「資本論」だけじゃない。マルクスから社会の構造を知る
社会の歪みをマルクスから建て直す。碩学二人のマルクス対談!!

第一章 変質する国家

◆第一章の論点

 ここではマルクスの議論を中心として、国家と市民社会について語ります。問題の焦点は、国家と市民社会が似て非なるものという点にあります。国家は市民がつくり出したものではなくそれ以前の社会からずっとあった、いわば外部から与えられたものという側面が強いのに対し、市民社会は私たちが生み出した世界であるという点の違いです。市民社会とは、一人ひとりの私生活が大事にされる世界ですが、国家とは、そうした個人の私的生活を乗り越える世界です。だから常にこの二つは相互補完しながらも、時に厳しく反発しあいます。

 一八世紀以降の市民社会のぼつこうは、こうした国家を市民社会の延長線上に考えようとしたことに特徴があります。国家は市民社会がつくり出した。だから、市民社会さえあれば国家はなくてもいい。ブルジョア(市民)革命とは国家を市民社会の内在的な論理に引き入れることです。

 しかし、国家(宗教も同じですが)は市民社会よりずっと前から存在してきました。国家は市民社会の私的世界に決してとりこまれないものをもっています。国家が勢いを増すのは、国家が危機にひんするときです。私的生活に対して国家は規制をしてくるのです。自由や私的所有権すら一時的に禁止されます。

 国家という存在など気にしないのが普通の日常生活ですが、地震災害、戦争などの危機が迫ると国家が立ち現れ、日常生活を規制するのです。どんな国でも、危機に際しては市民社会の論理、すなわち民主主義社会の論理では動かなくなります。なぜそうなのか。このことが本章のポイントです。

【理解のためのポイント】

 1 市民社会と国家

 2 パリ・コミューンと官僚制

 3 プルードンとマルクスの違い

 4 ルイ・ナポレオンと民主君主政

 5 国家の超克

国家は手段か目的か

的場 私がなぜとうさんと議論したいと思ったかというと、私は専門としてマルクスを読んできた人間で、佐藤さんもマルクスには大変ご関心がある。そして、佐藤さんは専門が神学で、私も専門ではありませんが、宗教に非常に関心をもっています。

 また、二人とも、共産圏が崩壊する以前の東欧を実際に見て知っているというのも共通点としてあります。

佐藤 まと先生の『超訳「資本論」』三部作(祥伝社新書)は非常に面白いです。僕も『資本論』のテキストを重視しながら社会を見ているという点では同じですので、いろいろ面白い議論ができると思います。ただ、僕の場合、マルクスを読むときはこうぞう(*1の影響が強いため、もしかしたら、読み方としては的場先生とまるっきり反対なのかもしれません。

 私が宇野の読み方でゴリ押しすると、話がまずかみ合わないでしょう。それから、的場先生は、アルチュセール(*2などの西洋マルクス主義のその後の伝統をしっかりと踏まえておられる。ですから、僕が教えていただくという形で、違いのところだけは示すというふうにできればと考えています。

 そもそも、宇野の読み方というのは、一昔前までの主流の読み方でしたから、そういう視点についてなら、もう十分類書があるんです。的場先生の読みを表に出していくほうが新しい視点を提示できると思います。特に実践的な読みのところで一番違ってくるのは、いまの資本主義システムに対して我々はどういう責任を負うのか。的場先生の考え方をうんと乱暴に整理すると、基本的に、圧倒的多数の皆さんには責任がないということになってくると思うんです、倫理的な観点において。宇野の読み方をすると、たぶん、労働者を含めてこのシステムを作り上げていることに対して責任があるということになってくると思います。

 それから、現代的な問題に引きつけると、構造改革論(*3をどうとらえるかです。二〇一〇年六月にかんなお政権が登場しましたが、これは意図しているかしていないかは別として、かなり国家社会主義的です。その国家社会主義的な菅自身は反マルクス主義で、あの人はあかまつかつ麿まろ(*4、むしろラッサール(*5みたいな感じの人です。それに対して、せんごくよしのような、かなり明確な思想をもった構革の人がいる。構革から社会党右派に行った、つきさんと同じような流れだと思います。その意味においては、社会主義政権だと思います。

的場 そうですね、社会民主主義政権というかね。

佐藤 僕は国家社会主義政権ではないかと思いますが、それをマルクスの視座からどう見ていくかということであれば、とても現代的な意味があります。菅政権にある社会主義的な要素、あるいは国家社会主義的な要素をどう読み解いていくか。これはほとんどマルクスと関係のない形ででき、本人たちの意識しないところでできている社会主義政権です。それはある枠の中での最小不幸世界みたいな形をとっていき、気をつけないとファシズムに近いものになっていくと思います。

 的場先生が『超訳「資本論」』で問いかけたところの意味を、『資本論』の世界から縁遠い一般読者にどう伝えていくか、そこを引き出したいと思っています。

的場 『超訳「資本論」』の中には『資本論』の解釈が多いのですが、もともと私の研究は初期マルクスから始まっているため、話を一八四三年の著作「ユダヤ人問題によせて」から始めたいと思います。この「ユダヤ人問題によせて」は、本格的に活字になった彼の最初の著作です。これともう一つ同じ時に書かれた「ヘーゲル法哲学批判序説」という作品もあります。二つとも、基本的に同じ問題を対象にしています。二つの著作は、一七世紀、一八世紀からずっと問題になっている、国家と市民社会との関係を、マルクスなりに答えようとした最初の試みだったんです。

