ボリシェヴィキの蜂起を「冒険」と呼びたがる人が多い。確かに冒険だった。
ロシア革命を描いた20世紀最高のルポルタージュ、待望の新訳! 白井聡氏推薦!

第一章 背景

 一九一七年九月も末に近づいたころ、海外からロシアを訪れていたある社会学の教授が私に会いに来た。教授によれば、実業家やインテリ層から革命は勢いを失いつつあると聞かされたという。教授はそれについて論文を書き、続いて全国の工業都市や農村を旅して回った。すると驚いたことに、革命は加速しているように見えたという。賃金労働者や農場労働者の間では「すべての土地を農民に、すべての工場を労働者に」という声がどこでも聞かれた。この教授がもし対ドイツ戦の前線を訪れていたら、どの部隊からも講和を求める声が聞こえてきたはずだ……。

 教授は困惑していたが、実は簡単な話だった──どちらの見方も正しかったのだから。有産階級はますます保守化しつつあり、大衆はますます急進的になりつつあったのである。

 おおかたの実業家やインテリ層は、革命はもう充分すぎるほど達成され、むしろ長引きすぎていると感じていた──そろそろ事態を落ち着かせるべきだ、と。祖国防衛オボロンツィ派メンシェヴィキ原注一や社会革命党(エスエル)といった多数を占める「穏健派」の社会主義政党も同じ思いで、彼らはケレンスキーの臨時政府を支持していた。

 一〇月一四日、「穏健派」社会主義者の公式機関紙はこう述べた──。

 革命は二幕のドラマである──旧体制の破壊と、新体制の創造と。第一幕はすでに長引きすぎた。今や第二幕へと進むときであり、それもできるだけ速やかに上演すべきだ。ある偉大な革命家もこう言っている──「急ごうではないか、友らよ、革命を終結させるために。長く引き延ばしすぎる者はその果実を収穫しそこなうだろう……」。

 ところが労働者、兵士、農民といった大衆の間では、「第一幕」はまだ終わっていないという思いが根強かった。前線の軍隊委員会では、部下を人間らしく扱うことになじめない将校たちとの衝突が絶えなかった。銃後では、臨時政府の規定どおりに土地問題に対処しようとしているのに、農民が選出した土地委員会の委員たちが投獄されるありさまだった。そして工場の労働者たちは経営者が労働者のブラックリストを作ったり、工場閉鎖ロックアウトをするのと闘っていた。いや、それどころか、帰国してくる政治亡命者たちは「望ましくない」市民として国から締め出されていた。そして海外から自分の村へ帰ってきた者の中には、一九〇五年に行った革命的行為を理由に訴追され、投獄される者さえいた原注二

 こうした民衆の多種多様な不満に対し、「穏健派」社会主義者らの答えはただひとつ──一二月に憲法制定議会が開かれるのを待っていろ、だった。だが大衆は納得していなかった。憲法制定議会も実にありがたい話ではあるが、ロシア革命には達成すべきいくつかの明確な目的があり、マルス広場の殺風景な「同胞たちの墓地1」で革命の殉死者たちが朽ち果てているのは、まさにその目的のためなのだ、と。その目的とは、平和、土地、そして労働者による産業の管理だ。それは憲法制定議会が開かれようと開かれまいと、変わることがないのだ、と。憲法制定議会は延期に次ぐ延期を重ねていた──そのうち民衆がおとなしくなり、要求をあきらめるかもしれないというわけだ! いずれにしろ、もう八カ月も革命をやってきたというのに、目に見える成果があまりにも乏しかった……。

 そんな間にも、兵士たちは講和など待たずに続々と戦線から逃亡しはじめ、農民たちは領主らの邸宅を焼いて広大な農地を取り上げ、労働者たちは破壊活動サボタージュやストライキを打っていた……。そしてまったく当然ながら、工場主、地主、軍の将校たちはあらゆる民主的な妥協に抵抗して、あらゆる方法で影響力を行使した。

