私と同じ44歳の彼は、もうすぐ帰らぬ人となる。処刑まで、あと1カ月を切っていた
〈犯した罪の償いとして、死刑が存在する。それは、人間社会が決める善と悪の基準に則って、できる限り悪を排除するための慣習なのだと思う。しかし、その基準は、全世界共通でないばかりか、国や地域や町によっても異なる。理想や希望こそあれ、死刑に絶対的な答えはない。〉生殖医療、安楽死と「生と死」をテーマにし続けてきたジャーナリストが、世界各国を取材し、死刑の「なぜ」に迫る。

2回 死刑と闘った男

 二〇二〇年二月二五日、テキサス取材から戻った私は、普段と変わらず、スペイン各地で別の取材活動を続けていた。ところが、三月も第一週を過ぎると、中国や日本での脅威と捉えていた新型コロナウイルス(以下、コロナ)が、もはやアジアだけの話ではなくなっていた。イタリアでは、感染者が六〇〇〇人に迫り、死者も二〇〇人を超えたのである。

 三月一〇日になると、スペインの感染者数が、ヨーロッパではイタリアとフランスに次いで三番目に多い一六〇〇人に達した。町中では、慣れないマスクを付けた人々が増え、スーパーや八百屋の従業員は、手袋を付けて働き出していた。一一日には、世界保健機関(WHO)が「パンデミック宣言」を行い、いよいよウイルスとの本格的な闘いが始まりそうだった。

 またその日の夜、嫌なニュースがテレビ画面から流れてきた。トランプ大統領(当時)が、英国とアイルランドを除くヨーロッパ在住者の渡米を禁じるという。具体的には、米国市民を例外とする欧州連合(EU)域内の居住者が対象で、いち早く国境封鎖の措置を取ったのである。

 私は、三月一六日から、アメリカへの再訪を予定していた。第一回で取材しきれなかった死刑囚のジョン・ウィリアム・ハメルについて、もう少し詳しく調査するつもりだった。だが、この状況下での渡米はさすがにリスクが高すぎる。国境が開放されてから、この計画を考え直すことにした。航空会社に電話を入れ、チケットの変更を申し出た。

 その後、コロナの恐怖は、世界中に広がっていった。EU加盟国も次々と「緊急事態宣言」を発出し、国境を封鎖した。私は、三カ月間の自宅待機を強いられるとともに、年内に予定していた取材をすべて断念せざるをえなくなった。

ボメット刑務所のクロワール・ドゥ・ラ・モール(死刑囚監房)

死刑を廃止したヨーロッパ

 米大統領選挙が幕を閉じ、二〇二一年を迎えた。テキサスでの取材を終えてから、はや一一カ月が過ぎようとしていた。しかしまだアメリカには行けそうもない。私は、もう少し後に予定していたフランスの取材を前倒しすることにした。コロナによる移動制限や外出禁止令が強化されたり緩和されたりする中で、またいつどこで国境が閉鎖してしまうのかも分からない。今できることをやるしかない、と思った。

 この時期、スペインは夜一〇時、フランスは夜八時から、外出が禁止となっていた。私は、政府が発行する「労働移動理由証明書」を常に携帯し、車で移動することが習慣になっていた。自分一人で運転する車が、一番感染のリスクを避けられるからだ。公共交通機関は、めっきり使わなくなっていた。気がつけば、毎月一〇本前後は利用していた飛行機も、二〇二〇年三月以降、一本も乗っていなかった。

 ヨーロッパには、死刑がない。西側の先進国ばかりでなく、東欧やバルカン諸国なども、長年の紆余曲折を経て、死刑を廃止した。しかし意外にも、人権大国のフランスが「アボリシオン(死刑廃止)」を決めたのは、西ヨーロッパでもっとも遅かった。今からそれほど遠くない一九八一年一〇月のことである。

 私は、この前後のフランス社会の状況を知りたいと思った。その時代の葛藤や挫折や成就といった変遷に触れることで、人々が死刑を廃止したり残したりする意味に迫ることができる気がしたからだ。

 フランスは今年、死刑廃止四〇周年を迎える。四〇年前、ある法律家の弛まぬ努力と、強い信念によって死刑廃止は実現した。その人物とは、ミッテラン大統領時代に国璽尚書・司法大臣を務めたロベール・バダンテールだ。私はこの人物に、是非、会いたいと思った。

