危機的な時代だからこそ、役に立たない「神学」が必要である
「知の巨人」の原点。鬼才・佐藤優はこうして誕生した!

1章 時代遅れの酒場

◆時代遅れの酒場

 京都の街は、観光客と学生に対して優しい。この部分的な優しさを勘違いして、京都人と結婚した友人や知人を何人か知っているが、文字になっていないしきたりに適応するのにみんな苦労していた。

 学生時代の生活を振り返ってみても、目に見えないおきてがいくつかあった。現在はどうなっているかわからないが、当時(わたしが学生生活を送った1979年から1985年頃)、同志社、京大、立命館の学生は、定食屋や飲み屋に行く場合も、お互いに棲み分けを尊重していた。

 賀茂川と高野川が合流して鴨川になる。この合流地点あたりがまちやなぎだ。えいざん電車のえいざんぐち行き、くら行き電車の始発駅だ。このあたりから東側は、京大生の縄張りだ。京大があるひやくまんべんかいわいには、おいしい定食屋や、学生でもカウンターに座ってお好み寿司を食べることができる格安寿司屋などがある。わたしも何回か行ったことがあるが、どうも居心地がよくない。店の人たちはていねいに接してくれるのだが、心の底からの温かさが感じられないのだ。店にいるのはほとんど京大生と思われるが、何となく視線が冷たい。

 そこでどうしてもからすいまがわ界隈、つまり同志社周辺でわたしたちは食事をとるようになる。チェーン店のラーメン屋でも、同志社界隈の方が落ち着くし、ほんの少しだけど、おいしいと思うのだ。

 百万遍界隈で感じた違和感をきぬがさでも覚えた。ここには立命館大学がある。金閣寺、石庭で有名な龍安寺があるとても文化的な地域である。ときどき面白い演劇があると、わたしも同志社大学神学部の悪友たちと立命館大学に遠征したが、その帰りに一杯やるのは、烏丸今出川に戻ってくるか、あるいは河原かわらまちさんじようじようなわあたりに下がっていった(京都では北に行くことをあがル、南に行くことをさがルという)。

 河原町、まちあるいは鴨川を越えた縄手通りあたりの飲食店が密集した地域では、大学ごとの棲み分けはない。ただし、京都のスナックやショットバーは「会員制」の札が掛かっていなくても、誰かの紹介がないと入りづらい雰囲気なのである。明らかに京都の「いちげんさんお断り」の伝統がある。「一見さんお断り」というのは、「知らない人に対しては、十分なもてなしができないという意味で、お客さん本位の発想だ」と京都人は解説するが、確かにその要素もある。

 わたしの学生時代には、まだ学生運動の影があった。同志社大学は新左翼系学生運動が強かった。ブント(共産主義者同盟)系の影響が強い全学学友会と、神学部自治会は毛色が異なっていた。神学生たちは、アナーキズムとキリスト教社会主義が混在した、奇妙な雰囲気の学生運動を展開していた。

 わたしは、1979年度生であるが、1年先輩の1978年度生の大山修司君(現日本基督教団教会牧師)、滝田敏幸君(現千葉県議会議員、自民党)、米岡啓司君(現民間会社役員)の4人で、よく遊び回っていた。自分で言うのもおかしいが、わたしは、あのころ実に真剣に本を読み、友人たちと議論をした。その後の人生で起きたことは、すべて神学生時代に原型があり、その反復のような感じがするのである。

 最初、4人であちこちの飲み屋を開拓して歩いたが、その内に居心地のいい店が数軒にしぼられていった。居心地の良さといっても、さまざまな居心地がある。泥酔して、わけがわからなくなったときに限って訪れる、「治外法権」というロックバーがあった。ここでは、テーブルの上に立ち上がって、尻を出したこともあるが、つまみ出されたりはしなかった。

 大山君はジャズが好きだったので、平安神宮の裏手、丸太町通りにある「ZAC-BARAN(ざっくばらん)」というジャズ居酒屋にもよく行った。ここでは、日本酒の剣菱にライムジュースを加えて氷を入れた、「酒ライム」がおいしく、4人で1升瓶を2本くらい空けることもよくあった。この店は、食べ物がおいしい。特に梅干しのたたき(梅肉と削り節を合わせて、軽く醤油をかける)とチーズポテト(小さなフライパンに、ゆでたじゃがいものスライス、クリーム、にんにくを入れ、チーズを山のようにかけてオーブンで焼く)がわたしのお気に入りメニューだった。ここでは大音響でジャズが朝4時の閉店時間まで流れている。話は耳許でしなくては聞こえない。