 臨時政府の政策は、効果のあがらない改革と過酷な弾圧の間を揺れ動いた。労働大臣は社会主義政党のメンバーだというのに、今後は労働者委員会のいかなる会合も勤務時間後にしか認めない、という布告を出した。前線の部隊では政府にたてく諸政党の「扇動者」たちが逮捕され、急進的な新聞社は閉鎖され、革命的なプロパガンダを展開する連中には、死刑が適用された。赤衛隊を武装解除しようとする動きもあった。治安維持のために地方にはコサック2の部隊が派遣された。

「穏健派」社会主義者とその閣内のリーダーたちは、こうした措置を支持し、有産階級との協力も欠かせないと考えていた。このため大衆はあっという間に彼らを見捨て、平和、土地、労働者による産業の管理、そして「労働者階級の政府」などを標榜していたボリシェヴィキの支持に回った。こうして一九一七年九月、事態は重大な局面を迎えた。全国民の圧倒的な思いに反し、ケレンスキーと「穏健派」社会主義者たちは有産階級らとの連立政権3を打ち立てたのだ。そしてその結果、「穏健派」であるメンシェヴィキと社会革命党は永久に人々の信頼を失うことになった。

 一〇月半ばごろに「ラボーチー・プーチ(労働者の道)」紙に掲載された「社会主義者の閣僚たち」という記事は、「穏健派」社会主義者を批判する大衆の思いをよく伝えている──。

 彼らの国民へのご奉仕ぶりはこうである原注三

 ツェレテリ──ポロフツェフ将軍4の手助けを得て労働者らを武装解除し、革命派兵士らを追い詰め、軍隊内の死刑を承認した。

 スコベレフ──初めは資本家の利益に対して一〇〇パーセントの課税を試みたが、最後には、そう、最後には商店や工場の労働者委員会を解散させようとした。

 アフクセンチエフ──数百人の農民(土地委員会の委員ら)を投獄し、労働者や兵士たちの新聞を何十紙も発禁とした。

 チェルノフ──「帝国」宣言に署名してフィンランド議会を解散5させた。

 サヴィンコフ──コルニーロフ将軍と公然と同盟を結んだ。臨時政府を裏切り損なって結果的にわが国を救ってくれたわけだが、それは彼の力とは関係のない要因によるものだった。

 ザルードヌイ──アレクシンスキーとケレンスキーの許可を得て、革命のもっとも優れた働き手──兵士や水兵ら──を投獄した。

 ニキーチン──鉄道労働者を痛めつける粗野な警官の役を買って出た。

 ケレンスキー──この男については何も言うまい。彼がしでかしてくれたことを数えあげればきりがない……。

 バルチック艦隊の代議員大会は、次のように始まる決議をヘルシングフォルス6で可決した。

 われわれは政界の山師──ケレンスキー──を、「社会主義者」による臨時政府の地位からただちに排除するよう要求する。それは彼こそは、資本家階級ブルジョアジーを利する恥知らずな政治的恐喝によって、偉大なる革命の、そして革命的大衆の、名を汚して壊滅させつつある張本人だからである……。

 こうしたさまざまな動きがもたらした直接的な結果、それはボリシェヴィキの台頭だった……。

 一九一七年三月、労働者と兵士たちのごうごうたる激流がタヴリーダ宮殿7に襲いかかり、渋る帝国議会ドゥーマにロシアの最高権力を掌握させたのだが、それからというもの、革命の方向性の転換を強いてきたのはいつも大衆、すなわち労働者、兵士、そして農民だった。ミリュコーフの内閣8を引きずり下ろしたのも彼らだった。ロシアの講和条件──「無併合、無賠償、民族自決」──を世界に向けて宣言したのも彼ら大衆のソヴィエトだった。そして七月、ソヴィエトがロシアの政権を取ることを要求するために再びタヴリーダ宮殿を襲ったのも、組織化されていない無産階級プロレタリアートの自発的な蜂起だったのだ。

 当時ボリシェヴィキは小さな政治グループにすぎなかったが、この運動の先頭に立った。だがこの蜂起は無惨な失敗に終わり、世論は彼らに背を向け、リーダーを欠いた群衆はヴィボルグ区──パリで言えばサンタントワーヌ地区に相当する、ペトログラードの労働者街──におとなしく引き下がるしかなかった。続いて残忍なボリシェヴィキ狩りが始まった。トロツキー、コロンタイ夫人9、カーメネフ10を含め、何百人もが投獄された。司法当局に追われる逃亡者となったレーニンとジノヴィエフは地下に潜伏した11。ボリシェヴィキの新聞は発禁。挑発者や反動勢力は、ボリシェヴィキはドイツのスパイだとの声を張り上げ、ついには世界中の人々がそう信じ込んだのだ。

