破傷風、コレラ、ペスト…未知の病との闘いに挑んだ日本人
日本近代医学の父であり、破傷風菌の純粋培養、ペスト菌の発見などで世界に知られた医学者・北里柴三郎の生涯を描く。本作(合本版)は、2024年度に発行予定の新千円札の肖像になるのを記念して2019年に制作されたもの。上巻部分では、ドイツ留学、コッホへの弟子入りなど若き日々を、下巻部分では、ペスト菌との壮絶な闘いはじめ、数々の困難を乗り越える北里の壮年から晩年の人生を描く。

第一章 立志の道

 ──一体、何の用だろう?

 きたさとしばさぶろうは薄暗い控え室で一人、椅子に座っていた。固い木の感触を臀部に感じて、先程から何度も座り直していた。もう一時間近く待たされているが、一向に呼ばれる気配がない。

 明治十六年(一八八三年)六月初めだった。この日の夕刻近く、突然、やけしゆう東京大学医学部部長の部屋に来るように言われたのである。だが、いくら考えても呼び出しに思い当たるふしはなく、心細さが先に立っていた。これまで教授の部屋に呼び出されたためしはあったが、医学部長じきじきの話は初めてである。

 ──卒業の話だろうか。

 この日は梅雨模様の蒸し暑い陽気にもかかわらず、膝に置いた手のひらには冷や汗さえ滲んでいる。

 この時期、卒業式が一カ月後に迫っていて、医学部本科生のあいだでは卒業の話でもちきりだった。卒業試験はパスしたものの、素行面での厳しい評価のため学位記をもらえない者が多数いるらしいという噂があり、動揺が広がっていた。落第者は密かに呼ばれ、留年を宣告されるとまことしやかな話も飛び交っている。

 柴三郎が東京医学校(現東京大学医学部)に入学した明治八年の頃、医学校は、予科三年、本科五年が基本だった。予科に柴三郎とともに入学した百三十余名の学生のうち、本科を経て月日が経過するなかで、八割方はすでに脱落し指導者としての道を諦めている。将来、国民の生命を預かる職に就くとして、当局の教育は厳格を極めた。このため、全国の俊英を集めたにもかかわらず、学生数が激減してしまったのである。

 柴三郎といえど、卒業には一抹の不安はあった。

 学業的にはまず心配はないはずと考えていた。特に、同期生が苦手としているドイツ語は、熊本医学校時代からの積み重ねもあり、学生たちを教えられるほどに上達していた。他の教科も恥ずかしい点はとっていない。が、心配は素行の面である。

 この頃、明治維新からさして年を経ていず、全国各地には元士族たちの不平不満が満ちあふれていた時代だった。家禄制度の廃止が混乱と怒りをさらに増幅させていた。新しい時代の幕開けではあったが、文明開化、富国強兵の名の下での急速な変化は、社会の随所で混乱と矛盾を引き起こしていた。西南戦争の余燼もくすぶり、平和安寧の時代には程遠く、人心はまだまだ殺伐としていたのである。

 医学部本科生は寄宿舎での生活が原則だった。血気盛んな男たちの集団生活は時代の風潮とも重なって、学校や寄宿舎で種々の摩擦と争いを生じさせた。

「肥後もっこす」を自認する柴三郎は寄宿舎内を着物の裾をひるがえし、肩で風を切って歩いた。さほど大柄ではないが、骨太の引き締まった体だった。目は大きく、眉はつり上がり、いかにも九州男児然としていた。雄弁は男子たるもののしるしのひとつだとして、自ら信じる所をこぶしをふりあげ、声高く訴えた。柴三郎の蛮行は知れ渡っていて、外国人教師をはじめ、教授たちから異端視されていた。柴三郎はもちろん、異端児扱いに気づいていた。だが、血が騒ぎ、黙っていられず体が動いてしまうのである。

 そうした素行を日頃から疎ましく思っている教師もいて、卒業にあたり、しっぺがえしをされる可能性があった。

 ──それとも……。

 柴三郎にはもうひとつ、誰も知らない入学時の秘密があった。それが露見するとあるいは卒業の資格を失うかもしれない。

 ──知られてしまったのか。

 不安がさらに増幅し始めた。手のひらの汗はいくら拭いても滲み出て、着物の膝が濡れる程だった。

 そのとき、部長室のドアが開き、秘書が柴三郎の名前を呼んだ。

 部長室では三宅秀医学部長が接客用のソファに腰掛け、手にした書類をしきりに眺めていた。

 柴三郎は入り口に佇んだまま、その端正な横顔を眺めていた。典医の家柄で、文久三年の遣欧使節団に随行して洋行を果たし、その後、米国流の医学を修めた三宅はある意味で柴三郎の憧れであり、目標だった。雲の上の存在である。

「おう、君か、座りたまえ」

 三宅は書類から目を離して、椅子を促した。

 一礼して、柴三郎はソファに居住まいを正しながら浅く腰掛けた。クッションのきいたソファは座り心地が良く、控え室の木の椅子とは比べものにならなかった。

「急に呼び出して悪いことをした。邪魔ではなかったかな」

「いえ、何もありません」

 散らかり放題の部屋を卒業にあたり、そろそろ片づけにかかろうかと考えていたところである。何も用事はなかった。

「そうか。きみに来てもらったのはほかでもない、卒業のことだ」

 三宅は手にした書類をいちべつして言った。書類は卒業者の資料らしい。

 ──やはり……。

 柴三郎は悪い予感が的中したのを感じた。落第者を呼び出すのは本当だったようだ。

「きみはいま、内務省に雇われているね」

 四月より内務省の官費生として省内の雑事をこなし、月額七十円が支給されていた。まだ見習い期間である。それを学費や生活費に充てている。

「ええ、結婚もしましたから生活のことを考えねばなりません」

 柴三郎は言った。

 この年の四月に、柴三郎は大蔵省官吏、松尾しげよしの二女、とらと結婚している。十四歳年下だった。入籍も済ませたが、柴三郎はまだ学生の身なので同居はしていない。松尾臣善は経理、会計に明るく、後年、第六代の日本銀行総裁に就任する人物である。七年八カ月と長期にわたり在任し、高橋これきよにバトンタッチした。