 そして、この元司法大臣に会うことと同時に、最後の死刑となった断頭台(ギロチン)による刑が、どのような死刑囚に対して執行され、どのような場所で行われたのかも知りたかった。フランス最後の刑場から見えてくるアボリシオンへの道標もあるのではないか。そんな気もしていた。

 一九二八年三月三〇日、パリで生まれたバダンテールは、ユダヤ系の家庭に育った。一九四三年、父親はポーランドのソビボル強制収容所に連行され、帰らぬ人となった。パリ大学で文学部と法学部を卒業した後、彼は、政府の奨学金でアメリカのコロンビア大学で文学部の修士号を取得した。弁護士になったのは、一九五一年のことだった。

 バダンテールは、すでに九二歳になっていた。一九九五年から二〇一一年まで、元老院(上院)議員を務めていたことから、まずは元老院の広報に連絡を取った。彼の秘書のメールアドレスを教えてもらい、すぐに取材申請したが、しばらく返信はなかった。冷静に考えてみても、相手は超高齢者。コロナ感染予防対策には万全を期しているに違いなかった。

 返信を待つ間、死刑現場の調査を進めることにした。調べていると、フランス南部マルセイユにある「ボメット刑務所」という所に辿り着いた。しかし、一九三九年から約八〇年間使用されたこの歴史的施設は、どうやら二〇一八年六月をもって閉鎖したようだ。二〇一九年九月から一一月末までは、一般人や小中学生の社会見学のために公開されていたが、二〇二〇年内には解体が予定されていた。

 ダメ元で南仏の地域刑務所サービスに電話を入れてみた。すると、コロナ禍で解体作業が実行されなかったとの返事だった。私が「是非、訪問したい」と頼み込むと、二日後、例外的に解錠してくれることになった。

 こうして、フランスで最後に死刑が執行された「ギロチン現場」を見学できることになった。訪問から二週間後、この刑務所の解体作業が始まる。運よく最後の現場訪問者になれたことを、私は素直に喜んだ。

ヨーロッパ全体が本当に死刑に反対しているのか

 ヨーロッパでは、欧州評議会(CoE)の存在なくして、死刑は廃止されなかった。ここで少し、ヨーロッパ全体の状況を見ておきたい。

 フランス北東部ストラスブールに本部を置くCoEは、一九四九年に創設された。主に、人権、民主主義、法の支配の分野において、国際社会の基準策定を主導するヨーロッパの国際機関といわれる。近年はサイバー犯罪、人身取引、テロ対策、偽造医薬品対策、女性に対する暴力、子供の権利、人工知能の分野にまで活動の幅を広げている。

 創設当初の加盟国は一〇カ国だったが、現在では、EU、旧東欧諸国、トルコやギリシャなど、四七カ国が加盟。オブザーバーの五カ国には、日本を始め、アメリカ、カナダ、メキシコ、教皇庁(バチカン市国)が参加している。

 このCoEの中核には、一九五三年九月に発効された欧州人権条約がある。「すべての者の生命に対する権利は、法律によって保護される……」という生命に対する権利(第二条)や、「何人も、拷問または非人道的なもしくは品位を傷つける取扱いもしくは刑罰を受けない」という拷問の禁止(第三条)などが盛り込まれている。

 しかし、この段階では、まだ死刑を廃止するには至っていない。右の生命に対する権利の中には、「法律で死刑を定める犯罪について有罪とされ裁判所による刑の宣告を執行する場合は、この限りではない」と書かれている項目があった。ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判がそれにあたる。

 一九六〇年代に入ると、各国政府の死刑に対する意識に少しずつ変化が訪れるようになる。「死刑は政府の手による別の形の殺人」といった共通認識が高まっていき、CoEが法的に死刑廃止の提案を発議した。

 一九八五年三月、「平和時における死刑を廃止する」という欧州人権条約第六議定書が発効され、現在ではロシアを除くCoE全加盟国が署名し、批准している。これはつまり、戦時下、あるいは、戦争の脅威下における死刑が一部の国では継続されていたということだ。

