心神喪失者と司法に横たわる大問題
なぜ「心神喪失」犯罪者たちは、すぐに社会に戻ってしまうのか。なぜ刑務所は、精神障害者であふれるようになったのか。日本における司法・医療・福祉システムの問題点を暴く。

第一章 刑法三九条──「心神喪失」犯罪とは

精神障害とはどのような疾患か?

 精神障害と犯罪の問題について論じる前提として、精神疾患について具体的なイメージをお持ちでない読者のために、精神障害とはどのような病気あるいは状態を指しているか、さらにそれぞれの精神障害において法律的な責任能力の問題はどう考えられているかという点について、一般的な見解を述べておきたい。

 精神障害という言葉の他に、精神疾患という言い方もある。この二つの用語はほぼ同義であるが、「精神疾患」という場合は医療において用いる場合が多く、「精神障害」は通常福祉や司法関係で用いられる。

 精神疾患の診断名(病名)は、同一の疾患に対していくつかの「呼称」を持つ場合が多い。歴史的、伝統的に通常使用されている診断名を「従来診断」と呼ぶのに対して、後述する国際的な診断基準に基づく診断を「操作的診断」と呼んでいる。

 表1には、伝統的な精神疾患(従来診断)の分類について示した。精神障害は大きく三つのカテゴリーに分類されている。

1 伝統的精神医学の分類(Huber)

.身体に基盤のある精神病

1.原発性の脳の疾患

進行麻痺

他の炎症性脳疾患

脳外傷

脳血管性障害

老人性疾患

系統性萎縮

脳腫瘍

てんかん

2.脳にかかわる内科疾患

.内因性精神病

精神分裂病

躁うつ病

.正常からの偏倚

異常な人格(性格異常)

異常な体験反応と発展(神経症)

異常な知的な素質(知的発達遅滞)

異常な衝動(性的偏倚)

嗜癖(アルコールや薬物依存)

「身体に基盤のある精神病」とは、脳の疾患あるいは全身疾患により精神障害が発症するものを指す。「内因性精神病」とは、なんらかの脳機能障害が原因と推定され、特有の症状と経過がみられるが、その原因が解明されていない疾患群である。「正常からの偏倚」に含まれるものは、人格や発達の異常と反応性の精神障害で、これらは正常からの量的な異常であり、質的な差異はないとみなされていた。

 一方、わが国の『犯罪白書』(法務省法務総合研究所編)においては、精神障害は従来診断に基づいて次のように定義されている。

「精神障害者」とは、統合失調症、中毒性精神病、知的障害、精神病質及びその他の精神疾患を有する者をいい、精神保健指定医の診断により医療及び保護の対象になる者をいう。

 統合失調症とは、以前は精神分裂病、あるいは単に分裂病と呼ばれていた疾患で、もっとも一般的な「精神病」である。統合失調症は生涯にわたる有病率が約一%みられる疾患である。つまり一〇〇人に一人が罹患する一般的な病気である。重症例においては長期の入院が必要な例も多く、日本においては常時二〇万人あまりの統合失調症患者が精神科病院に入院している。

 中毒性精神病とは、アルコールや覚醒剤などの薬物によって精神病を発症したものを指している。わが国においては覚醒剤の乱用が後を絶たず、その使用による精神障害の問題が大きい。覚醒剤を使用すると一過性に気分の高揚や爽快感を認めるが、幻聴や被害妄想などを伴う精神病を誘発する頻度が高いことが知られている。

 知的障害とは、精神遅滞、あるいは精神発達遅滞のことで、以前は精神薄弱と呼ばれていた。通常は知能指数(IQ)により診断される。

 精神病質は人格の病的な状態を指しており、サイコパスともいう。最近では、反社会性パーソナリティ障害と呼ばれている概念に近い。

 その他の精神疾患としては、うつ病、躁うつ病などの気分障害(感情障害)、パニック障害などの神経症、拒食症などの摂食障害などが含まれる。

精神障害の国際分類

 精神障害(精神疾患)の分類の方法にはさまざまなものがあるが、国際的には、WHO(世界保健機関)が作成したICD10という診断基準が用いられることが多い。ICD10とは、「International Classification of diseases, 10th edition revised」を略したもので、日本語では「疾病及び関連保健問題の国際統計分類 第一〇版」と訳されている。ICDには、精神障害に限らずすべての領域における疾病が含まれており、死因や疾病の有病率統計などに関する国際的な比較や学術論文において、あるいは医療機関における診療記録の管理などに利用されている。