 柴三郎の乕との出会いは、生活費を捻出するアルバイトが縁だった。

 郷里からの仕送りを期待できない柴三郎は長養軒という牛乳会社で良質の牛乳を製造するために指導力を発揮した。牛乳の品質管理、作業場の環境衛生、外国文献の情報整理、乳牛の輸入手続きなど、柴三郎の仕事は重要視された。後年の細菌学研究の芽ばえをこの牛乳会社で見せたのである。会社の社長は松尾臣善の弟だった。柴三郎の精勤振りと指導力に感心した社長が臣善に紹介し、見合い結婚がまとまったのである。

 柴三郎は実弟の学費もアルバイトで工面していた。弟のを郷里の熊本、ぐにから呼び寄せ、東大法学部に進学させて、長男としてその生活費も負担していた。

「仕事はきついかね」

 三宅はたずねた。

「いえ、そうでもありません」

 内務省の仕事はすでに辞めている長養軒の作業ほどきつくはなかった。

「学校を終えたらその仕事はどうするのかね」

「どうすると申しますと?」

「続けるつもりなのかどうかだ」

「それは……」

 柴三郎はひとつ深呼吸をついて言葉を継いだ。

「卒業できると、それがわかったときに判断します」

「だから続けるつもりなのかどうかときいている」

「えっ、すると先生、わたしは卒業できるのですか」

 柴三郎は思わず膝を乗りだした。

「どういうことかな。君は卒業できないと思ったのかね」

「いえ、そぎゃんこつ、ぜんぜん思うとりまっせん」

 急に肥後弁が口をついて出た。同時に生来の向こう気の強さも表れた。

「安心したまえ。きみは卒業できるよ」

 三宅は微笑みを浮かべて言った。

「はっ、ありがとうございます」

 柴三郎は着物の襟を合わせ、ずんぐりした体を縮めながら、深々と頭を下げた。

「落第者は先生に呼ばれて引導を渡されるともっぱらの評判です」

 柴三郎は寄宿舎内で飛び交っている噂話を伝えた。

「それは悪い冗談だな。そんな話をきみが信用したのかね」

「はっ、そうであります」

 柴三郎は肩をすぼめて答えた。

「それにしても、きみは相当暴れた口だね」

 三宅は故意に眉根を寄せて柴三郎を見つめた。

「申し訳ありませんでした」

 柴三郎は恐縮しながら再び体を折り曲げた。

「きみが学生を集めて作った結社、あれ何といったかね」

どうめいしやのことですか」

「そうそう、同盟社だ」

 少し元気が良すぎる結社だったと、三宅は言った。

 柴三郎が予科二年生のとき──、明治九年十二月に学校が神田和泉橋から、本郷の旧加賀藩屋敷跡に移転した。

 この頃、柴三郎は、男子たるもの雄弁に天下国家を論じる必要があるとして、十数名の学生から成る「同盟社」と称する結社を作った。弁論を鍛えるのが主な目的だった。毎週土曜日に演説会を開き、政治から経済、外交、教育に至るまで討論を重ねた。講義録の印刷や柔剣道大会の開催も手がけ、ストライキには率先して動いた。

 柴三郎は熊本細川藩の藩校、時習館で柔道、剣道を習い覚えているので、腕には自信がある。寄宿舎内では、血気盛んな学生たちのあいだで、議論か喧嘩か分からない争い事が日常茶飯事に発生していた。そのなかでも、自他ともに認める肥後もっこすで、年長者の部類にはいる柴三郎は一目置かれた存在だった。

「同盟社」の主将は柴三郎で、副主将は伊東しげるだった。伊東は後年、弘前で開業し、その後、鍛えた弁論が役立ったのか、弘前市長、衆議院議員を務めている。

 もっとも、寄宿舎では、喧嘩ばかりでなく、医学生には不似合いな子どもじみた行為もあった。

 多くは、夜泣きそば屋が犠牲になった。夜になって空腹を覚えた学生が、屋台を寄宿舎の窓から呼び止めて注文する。そして、竹かごを下ろして器用にそばやうどんを受け取ると、たちまち食べ終わるが、支払いは知らん振りを決め込む。そば屋が下からいくら叫んでも知らぬ存ぜぬを押し通した。

 遊び好きは、夜隠に乗じて外出し、深夜に窓から帰宿した。

 また、「虹かかり」と称して、二階から小用を足す不届きな行為も後を絶たなかった。

 大学は学生たちの蛮行に頭を痛めた。そして、度が過ぎると業を煮やした校長のながせんさいは、蛮行には力で制圧しなければならないと考えた。

 そこで「適塾」の同門で、慶應義塾を主宰して顔の広い親友の福沢諭吉に相談をもちかけた。福沢諭吉は、後年、柴三郎にとって公私にわたり第一の恩人となる人物である。そうした事情はこの時、お互い知る由もない。

第一章 立志の道(2)

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