 神学や哲学の話など、真面目なことを話すときは、四条縄手通上ルの鴨東ビル5階にあった「キエフ酒房」か、河原町三条下ル二筋目東ルの北側にあった「リラ亭」によく行った。加藤登紀子さんの「時代おくれの酒場」という曲があるが、「リラ亭」がこの歌のモデルである。

「キエフ酒房」は、同じビルの6階の「レストラン・キエフ」と一体になって営業していた。その後、「キエフ酒房」はこのビルの2階に移ったが、現在はなくなっている。

「キエフ酒房」のマスターだった中西眞一郎さん(現「ウオッカバー・ナカニシ」店主)を慕って、わたしたち4人は、カネに余裕があるときは、いつも「キエフ酒房」に出かけた。

 中西さんは立命館大学全共闘の学生運動活動家だったので、京都の学生運動の歴史や、学生運動活動家のその後の動向について、よく知っていた。中西さんには、学生運動経験者にありがちの虚勢を張るところや、あるいは妙にいじけて世の中を斜めから見たりするところがなかった。また、押しつけがましいところもなかった。

「うちは学割にならないよ。きっちり商売させてもらいます」と言いながら、「ボトルキープの期限が切れたウオトカがあるけれど、飲むかい」などと言って、ずいぶんただ酒を飲ませてもらった。それから、つまみでとるアラレやペリメニ(シベリア風水餃子)も超大盛りだった記憶がある。

「レストラン・キエフ」と「キエフ酒房」の店主は、満州国立大学ハルビン学院出身の加藤幸四郎氏だった。加藤氏の娘さんが歌手の加藤登紀子さんだ。登紀子さんが獄中結婚した藤本敏夫氏は同志社大学文学部を中退した学生運動活動家だった。

 1970年頃に活躍し、その伝説が当時も神学部に残っていた元学生運動活動家も「キエフ酒房」によく出入りしていた。この先輩たちは、ビジネスにおいても才能があり、京都に語学専門学校をつくって、経営者としても成功していた。

「キエフ酒房」は、店全体に赤いじゆうたんを敷き詰めた高級店だ。客の大多数もサラリーマンか中小企業の経営者で、学生が出入りするような雰囲気の店ではない。ただし、ウオトカのボトルキープは3500円から4000円だったので、ボトルさえキープして、キャビアやステーキに手を出さず、ロシア風漬け物(キャベツと胡瓜の酢が弱いピクルスだがこれがなかなかおいしい)やペリメニなどの安いつまみで抑えておけば、ひとり当たり2000円弱で一杯やることができたので、学生でも出入りできないことはなかった。もともとこの店に日常的に出入りしていた学生は、わたしたち同志社の神学生とその関係者だけだったと思う。

「キエフ酒房」では、ロシア語でロシア民謡かソビエト歌曲(後にモスクワで勤務するようになって知ったが、その多くが軍歌)がかかっているとき以外は、いつも加藤登紀子さんの曲が流れていた。

 確かわたしが大山君とふたりで、ウオトカを相当飲んでいたときのことである。九州の出身の大山君は酒が強いし、好きだ。もともと無口だが、酒を飲むと一層無口になる。わたしはもともと人見知りをするが、親しい友人と、とりとめのないおしやべりをすることは大好きだ。酔いが回ると、お喋りの量は、わたしが9割、大山君1割くらいになる。飲むウオトカの量は、ほぼ同じだ。店に曲が流れていた。

 この街には

 不似合な

 時代おくれの

 この酒場に

 今夜も

 やって来るのは

 ちょっと疲れた

 男たち

 風の寒さをしのばせた

 背広姿の

 男たち

 加藤登紀子さんの「時代おくれの酒場」だ。大山君が、「佐藤、いい歌だな」と言った。わたしも「そうだね」と答えた。

 そうすると中西さんが「佐藤君、大山君は、『リラ亭』に行ったことはなかったかい」と問いかけた。わたしたちは、首を横に振って、「ありません」と答えた。

「『時代おくれの酒場』のモデルになったショットバーだ。8席しかないけども、親しいお客さんだったら、立ち飲みで入れてくれることもある。ときどき、お客さんがカウンターの中にも立って飲んでいるよ」