 現在使用されているICDの最新版は、一九九〇年のWHOの総会で採択された第一〇版で、これがICD10である。ICDは表2に示すように、二一の大分類から構成されているが、精神疾患はこの中で、「5 精神および行動の障害」に含まれている。

 さらに、ICD10において、精神疾患は、F0からF9まで、一〇のサブカテゴリーに大別されている(表3参照)。この分類に従って、それぞれの疾患の概略について述べてみよう。

3 ICD-10における精神疾患の分類

F0 症状性を含む器質性精神障害

F1 精神作用物質使用による精神および行動の障害

F2 統合失調症・統合失調型障害および妄想性障害

F3 気分(感情)障害

F4 神経症性障害・ストレス関連障害および身体表現性障害

F5 生理的障害および身体的要因に関連した行動症候群

F6 成人の人格および行動の障害

F7 精神遅滞

F8 心理的発達の障害

F9 小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害

 F0「症状性を含む器質性精神障害」とは、身体的な疾患による精神障害である。この中には、全身疾患が原因である「症状性精神障害」(あるいは「症状性精神病」)と、脳疾患が原因である「器質性精神障害」(あるいは器質性精神病)を含んでいる。

 症状性精神障害の原因としては、内分泌疾患、こうげん病などが知られている。また器質性精神障害としては、痴呆性疾患(認知症)の他、脳の変性疾患や感染症、頭部外傷、脳腫瘍などが原因となる。

 F1「精神作用物質使用による精神および行動の障害」は、アルコールおよびさまざまな薬物による精神疾患である。その内容は多彩で、単なる乱用によるものから、依存症、精神病に至るものまで含んでいる。

 F2「統合失調症・統合失調型障害および妄想性障害」は、統合失調症とその関連疾患である。

 F3「気分(感情)障害」は躁うつ病およびうつ病とその関連疾患である。

 F4「神経症性障害・ストレス関連障害および身体表現性障害」は、従来の診断基準における心因性疾患に相当するものであり、神経症圏の疾患が含まれている。代表的なものがパニック障害である。

 F5「生理的障害および身体的要因に関連した行動症候群」は、拒食症・過食症などの摂食障害、不眠症・過眠症などの睡眠障害などを含むものである。

 F6「成人の人格および行動の障害」は従来の人格障害に相当するもので、最近ではパーソナリティ障害と呼ばれている。さらにこのカテゴリーには、「病的ばく」「放火癖」などの「習慣および衝動の傷害」「性同一性障害」「性嗜好障害」などの疾患も含まれている。

 F7「精神遅滞」は、前述した知的障害に相当している。精神遅滞は知能の程度に応じて、軽度から最重度に分類されている。

 F8「心理的発達の障害」は「学習障害」と自閉症などの「広汎性発達障害」を含むカテゴリーである。広汎性発達障害に含まれるアスペルガー症候群は、知能は正常で社会性のみが障害された疾患として、犯罪との関係の面からも注目されている。

 F9「小児期および青年期に通常発症する行動および情緒の障害」は、「多動性障害」「行為障害」「チック障害」などを含むカテゴリーである。(第四章へ戻る)

 以上、WHOによるICDの基準について述べた。これとは別に、アメリカ精神医学会の定めたDSM(精神疾患の分類と診断の手引)という診断基準がある。現在はその第四版が使用されているが、ICDと並び公式の診断基準としてよく用いられている。

「責任能力がない」とはどういう状態か

 殺人事件など重大な犯罪を犯した精神障害者を、健常者と同じように罰することができないのはなぜだろうか。どうして精神障害を伴う犯罪者は、犯罪を犯していることが明らかであっても裁判において無罪となり、刑務所に入ることはないのか? 多くの一般国民は、このような疑問を感じていることと思う。

