「さあ、また地獄が始まるか」
自動車工場で働く僕が見たものとは。「働くこと」の意味を問うルポルタージュの歴史的名著に、最新の情勢を加筆した新装増補版。

目次・扉デザイン 佐藤篤司

扉 手書き文字  鎌田 慧

出迎え

 一九七二年九月一二日 火曜日 一五時三一分。定刻どおり新幹線駅に着く。指定された集合場所、「出札口を出たところの壁画の前」は、農村から出て来たらしい団体観光客でごった返していた。下着やえなどをめたバッグをぶらぶらさせながら近づいて行くと、まず、ナショナルのはたが見え、それに気を取られて歩いていると、目の前に「トヨタ自動車工業株式会社」ののぼりが立っていた。ぼくは、少し遠くから、様子を見ながら近づくことを考えていたので、一度戻ろうと思ったのだが、その紺色の小さな幟を持っていたぶとりの男は、もうざとくぼくを見つけ、笑いかけていた。ぼくはえしやくし、がるなまりで「ひろさきから、工藤君という人は着いていますか」とたずねた。

「まだ、確認してないからわかりません。みんな荷物をロッカーに預けて遊びに行ってますよ。四時半にもう一度集まって下さい」

 なんどかり返したようなものれた返事だ。かれは一人で立っているし、そこにはこれからぼくの同僚になるはずの「かせしや」たちの荷物さえ置かれていない。農村から出て来た人たちが、ロッカーに荷物をほうり込んで街をブラブラしているのは意外だ。出稼ぎ者は、そんな気楽な旅行者なのだろうか。

 駅の近くの喫茶店で一時間ほど新聞をひろげてから行ってみると、もう十数人集まっている。そのほとんどが二〇代前半の若者たちなのだ。長髪、ジーパン、なかにはきんぱつに染めているのもいる。九月中旬ではまだ農作業は残っているし、いま集まって来た「出稼ぎ者」たちは、農民ではなく、都会や地方都市で新しい仕事を探している青年たちがほとんどなのだろう。その中に背の低い工藤君もじっていた。かれは面接の日と同じように、グレーの地に白っぽいチェックのちょっと大きめな夏用のうわを着て、不安そうに周りを見回していた。近づきながらあいしたのだが、かれはぼくの顔を忘れていた。

 むかえのバスが到着するまでの約三〇分間、ぼくたち一七人は、ぎようれつを作らされ、歩道のはしに立たされて待つ。たがいに口をきくこともなく、もくぜん煙草たばこを吸いながら待っていた。この中の三、四人だけがちゆうこうねん層で、農村からやって来たたいぬし、いわゆる「出稼ぎ者」と見られ、あとは長方形の大きな紙袋をかるがると下げていて、そのままざつとうの中にまぎれ込んでしまいそうな青年たちだ。やがて、トヨタのマークが入った大型バスが到着し、走り出してからもみんなぎこちなく、もくもくとしていた。名古屋の街をはずれ、きゆうりよう地帯をえ、夕暮れのせまる田んぼが広がる道をバスは走る。カー・ラジオは、富士山に初雪が降ったニュースを伝えていた。「山頂はせきせつ五センチ」

 工藤君は小型のスーツケース二つと、大きくふくらんだデパートの紙袋を二つ持って来ていた。その紙袋からは、ながぐつや折りたたんだようがさが顔を出している。かれもせつこうとして来たのだが、うまく勤めてほんこうになりたいという希望も持って来ているのだ。九月一日に弘前のしよくあんでぼくたちは面接を受けたのだが、その時、かれはしんじよう調査表の「希望動機」のらんに「貴社の将来性」と記入していて、のぞき込んだぼくをびっくりさせた。六ヵ月で自動的にかいになる季節工なのに、「貴社の将来性」はとうとつな感じを与えたものだが、その一行は二一歳のかれにとって、にくでも冗談でもなく、大企業に入りたい、というせつじつな願望のかんけつな表現なのだ。が試験官の方は、あいまいに「六ヵ月たってから考えましょう」と話を打ち切っていたのだった。