 一七世紀から問題になっている、有名なホッブズ(*6の議論があります。それは、社会の発展には、自由がいいか、国家による規制がいいかという問題です。ホッブズは基本的に国家の規制を主張します。自由だと利己心による争奪戦が起きて戦争状態になるので、それを上から押さえる必要があると。それが国家です。これが一つの考え。もう一つの考えは、むしろ個人が自由であることで、自由が進むことで社会は発展する。そうした発展によって自然に国家も確立されるという考えです。こうした考えの典型が、アダム・スミス(*7です。この二つの流れを受けたのがヘーゲル(*8で、彼は国家による規制を考えた。それは、フランス革命を見ていたからです。

 ヘーゲルの結論は、こうです。アダム・スミスの主張もわかるが、最終的には、やはりホッブズのような、国家というものが上から規制するほうがうまくいく。彼がそう考えたのは、フランス革命が「自由」に始まり、次第にそのほころびが出てきた。そんな中で、ロベスピエール(*9的な強力な国家が必要になってきたことを見ていたからです。

 マルクスも、実はヘーゲルとほぼ同じ点に注目しています。フランス革命がどんどん進んでいくなかで混乱が進む。そこで一気に左旋回が必要となる。ヘーゲルもマルクスも同じところに的を絞っています。国家が左旋回したのはなぜかという点です。マルクスは、国家と宗教も疎外体として同一のものだと考えました。疎外体として同一であるという意味は、二つとも個々の利害を調整する機能をもっているということです。国家は、ある意味で超然としています。市民社会を越えて超然としている。問題は、国家は単に超然としたままでいいのか。むしろ市民社会のなかの動きをちゃんと反映するべきではないのかということです。

 マルクスが、こうした問題を提起したのが、すなわち「ユダヤ人問題によせて」だった。ユダヤ人は超然としておらず、むしろ市民社会といった具体的な生活の中に生きている。彼らの市民社会の規則が律法であり、その律法が宗教になっている。実利的世界こそ彼らの宗教ということになります。実利的世界が宗教であるが故に、市民社会が、ユダヤ人のほうで逆に発展していくのです。キリスト教が市民社会を嫌ったのは、ユダヤ的な実利的な世界に対する嫌悪だったのです。だからキリスト教は国家と同じように市民社会を利己的世界と置き、それに盛んに干渉した。それがユダヤ人に対する差別だったのです。

 市民社会を反映していないということは疎外体なのですが、宗教同様、国家も市民社会から疎外された疎外体として、市民社会の利己的世界に干渉するわけです。このことを明確に主張したのが、ヘーゲルであり、その延長線上にあったのがブルーノ・バウアー(*10になります。ブルーノ・バウアーは、ヘーゲルの国家論的立場から、ユダヤ人的市民社会の利己的世界を批判した。

 一方マルクスは、ヘーゲル流の超然とした国家や宗教に否定的であり、かといって市民社会万歳でもなかったのです。二つを批判し、それを乗り越えようというのが、一七世紀から問題になってきた市民社会と国家との関係に対するマルクスなりの解答だったと思います。ところが、この問題を、彼は結局解決できなくて、宿題のようにずっと持ち越し、『資本論』でこれを解こうとしたわけです。

「ユダヤ人問題によせて」において、一応の解答は出しています。政治的解放ではなく人間的解放であればよいと。しかし、人間的解放が何なのかという点について、何も書かれていない。解決は具体的にはまったく見えていないのです。ただ問題を設定しただけなのです。国家は政治的領域であり、市民社会は経済的領域であり、この二つはまったく違う。だから政治的領域の解放だけでは、実はまったくダメだということ。これだけは確信したでしょう。そこで、経済という市民社会の世界と、政治という国家の世界の分離を最終的に超えるような世界構築はできるのかという問題設定を考えたのです。この問題設定はたぶんわかったと思うんです。しかし解決はできなかった。それを解決するということこそ、マルクスの生涯の問題になったのだろうと私は考えています。

佐藤 結局、的場先生は、マルクスはそれを解決したとお考えですか。

的場 できていません。

佐藤 開かれたままという感じですか。

的場 問題は未解決で開かれたままです。しかし、この問題が開かれたままであることは、実はすごくよかった。解決しようとして、アソシアシオン(*11という概念を置いたり、共産主義という概念を置いたり、さまざまなものを置きますが、解決できなかったのです。市民社会というものが個々の利害が対立する世界だとすれば、この世界を上から規制するような理念はどこから生まれるかというと、市民社会から生まれるほかはないわけです。民衆のなかから生まれる。しかし、それが民衆から生まれるとすると話は堂々巡りになるので、市民社会の利害問題を超えるような世界はあたかも一つの啓示として、外部からやってくると考えたい。

佐藤 外挿的にやってくる。

的場 しかし、外部からやってくると、市民社会と完全に遊離してしまいます。遊離してしまう超然たる世界と民衆の意思を反映した世界という、この矛盾を解決するために要求されたものの一つが、当時フランスなどで問題になっていたアソシアシオンという概念だと思います。アソシアシオンは小さな団体であり、市民社会を構成しながら、なおかつ横の連携において、一種国家をなしている。しかもそれは国家でもなく、それを超えるような共同体でもありうるわけです。しかし、それはあくまでも単なる希望的仮説であって、当時そんなものが実現できるなどとは、彼も理解してはいなかった。

第一章 変質する国家(2)

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