 だが臨時政府はボリシェヴィキに対する非難を裏づけることができなかった──ドイツと組んでいるとの陰謀説の証拠とされた文書は偽物だと判明した(有名な「シッソン文書12」の一部である)。そしてボリシェヴィキのメンバーたちは裁かれることもなく、名目的な保釈金で、ときには保釈金さえなしに、一人また一人と釈放された──最後に残ったのはわずかに六人だった。ぶれ続ける臨時政府を無能で優柔不断だとする声には反論の余地がなかった。そこでボリシェヴィキは大衆の切なる思いのこもったあのスローガンを再び掲げた──「すべての権力をソヴィエトに!」。何もただの党利党略ではなかった。なぜなら当時のソヴィエトでは、ボリシェヴィキにとっては憎むべき敵である「穏健派」社会主義者が多数を占めていたのだから。

 しかしいっそう効果的だったのは、ボリシェヴィキが労働者、兵士、農民たちの素朴な率直な願いに合わせて当面の綱領を作り上げたことだった。こうして「穏健派」の祖国防衛派オボロンツィメンシェヴィキと社会革命党(エスエル)がブルジョアジーとの妥協にかまけている間に、ボリシェヴィキは急速にロシアの大衆の心をつかんでいった。ボリシェヴィキは七月には追い詰められ、さげすまれていた。それが九月には、首都の労働者、バルチック艦隊の水兵たち、それに兵士たちをほとんど全面的に味方につけていた。九月に行われた大都市の市議会選挙の結果はめざましかった──メンシェヴィキと社会革命党の獲得議席はわずか一八パーセント。六月には七〇パーセントを超えていたというのにだ……原注四

 それでも海外から見れば不可解に思える現象もあった。ソヴィエト中央執行委員会、軍隊委員会と艦隊委員会の中央委員会、それにいくつかの労働組合の中央委員会も──とりわけ郵便電信労働者と鉄道労働者の各組合が──恐ろしく激烈にボリシェヴィキに反対したのだ。それはこれらの中央委員会の委員らが選出されたのが、メンシェヴィキと社会革命党が大々的な支持を得ていた真夏かそれ以前のことだったからだ。それ以来、彼らは新たな選挙をことごとく延期あるいは阻止してきた。こうして、労兵(労働者・兵士代表)ソヴィエトの規約によれば、本来は九月に全国大会を開催すべきだったというのに、全ロシア・ソヴィエト中央執行委員会(ツェー・イー・カー)は会議を開こうとしなかった。そしてその口実として、憲法制定議会がわずか二カ月後に予定されており、その時点になればソヴィエトのメンバーたちは退陣するだろうからと、ほのめかしたのだ。一方、全国各地のソヴィエトや労働組合支部、そして兵士や水兵らのあらゆる部隊で、ボリシェヴィキは勝利しつつあった。農民代表ソヴィエトはいまだに保守的だったが、それは停滞した農村部では政治意識の発達が遅く、数十年にわたって農民たちを扇動してきたのが社会革命党だったからでもある……。それでも農民たちの間にも革命的勢力の一翼が形成されつつあった。それは一〇月にはっきりと表れた。社会革命党の左翼が分離独立し、左翼社会革命党〔左翼エスエル〕という新たな党派を結成したのだ。

 同時に、反動勢力が自信を深めている兆候もいたるところに見られた原注五。例えばペトログラードのトロイツキー笑劇ファルス劇場では、『皇帝の罪』というドタバタ風刺劇が王党派の一団の妨害を受け、「皇帝を侮辱した」として役者たちが危うくリンチされるところだった。新聞の論調には「ロシアのナポレオン」を待望する嘆き節も見られるようになった。ブルジョアの知識階級インテリゲンチャの間では、ラボーチェフ(労働者)代表ソヴィエトをサバーチェフ(犬ども)代表ソヴィエトと呼びならわしていた。

第一章 背景(2)

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