 この問題については、さまざまな議論がある。論者の意見も、その立場によって大きく異なっている。

 現行の司法制度においては、加害者が精神障害者であり、その病気の症状によって自分の行為の善悪に関して適切に判断する能力、およびその判断に従って自分の行動をコントロールする能力が失われている場合には、刑罰を科さない、つまり無罪となることが定められている。

 法律的には、この「自分の行為の善悪に関して適切に判断する能力」のことを「べんしき能力」と呼び、「その判断に従って自分の行動をコントロールする能力」を「制御能力」と呼ぶ。この弁識能力と制御能力を合わせたものが「責任能力」である。

 通常、健康な人間はこの責任能力を備えている。したがって、自分の犯罪行為が悪いことと判断し、その判断に従って犯罪を行うことをやめることができるはずである。それにもかかわらず犯罪を行った場合には、司法によって刑罰が科せられる。

 一方、精神障害によってこの責任能力が欠けている場合、責任能力がない(責任無能力)と判断され無罪となる。

 最高裁判所は一般の人への配布用に作成した「統合失調症と責任能力」という資料の中で、次に示すケースを責任能力がない典型的な症例として提示している。その部分を引用してみる。

 世の中には、自分ではどうすることもできない精神の病気や知的障害があるために、何が良いことか、悪いことか判断することができず、また、ある程度そのことが判断できたとしてもそれに従って自分の行動をコントロールすることができないで、犯罪を行ってしまう人がいます。

 例えば、統合失調症という精神病がありますが、その病気のために、ある人に殺されるという強固な妄想に支配され、「お前を殺してやる」というような幻聴も聞こえ、自分を守るためにはその人を懲らしめるしかないと追い詰められ、その人に危害を加える行動に出ることがあります。このような場合、その精神病に基づく妄想等に支配されているため、自分の行為が悪いことだと判断することができないか、又は、妄想等に追い詰められ他の行動を選択できず、自分の行動をコントロールすることができない状態にあると考えられます。

 この精神障害者の責任能力に関しては、刑法三九条で規定されている。刑法とは、犯罪とそれに対する刑罰について定めている法律である。

 次に、この刑法三九条について見てみよう。

「刑法三九条」の存在

 刑法三九条は、次のように述べている。

一 心神喪失者の行為は罰しない。

二 心神耗弱者の行為はその刑を減軽する。

 この「心神喪失」あるいは「心神耗弱」という用語はわが国独自の法律用語であり、内容的にわかりづらい点が多い。

 心神喪失とは、精神障害によって理性的な判断ができない状態、および理性的な判断によって行動することができない状態をいう。つまり前述した「責任能力がない(責任無能力)」状態である。心神喪失においては、刑法上その責任を追及することができないために、刑事裁判では無罪の判決が下る。

 また心神耗弱は、心神喪失ほどでないにしろ、理性的な判断をする能力、あるいは理性的な判断によって行動する能力がかなりの部分失われている状態である。これを限定責任能力と呼ぶ。心神耗弱においては、刑罰が減刑される。

 諸外国では心神喪失、心神耗弱という概念は存在していないが、多くの国において、精神障害による刑罰減免の制度は古くから採り入れられている。

 たとえば、ドイツの一八七一年の刑法においては、次のような記載がある(『司法精神医学 1』 松下正明監修 中山書店)。

「行為の当時において意識喪失または精神活動の病的障害の状態にあり、自由な意思決定が阻却される時、罪となるべき行為は存在しない」

 わが国においては、心神喪失、心神耗弱の概念は、現在の最高裁判所の前身である大審院における一九三一年の判決によって初めて明示された。

「心神喪失と心神耗弱とはいずれも精神障害の態様に属するものなりといえども、その程度を異にするものにして、すなわち前者は精神の障害により事物の理非善悪を弁識する能力なくまたはこの弁識に従って行動する能力なき状態を指称し、後者は精神の障害いまだ上叙の能力を欠如する程度に達せさるも、その能力著しく減退せる状態を指称するものなりとす」

 現実には、加害者が明らかな精神障害者である場合には、検察官が起訴をせず、公開された裁判まで至らないことが多い。

 それでは、精神障害のため検察官が不起訴とした例、あるいは裁判によって心神喪失と判断された加害者の場合、その後どういう扱いを受けるのであろうか。

第一章 刑法三九条――「心神喪失」犯罪とは(2)

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