仮想通貨は最強の貨幣か?
大反響の異色経済ドキュメント4作目。同番組シリーズがテーマとする「欲望が欲望を生みだす資本主義の先に何があるのか」。今回は、仮想通貨が生まれ、キャッシュレス化が進む現象を捉え、資本主義の基本を成す貨幣に着目。

1章 「ビットコイン」は究極の貨幣か

現実が理論に追いついた

 『貨幣論』という書物を出版したのは1993年でしたが、貨幣についての研究を本格的に始めたのはさらにさかのぼって、1980年代の初め頃でした。それから40年近くも経っていますが、その間、私の貨幣論は、まったく変わっていません。

 その間に変わったのは、「資本主義社会」のほうです。

 資本主義社会の変化については、皆さんが知っているとおりです。「貨幣」の観点からの一番大きな変化は、スイカやパスモのような電子マネーの拡大やスマホ決済の普及、さらにはビットコインのようなデジタル通貨の登場です。私は『貨幣論』の中で、そうした電子情報を使った貨幣についてもかなりのページを割いて論じました。ただ、当時は、商業用のインターネットが生まれたばかりでした。そのインターネット上でデジタル通貨を流通させる試みがすでにいくつか始まっていましたが、どれも失敗していました。私自身も『貨幣論』を書いた直後、その応用として、デジタルな通貨をインターネット上で流通させる方法についての小さな英語論文をインターネット上で発表したこともあります。

 ところが、今や、スイカやパスモが日常化し、スマホ決済をする人も増え、ビットコインの価格の乱高下について人々が日常的に話題にするようになっている。つい最近でも、フェイスブックがリブラという名のデジタル通貨の構想を発表し、世間を騒がせています。

 いつの間にか、現実の資本主義社会が、私が頭の中で考えていた理論に追いついてきたように思います。

 なぜ、現実が理論に近づいてきたのでしょうか?

 『貨幣論』とは、「貨幣とは何か?」という、ひどく抽象的な問いをめぐって書かれた書物です。私はその抽象的な問いに答えるために、「純粋な資本主義社会」なるものを想定しました。そして、その中に自分を置き、純粋に理論的に貨幣に関して考えてみたのです。

 当時、すでにグローバル化は始まっていましたが、現実の資本主義に対しては、国境をはじめとして、ヒトやモノやおカネの流れを阻害するさまざまな規制がありました。インターネットも広がり始めていましたが、情報通信の技術の発達も道半ばでした。現実の資本主義と純粋な資本主義との間には、まだ大きなギャップがありました。だからこそ、理論的に考えなければならなかったのです。

 ところが、その後のグローバル化の進展は、世界の隅々までを市場で埋め尽くし、地球全体を一つの資本主義社会にしてしまいました。それと並んだインターネットの発達は、グローバルな資本主義社会の中のあらゆる情報を、ほとんど瞬時に、そしてほとんどタダで、あらゆる場所に運ぶことを可能にしました。資本主義社会自体がまさに「純粋化」してきたのです。そして、『貨幣論』で描いていた理論的な世界にどんどんと近づいてきたのです。

貨幣をめぐる二律背反

 「貨幣はレヴェラーズだ。」これは、あの『資本論』の中のカール・マルクスの言葉です。「レヴェラーズ」とは「平等派」という意味で、17世紀のイギリスのピューリタン(清教徒)革命のとき、法の下での平等を唱えた急進的な政治グループのことを指しています。法の下の平等とは、人間は生まれや身分や財産の違いにかかわらず、基本的人権を行使する「自由」を持っているということです。「貨幣はレヴェラーズだ」という言葉でマルクスが言おうとしたのは、人間は、法の下だけでなく、おカネの下でも平等であるということです。なぜならば、貨幣を持つことによって、人間は匿名性を得るからです。すなわち、自分のアイデンティティーを消すことができる。たとえば、1万円を持った人間は、身分が違っても、性が違っても、民族が違っても、言語が違っても、同じ1万円の価値があるモノを買えます。それによって、貨幣は、近代以前の社会において人間を縛り付けてきたさまざまな共同体的束縛から、個人としての人間を切り離すという働きをしてきたのです。その意味で、貨幣は近代社会における人間の「自由」に基礎を与えているのです。

 だが、もちろん、話はこれでは終わりません。1万円を持った人間同士は、1万円を持った人間として同じ価値のモノが買えますが、100万円を持った人間に比べたら、100分の1のモノしか買えない。貨幣は、人間を身分や性別や民族や言語による差別から自由にする代わりに、所得や資産の「不平等」を生む可能性を持つのです。さらに、後の第2章から第4章を通してくわしく論じようと思いますが、貨幣が人間にあたえる自由そのものが資本主義社会に必然的に「危機」をもたらしてしまいます。

 つまり、貨幣をめぐって個人の「自由」と社会の「安定」は二律背反的なあり方をするのです。

 フリードリッヒ・A・ハイエクやミルトン・フリードマンのような自由放任主義者は、資本主義社会の「自由」を強調し、その自由に必然的に伴ってしまう社会の「不安定性」を軽視してしまう。他方、カール・マルクスや社会主義者の場合は、貨幣は自由をもたらすと言いながら、その自由は「ブルジョア的な自由」に過ぎないと切り捨ててしまう。経済危機や所得の不平等のない社会を求めて、貨幣を究極的には排除する社会主義社会を構想したのですが、二兎を同時に追うことはできません。ソビエト連邦や東欧諸国、さらには北朝鮮や文化大革命下の中国など、20世紀に現実化した社会主義国家は、社会主義が必然的に人間の自由を抑圧してしまうことを明らかにしてしまいました。

