日米が頼った大和魂の日系人弁護士
激動の20世紀に「二つの祖国」を生き抜いた男は、「大和魂」と「アメリカンスピリッツ」の狭間で何を考え、どう行動したのか。「堤清二『最後の肉声』」(「文藝春秋」掲載)で2016年(第47回)大宅壮一ノンフィクション賞(雑誌部門)を受賞した筆者の受賞第一作の大型評伝!

第一章 日系人・村瀬家のはじまり

■ニューヨーク日本人会の顔役

 その一枚の写真にはこんな添え書きがあった。

「昭和十六年三月三日 紐育 日本クラブ日本室ニテ」

 今(二〇一七年)から七十六年前に撮影されたモノクロ写真には十一名の日本人が写っている。

 中でも目を引くのが一人の恰幅の良い男性。その人物の下にこう名前が記されている。

「村瀬 報国団長」

 背筋を伸ばし、胸を張るその姿はいかにも大物然としている。

 村瀬九郎。村瀬二郎の父である。

 遡ること三十年前の一九一一年(明治四十四年)、九郎は日本から米ニューヨークに移民し、そこから日系人としての村瀬家の歴史が始まる。

 この写真の中心は、真ん中に写る長身の初老の人物だ。その人物の名前は、野村吉三郎。日米開戦回避のために駐米大使に任命され、米国務長官コーデル・ハルとの交渉を委ねられた人物である。

 野村が駐米大使として米ワシントンの駐米大使館に着任したのが一九四一年(昭和十六年)二月十一日。この写真が撮影されたのは、そのおよそ一カ月後。そしてさらにその五日後、野村は初めてハル長官との秘密裏の会談に臨む。日本による真珠湾攻撃に至るまで数カ月に及ぶ野村・ハル交渉の幕開けだった。

 瀬戸際の日米交渉を託された野村を迎え、ニューヨークの日本人会主催で歓迎会が催されたのだろう。おそらくその時に撮影されたのが、この写真だと思われる。

 野村を中心にして、日本銀行、三菱商事、大倉組(現・大成建設)、浅野物産(現・丸紅)、御木本(現・ミキモト。真珠商)といったニューヨークに支店を持つ企業の幹部など、当時のニューヨークの日本人会の顔役が顔を揃え、野村を迎えたのだろう。この写真は当時、ニューヨークで発行されていた日系人向け新聞「ジャパニーズ・アメリカン・レビュー」の一面にも掲載されている。

 九郎は眼科医から輸出入業者へ転身し、地元に根を張って、日本社会の顔役の一人となっていた。

 ちなみに、写真に添え書きされていた「報国団」とは日中戦争が始まった一九三七年(昭和十二年)以降、日本国内を始め、統治下にあった朝鮮などにできた愛国的な組織である。太平洋戦争勃発後は、高等教育機関にも設置されるようになり、学徒動員の実行機関のような役割を演じるようにもなる。

 その目的は、①皇国精神の高揚、②時局認識の徹底と対策、③勤労報国の実行などとされた。

 村瀬はニューヨークの日本人社会の中にできたこうした愛国的な組織の長を引き受けていた。

 一八八〇年(明治十三年)愛知県に生まれた九郎は、愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)を二十三歳で卒業。学校では、数学は教授に代わって九郎が授業をしていたという逸話が残されている。そして、卒業の翌年に火蓋が切られた日露戦争に軍医として従軍し、旅順から奉天という激戦地にかり出される。

 日露戦争の行方を左右した、この大きな戦いの修羅場での体験が、九郎に日本を捨てさせ、米国に向かわせる動機の一つになった。

 とくに旅順要塞の攻撃は、凄惨の一語に尽きた。

 八月十九日に始まった第一回総攻撃から、翌年一月一日の要塞陥落まで、総攻撃は三回に及んだ。日本軍が失った兵は一万五千人を越えた。よく知られる二〇三高地の攻撃では、斜面を駆け上がる日本兵をロシアの機関砲の銃弾が容赦なく襲った。

 二〇三高地の斜面を駆け上がる日本兵を後方で見つめ、次々と担ぎ込まれる兵隊の治療に当たっていた新米軍医の一人が、九郎だった。

 日露戦争は日本が西欧列強と肩を並べるための洗礼だった。それは、九郎にとっても一つの洗礼だった。

 後に九郎が息子・二郎に語ったところによれば、麻酔薬が底を尽き、痛みに悶絶する負傷兵を何人もの従卒が押さえて手術をしたという。

「自分の受けた医学教育がいかに遅れているかを痛感した父は、一大決心をして米ニューヨークのメディカル・スクールで改めて教育を受けようと渡米を果たしたと聞かされました」

 二郎は最終章で詳述する阿川尚之によるインタビューで、父・九郎の渡米の背景の一端をこう説明していた。

 しかし、なぜアメリカなのか。二郎は同じインタビューでこう説明している。

「もう一つの理由は、父の最初の結婚相手が小栗上野介の一族なんです。小栗一族は知多半島の半田にいて、父の家の近くだったこともあって結婚したんですね。小栗というのは薩摩・長州をやっつけろというほうだから日本にいづらくなって、その兄は二人ともニューヨークで医者になっていたんです」