「だいぶ高いんですか」

「いや、水割りが、確か1400円っていう世界だから、学生でも安心して行くことができるよ。深夜の2時までやっている。神学部自治会の先輩たちもよく出入りしているよ。昔の話を聞くには、『リラ亭』に行くのがいちばんいい」

 当時、京都は夜が早かった。中心部で24時間営業をしている喫茶店は、三条大橋西詰下ルの「からふね屋」だけだった。「キエフ酒房」をはじめ、ほとんどの飲食店の看板は、午後11時だった。遅くまで飲みにいくことができるバーがあると嬉しい。

「是非、紹介してください」

「これから行くかい」

「はい」

「今日は、仕事が残っているので、僕は一緒に行けないけれど、マスターに『キエフの中西から紹介された』と言えば、断られることはない」

 中西さんは、そう言って、紙に地図を書いてくれた。

「リラ亭」のマスターの木村勝次さんが、「リラ亭」を開いたのは、わたしが生まれる3年前、1957年のことだった。椅子席8つのショットバーだ。三楽オーシャンのウイスキー「ブラック・オーシャン」の水割りが基本形だった。店が狭いので、ビールは置かない。氷屋から買った大きな氷を木村さんがアイスピックで見事に砕く。

 つまみはピーナッツ、アラレとキスチョコが基本形だった。それから、ホワイトアスパラガスの缶詰にマヨネーズをかける、あるいはポン酢で食べる鮭缶、それからソーセージの缶詰を鍋に汁ごと移して温め、からをたっぷり塗ったつまみなどがあった。缶詰がこれほどおいしいものであることをわたしは「リラ亭」ではじめて知った。

 木村さんの魅力的な人柄で、常連客のネットワークができていた。わたしが大学4回生の1982年に「リラ亭」の25周年記念が、三条大橋西詰北の「がんこ寿司」で行われたが、500人近い人々が集まった。残念ながら、木村さんは19905月にガンで逝去された。享年59だった。

 わたしの記憶では、大学2回生、1980年の秋のことだった。中西さんに描いてもらった地図を手掛かりに大山君と歩いたが、それらしい店が見あたらない。そのとき、キャバレーの「呼び込み」に声をかけられた。

「はい学生さん、特別サービスしていますよ。プリップリッの女の子をたくさんそろえています」

 無視して、先を歩いていると、こんどは別の「呼び込み」がついてくる。

「個室でいいことしませんか」

 どうもあまり柄のいい場所じゃない。店の上にかかっている看板を見ながらしばらく歩いた。白地に黒いペンキで書いた「リラ亭」という看板が目についた。焦げ茶色の扉にしんちゆうの取っ手がついている。だいぶすり減ってぴかぴかに光っている。わたしは、取っ手に手をかけた。

 扉を開けると、店の中には客は誰もいなかった。カウンターの中にいる黒いズボンに白いワイシャツ、それに黒い蝶ネクタイをしたマスターと目があった。

「キエフの中西さんに紹介されてきました」

「ああそうですか。お入りなさい。中西さんは一緒じゃないの」

「今日は、まだ仕事があると言っていました」

「そうですか」

 大山君とわたしは、カウンターに並んで座った。

「ブラックの水割りでいいですか」

「お願いします」

 マスターが、帽子のつばのように周囲が飛び出したブラック・オーシャンのプラスチックの蓋を開け、ウイスキーをステンレスのメジャーカップで量って入れた。かごから、アイスピックで割ってきれいな形になっている氷を23かけら入れて、水道水を加える。水割りができあがった。そして、「水道水でもミネラルウオーターでも、ブラック・オーシャンクラスのウイスキーだと味は変わりませんよ」と言った。

 口に含んでみる。シングルの水割りだが、氷が多いせいか、ダブルのような味がした。

「僕たちは、同志社大学神学部の学生です」と自己紹介した。そうすると木村さんは、ある先輩を知っているかと尋ねた。何度か耳にしたことのある名前だ。

第1章 時代遅れの酒場(2)

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