り立っていたと考えられる。

 例えば、琉球検察では勾留期間は原則として10日で、それを延長することは極めて稀だった。その間に、起訴に十分な証拠がなければ不起訴とし、保釈請求があれば原則として同意した。勾留期限を迎えれば、再逮捕による勾留延長がなかば常態化している日本本土とは一線を画した。

 証拠隠滅の恐れについても、その危険性が具体的でない限りは認定せず、起訴後にはすぐ保釈した。本土のように初公判が終わるまで被告人を勾留することはなかった。

 しかし一方で、犯罪件数そのものは増加の一途をたどっていった。『那覇地方検察庁沿革誌』によれば、「……社会の基盤は、依然として米軍基地の存在を前提とする不安定な構造にあり、1951(昭和26)年以降から犯罪が急激に増加し、1963(昭和38)年のピーク時には刑法犯発生件数は18375件と、1952(昭和27)年の琉球政府発足当時と対比しても2倍近くの増加となっている」。

 また、公安労働事件の発生が目立つようになったのも、この頃からだった。54年、沖縄刑務所内の処遇改善を要求する受刑者の暴動・脱走事件が発生したのをはじめ、58年にはエンタープライズ会社労働争議事件、60年には革新団体の協議体としての沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が結成され、以後これら革新団体による各種の闘争が復帰まで相次いだ。ことに64年に発生した行政主席指名阻止に絡む立法院乱入事件は、この種の事件の激化傾向を示すものとして注目された。

■「民主的」統治

 米軍基地に関係する公安絡みの事件も増加してはいたものの、それだけで単純に、沖縄県民がすべて「反米一色」であったと考えるのは早計に過ぎる。

 元公安部長検事の高江洲の証言によれば、第二次世界大戦後、沖縄で米軍は兵士ではない戦争難民を救助し、収容所に入れた。収容所では住民のために、いわゆるレーション(野戦食)を用意した。そこには米軍仕様のものを改良して、住民のために米や小麦粉、干し魚、食用油、大豆、砂糖を入れた。さらに産婦と乳児には、濃縮ミルクの中にカルシウムを入れ、栄養状態に気を配った。

 住宅建設用に木材を緊急輸入し、仮設住宅の建設を一気に進めた。米軍の占領直後の施策は、「可能な限り現地住民を使い、現地の政府組織を利用せよ」という明確な方針のもとで進められ、それが早期の住民自治の確立へとつながっていった。

 米軍は琉球全体を統括する自治体として群島政府をまず住民に組織させ、その長を任命した。公選は許さなかったが、その長から下の組織運営や人事には一切口をはさまなかったようだ。米国側による職員の差別待遇もなかった。ただ、その後、琉球政府トップの行政主席を公選にしないことは非民主的だと批判され、大きな政治問題となった。

 大戦での米軍による破壊の被害は甚大だった。その後、米軍の長期駐留を支えるために基地を接収することになるが、なかでも飛行場は平たんで広い面積の土地が必要となることから農耕地が接収された。

 基地のために接収された農耕地は、沖縄全体の農耕地の実に20といわれるが、一方で米軍は土地に施設を建設することで、住民に資金を還元した面があったのも事実だった。

 「米軍による土地収容は、住民の意識を反米に染めただけではない。日本復帰が実現したときには、整備されたインフラを活用することで、生産性を高めるのに寄与した面があったことも否定できない」と高江洲は言う。

 だが、米軍の統治が長くなるにつれて反米、反基地の公安事件の比重が高まり、米国と日本本土に対する沖縄の人々の感情は複雑さを増していった。それはやがて本土復帰を前に、数千人規模の大暴動というかたちで爆発する瞬間を迎えることになる。

第2章 燃えるコザ(1)

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