 小栗上野介(忠順)とは幕末、勘定奉行や外国奉行を務めた旗本である。勝海舟や福澤諭吉が同行したことで有名な、一八六〇年(万延元年)の遣米使節団では目付(ナンバー3)として、日米修好通商条約の批准をアメリカと交渉した。また、帰国後、横須賀に日本で最初の近代的造船所を建設するなど、優れた開明的官僚でもあった。しかし、戊辰戦争では幕府主戦派の筆頭として、薩長との決戦を主張したため、最後の将軍、徳川慶喜が恭順を決定した後、領地の上州(群馬県)権田村で新政府軍に捕縛され、逆賊・朝敵として斬首された。

 村瀬九郎の最初の妻は、その小栗の一族であった。

 いまでは想像がつかないが、逆賊・朝敵の出身であることは、明治の社会では相当のハンディキャップであったようだ。義和団の乱で活躍した柴五郎(ハリウッド映画『北京の55日』で伊丹十三が演じた)は、一九一九年(大正八年)に陸軍大将に昇進するが、そのときでさえ、長州閥の総帥・山県有朋が、「会津の賊藩者を誰が大将にした」と激怒したという話が伝わっている。逆賊出身ということはかなり強く意識されていた。

 九郎の最初の妻の兄二人も、そういう日本社会を嫌って、アメリカに渡ったのだろう。それを頼って九郎はアメリカを目指したのである。

■小栗家の人々

 ニューヨークの村瀬家には九郎以来の写真がいくつか残されている。

 セピア色に変色した写真に写されているのは九郎と結ばれた小栗ノブコとその家族だ。

 写真には英語で細かな解説が記されている。それによれば、写真が撮影されたのは一九〇七年(明治四十年)のこと。撮影場所は愛知、半田となっている。

 父、息子、娘二人。一人椅子に座るのが父・小栗チュウサブロウ。解説には「1820? 生まれ」と記され、「Feudal Lord of Handa」とも書かれている。訳すならば「愛知県半田の領主」ということになろう。ただ、半田に小栗という領主はいなかったようだ。恐らく名字、帯刀を許された豪農だったのではないか。威厳のある顔立ち、蓄えられた豊かな白い顎髭が人物を際立たせている。

 その向かって右手に立つのが九郎に嫁いだノブコ。

 ノブコは神戸女学院に学び、一九〇六年(明治三十九年)か〇七年に九郎と結婚したと書かれている。横にはサエコという女性がいる。恐らくノブコの姉ではないだろうか。サエコは一九二〇年(大正九年)にニューヨークで亡くなったと記されている。

 一番左は、当時十七歳だったと思われるチュウサブロウの息子・カンゾウで、父親譲りの凜々しい顔だちの青年である。

 カンゾウは一八九〇年(明治二十三年)に生まれ、一九二〇年(大正九年)に(ニューヨークの)医学学校を卒業し、当地で七人の子供を儲けたと記されている。

 ただし、小栗上野介の一族と言っても、戦国時代に枝分かれした、血縁的には相当に遠い関係のようだ。それでも、〝小栗〟という名前がいけなかったというのだから、明治という時代の空気がわかる。

 ともあれ、九郎の妻となったノブコは、九郎との間に一児を儲けたが、母子を思いもよらぬ不幸が襲う。ニューヨークから一時帰国し、子供を出産し、横浜から再び夫・九郎の待つニューヨークに向かって乳飲み子を抱いて出発しようとしていた矢先、母子ともにインフルエンザにかかり、急死してしまったのだ。

 妻子を一度に失った九郎は、一人ニューヨークに残る。

 九郎はニューヨークで医学学校を卒業し、現地で眼科医を開業する。

 そして、九郎と同じくニューヨークへ移民してきた日本人女性と再婚した。九郎はその女性との間に二人の子供を儲ける。一九二四年(大正十三年)生まれの一郎と、四歳違いの弟・二郎(昭和三年生まれ)である。二郎が生まれた時、父・九郎は四十八歳だった。事情を知らぬ人が見れば一郎と二郎は九郎の孫に見えたかも知れない。

 九郎の妻となったみよは、東京・新宿矢来町に屋敷を構えていた大身旗本・池田家の娘だった。

 なぜ女性が一人、しかも一説にはわずか十五歳で渡米したのか? そもそも女性が一人でアメリカに渡ること自体、当時は驚天動地だったはずだ。また、その地で十四歳も年上(みよは一八九四年生まれ)の男性と結婚したのはなぜか? その辺りの詳しい理由は分かっていない。二郎も、その子供たちも仔細は聞かされていなかったようだ。ただ、二郎には、

「どうしても世界を見たかったから」

 と伝えていたようではある。彼女は天真爛漫な女性だったようだ。

第一章 日系人・村瀬家のはじまり(2)

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