 バスはふくのゆるやかなきゆうりよう地帯を三、四十分──実際には一時間以上にも感じられ、だんだん心細くなって来ていた──も走った。沿えんどうに大きな工場や社宅が姿を現わし、目的地が近いことを感じさせた。ようやく、フェンスに囲まれたコンクリート四階ての前で止まってぼくたちは降ろされた。もう日は暮れていた。「せいしんふうりよう」、ここが当面の落着き先だ。名前にそぐわず、収容所といった単語がぴったり。門の横のガラス張りのしゆえいじよは不快なあつ感を与える。ここには、学園生(企業学校の高校生)とダイハツからの〝応援者〟、それに教育期間中の季節工が入れられているのだそうだ。先に着いていた人たちと合流し、約四〇人が五人ずつ部屋割りされる。夜と朝の食券をもらい、のりでゴワゴワになったシーツ、とんカバー、まくらカバーを受け取る。煙草をいながら歩いていた工藤君は守衛にどやされた。

 風呂に入り食堂で夕飯を済ますと、なにもすることがない。家具も何もない一二畳のガランとした部屋で寝ころびながら、五人でぼつぼつ話しだした。部屋の住人は、ぼくと工藤君と福岡市から来た二二歳の佐藤君、それに東京都立川の近くのふつ市から来た二三歳の梶谷君。四人ともトヨタ季節工は初めての体験だが、もう一人、五〇すぎで色があさぐろく、背の高い人は、三度目の出稼ぎとのことで余裕を示している。

 福岡から来た佐藤君はえらの張ったせいかんな顔つきで、小柄ながらがっしりしたたいをしている。高卒後ある鉄鋼会社のせいこう工場で働き、いまは自衛隊志願者だ。願書を出しているのだが、さっぱり採用通知は来ないし、家族からは、「自衛隊に入れんようじゃ、日本国民じゃなかろ」と冷やかされ、「どうしてオレを採用しないのかなあ」と思いながらトヨタにやって来た。

 福生から来た梶谷君は、長身で、まつげの長い都会的な青年である。二年間、北海道ほろの陸上自衛隊にいた。こうしてぐうぜん出会った自衛隊えきと自衛隊志願者は、寝ころびながら兵器の話にうんちくをかたむけている。志願者の知識はばつぐんで、世界の戦車の鉄板の厚みや各種しやてい距離をそらんじていたし、予備役は実際かれが手にしたいくつかのしようじゆうの性能を比較しながら話した。東北から出て来たばかりの工藤君とぼくは、この生まれて初めて聞く話題にぎもを抜かれ、口を差しはさむこともできず、まくらで寝そべりながら、ただ聞いているだけだ。

体力検査

 九月一三日 七時起床。八時、バスで本社工場正門まで運ばれ、そこから本館裏の教育会館へ。三十数人でぞろぞろ歩いて行くとちゆうで迷ってしまう。だれかいんそつしやがいるとばっかり思っていたのだが、前に来たことのある経験者がみんなの先頭に立って歩いていただけのことだった。

 教育会館の三階にある、小学校の教室を二つ合わせた程度の部屋で、八時半から「かんこうどうにゆう教育」なるものが始まった。出欠をとったあと、北海道出身者から前の席にすわらされる。最初がたるから来た四〇すぎの人で、かれは二年目。そのとなりにぼくが坐り、そして工藤君。その隣りは青森市からコロナマークの新車でやって来た三六歳の男。奥さんは飲み屋を経営し、本人は自動車教習所の教師をしていたという。この四人が同じ机になった。

 身体検査の始まる前に、この日の昼から使う食券のまえりの希望を取る。隣りの北海道から来た人はいつせんも借りず、ぼくと工藤君は一〇〇〇円つづりの金券を七冊、七〇〇〇円。青森から来た人は一万円、一万円が最高限度で、この限度枠いつぱいに借りる人が多かった。身体検査は、身長、体重、レントゲン、視力、しきしん、尿検査などのほかに、あくりよくはいきんりよくはいかつりようなどについても行なった。これは健康検査ではなく、明らかに体力検査だ。