 二〇〇三年七月には、第一三議定書が発効され、「あらゆる状況下での死刑の廃止」が謳われた。その第一条「死刑の廃止」には、「死刑は、廃止される。何人も、死刑を宣告されまたは執行されることはない」と明記されている。この時も、ロシアとアゼルバイジャンが署名自体を拒み、アルメニアは署名のみに留まったものの事実上の完全廃止に至ったと考えられる。

 こうして見ると、ヨーロッパは、各国が歩調を合わせて死刑廃止を決めた「人権大陸」のように思えてくる。しかし、ヨーロッパの仲間入りを優先するために、死刑を廃止せざるを得なかった国もあったのではないか。今でも、死刑を望んでいる国があるのではないだろうか。意地の悪い見方かもしれないが、ヨーロッパ全体が本当に死刑に反対しているのか、私には疑念が生じていた。

筆者、宮下洋一

フランス最後の死刑場へ

 一月五日、私は南仏マルセイユに向け、車を走らせた。夜八時を過ぎたアルルの料金場では、警察官が外出禁止時間帯の警備を行なっていた。本来は運輸業者しか見られない時間帯のため、私はすぐに止められた。

「職業はジャーナリスト。仕事のために移動している」と言うと、車内の荷物と身分証明書をチェックされた。どこへ行くのかと尋ねられ、「マルセイユの刑務所」と答えると、罰金なしの通行許可が下りた。

 スペインでも、夏以降に訪れたコロナの第二波の影響で、入国や移動の制限が敷かれていたが、フランスのように出張中に警察に止められることはなかった。フランスに来ても、同じような心構えでいた私が甘かったようだ。

 予約した南仏サロン・ド・プロバンスのホテルに到着するや、ハプニングに見舞われた。ホテルは夜九時で閉館しており、チェックインができなかったのだ。予約サイトに電話を入れて交渉したが、ホテルの中に従業員がいない。仕方なく別のホテルを予約したが、そこでも受付の女性がパジャマ姿で出てくる始末だった。

 そして、翌朝。夜中にチェックインした時には、人が一人もいなかったホテル周辺が、毎週水曜日恒例だという「マルシェ」に様変わりしていた。大賑わいで、私も昨晩に夕食が取れなかったため、出来立てのパン・オ・ショコラと熱々のカフェ・オ・レをその場で調達しようとした。だが、嫌な予感がした。誰もいなかった広々としたスペースに駐車したはずの、私の車が消えていた。レッカー移動されていたのだ。

 午前中の三時間、無駄なことに時間を費やしてしまった。レッカー会社に居合わせた警察官に「あんなに真っ暗で標識もなければ気がつかない。しかも駐車料金を払っている時に、あなたたちは私を見ていたのに、注意もしてくれなかった」と文句を言った。隣にいた県外の男性二人も、同じ目に遭っていた。

 しかし、フランス社会で、苦情や不満を述べることは、壁に向かって独り言を言うことに等しい。諦めて一二八ユーロ(約一万六〇〇〇円)の罰金を払い、その場を撤退することにした。

 午後二時、ボメット刑務所には、なんとか時間通りに到着できた。薄茶色の塀に囲まれた、廃れた建物だった。隣接している現代風の建物は、二〇一七年に開所した刑務所で、受刑者たちは、この新しい刑務所に移ったのだ。

 待ち合わせの正門には、プロバンス地方全体の刑務所ディレクターを務めるピエール・ラファンと、女性広報官のサマンタ・フォンテーヌが待っていた。お互いにマスクをしているため、表情が分からず、口元の動きも見えない分、言語も理解し難くなる。このような状況は、今後の取材時には避けられなくなるのだろう。

 刑務所内は、薄暗く、静かで、汚れていた。灰色のコンクリートの地面には、警察官の応募用紙や建設業者の機材や道具などが散乱していた。周囲の窓も全開で、外気がそのまま入ってきて寒い。言葉を発するたびに、ラファンの眼鏡は真っ白に曇っていた。

プロバンス地方全体の刑務所ディレクターを務めるピエール・ラファン

 一九三九年に開設された三万平米のこの刑務所は、一九四〇~四五年のナチス・ドイツ占領下、強制収容所に送られるユダヤ人の通過収容所として利用された。一九八〇年代には、フランスに移住してきたインドシナ難民の収容所にもなった。また、一九八七年には所内で暴動が発生し、一九九九年にはヘリコプターによる脱獄事件も起きていた。

 

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