 このデータによって、それぞれ配属する現場を決めるのだろう。それが終わると、こんどは七、八人ずつパンツひとつのまま横一列にならばせる。んだり、しゃがんだり、片足で立ったり、両手を伸ばして曲げたり、指を動かしたり、足首を上下に動かしたりさせる。白衣を着た男が両足を開いてちょっと身体をかたむけてぼくたちのひとりひとりを見ていた。まるで馬や牛のしなさだめのように。労働力として機能するかどうかを調べたのだ。くつじよくてきだ。

 昼食。前借りした食券を持って、本社工場前の中央食堂へ。一二時のポーが鳴ると、ほぼ同時に、汚れた作業服、作業ぼうの労働者たちが門から飛び出して来た。たちまちのうちに階段をけ登り、並びひしめき、そしてくす。アルマイトのお盆を取り、ポリエチレンの湯飲みを取り、はしを取り、大きなうんぱんしやに積んだそうざいの皿を取り、台の上のどんめしを取って、テーブルを確保し、食べ終わるとそのままのスピードで、ドラム缶にざんぱんを捨て、食器を洗い場の中に放り込んで、おぼんみ上げる。それがまるで流れ作業のように、まったくな動作がない。入って来て、出て行くまで、ひとつの大きな流れとなって流れているのだ。だんしようしながら食べている人はいない。きようたんした。食欲はげん退たいした。

 午後は健康保険、失業保険、ようこうじよ申告書などの各書類に記入。このほかに、人事部にかなり長期的に保存されるのであろう、職歴、家族構成などを書き込む個人カードにも記入。その中の一項目、退職年月日のところに、多くの人たちが自分の契約期間満了日(本人の希望によって三ヵ月以上六ヵ月まで)を機械的に記入して係員から注意されたのが印象的だった。後で企業側で書き込む退職年月日のこうもくにまで入社した瞬間にみずから記入してしまうのは、一定期間だけしか働けないせつこうの習性なのだろうか。あとは映画だった。「トヨタ その三〇年をあなたに」。第二次大戦中、中国大陸らしいあくを進むトラックのぎようれつが印象深かった。トヨタはぐんじゆ生産で発展して来た。おおそういちのトヨタ自動車のルポの一節を思い出した。

 戦時中、ほく戦線に従軍していたときの話だが、いよいよ最前線にむかって出発というときに、兵隊さんはクジをひいた。勝った方は、何年型だかわからない古いフォードのトラックにのってバンザイをさけび、負けた方は内地からついたばかりの国産トラックの上でみずさかずきをかわした。乗車が途中で故障をおこしてエンコしようものなら、たちまちはち軍の急襲をうけて全滅する公算が大きいからだ。当時〝国産車〟というものは、それほど信用がなかったのである。(『大宅壮一の本──実業と虚業』、サンケイ新聞社、一九六八年刊)

 一九五〇年(昭和二五年)当時のストライキの写真も出て来た。が、ナレーションでは何も語られなかった。

 帰り道。東ゲート前の新聞入れボックスに、トヨタ自動車工業労働組合のかん『週刊トヨタ』が入っていた。守衛所の前にろう機関紙が置かれているのも不思議だ。B4ばん裏表のよこぐみかつぱんり。九月一一日付。

『十年の歴史と実績のうえにたってそうれんに結集し、全自動車産業労働者の一大やくしんをはかろう』をスローガンに全国自動車第一一回定期大会および解散記念式典が934日の2日間にわたり京都府立勤労会館において開催された。

 この大会には全国自動車加盟96たん、代議員450名、ぼうちようにん110(当労組から120名)が参加し、しん、採決に加わった。

 全国自動車は組織結成以来満10年間、加盟組合員の力強い友情と連帯に支えられ、自動車産業に働く労働者の労働条件向上に大きな役割を果してきたが、この大会で発展的解散をし、10月には総連結成の運びとなった。

 二面には「11月解散12月選挙濃厚」の記事。一、二面ともに労組出身わたなべたけぞう代議士(民社党)の顔写真。

【第一章】季節工8818639番(一九七二年九月)(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01