 自由放任主義者も社会主義者も、ともに貨幣に関して十分に思考しなかったのです。

 人類は、過去何十万年も貨幣が存在しない共同体的な社会に生きてきたわけですから、人と人の関係が緊密で、社会自体が安定していた古き良き共同体社会に戻りたいという願望を、本能的に持っているはずです。だが、もはやそこには戻れません。近代社会に生まれてしまった私たちは、すでに「自由」を知ってしまったからです。そして、20世紀における社会主義の失敗をすでに学んでしまった21世紀の私たちは、かつての多くの知識人のように、社会主義社会に未来を託すこともできなくなってしまいました。

 私たちは、自由が増えれば安定性が減り、安定性を増やすと自由が減ってしまうという、「自由と安定との二律背反」の中で生きて行かざるをえません。そして、自由と安定とが二律背反の関係にあるというこの認識は、現在、ますます重要になっています。それは、貨幣がもたらす自由を極限まで追求していく自由放任主義が主導してきたグローバル化が、先ほど述べたように、資本主義社会を純粋化してしまったからです。そして、いままさにその自由に必然的に伴う経済危機の可能性、そして不平等の拡大がもっとも先鋭的なかたちで現れつつあるからです。

 すこし、議論を先走りさせてしまったようです。貨幣について、もっとくわしく話す必要があります。

ビットコインとは何か

 「ビットコイン」とは、ナカモト・サトシと名乗る人物が2008年に提唱した「分散化された仮想通貨」のことです★1。ナカモト・サトシとは、日本の漫画の主人公の名前ですが、本人は日本人ではないと思います。その翌年に、ビットコインが実際に発行されました。

 「仮想通貨」とは何か。簡単に言いますと、001101011100000010……というような数字の連なりです。数字の連なりを暗号にして──暗号にしないと盗まれるので──そして数字そのものを貨幣として流通させる。500円玉の場合は金属のかけら、1万円札の場合は紙切れですけれども、紙切れや金属のかけらといったモノではなく、「数字」そのものを「貨幣」として流通させる試みです。モノとしての実体性を持っていないので「仮想通貨」と呼ばれるのです。

 また、ビットコインのことを「分散化」された仮想通貨と言いましたが、分散化されたというのはどういう意味でしょうか? 第1に、ビットコインの発行を国家や中央銀行ではなく、任意の民間のグループが行ってしまうことです。第2に、貨幣には、常にニセ金問題がつきまといますが、500円玉や1万円札といった現金の場合は、発行している日本政府や日本銀行がギザギザを入れたり透かしを入れたり通し番号を印刷したりして、ニセ金を防ごうとしていますし、民間の金融機関もニセ金に対して常に目を光らせている。さらに、法律によってニセ金造りを脅しています。かつては通貨偽造罪ははりつけや打ち首の極刑でしたし、いまでも無期懲役になりうるほどの重罪です。

 ところが、ビットコインの場合、使われた暗号がニセ金でないことのチェックを、国家や中央銀行や通常の金融機関にまかせずに、ビットコインを使っている仲間同士だけで行うという仕組みをつくり上げようとしています。じつは、数字をおカネとして使うときには、硬貨や紙幣とは異なる新たなニセ金問題が生まれます。500円玉や1万円札でモノを買うとき、私たちは500円玉や1万円札を売り手に渡しますから、おなじおカネを2度使えません。ところが、おカネが数字の場合、売り手にその数字を渡しても、私の頭の中にはその数字が残っています。いや、私が記憶力が悪くても少なくとも私のスマホやコンピューターは数字を覚えてくれています。数字とは本物もそのコピーもまったく同じものですから、私はそのおカネを2度も3度も使うことができてしまうのです。もちろん、2度目、3度目に私が使う数字はニセ金です。仮想通貨に固有のこのニセ金問題は、「二重支払い問題」と呼ばれています。ということは、仮想通貨の場合、それが使われるごとに、その数字が二重支払いでないことをチェックしなければならないのです。

 ナカモト・サトシは、ビットコインの二重支払いを防ぐために、「ブロックチェーン」という仕組みを採用しています。日本語では分散台帳と呼ばれ、どのビットコインについても過去の取引をすべて暗号化して鎖のようにつなげて記録したもので、市場参加者が共有します。そして、新たにビットコインを使った取引が行われたときに、そのブロックチェーンが二重支払いではないかをチェックするためには、「ハッシュ問題」と呼ばれる膨大な計算問題を解かなければならないように工夫しています。取引があるごとに、ヨーイ・ドンで、多数のビットコイン使用者がコンピューターでこのハッシュ問題を解く競争をし始めるのです。そして、一番早く解いた人には、新たなビットコインをご褒美として与えることにしています。すなわち、ニセ金のチェックすら、国家や中央銀行を排除し、まさに利潤動機にもとづく自由競争原理を利用しているのです。本当に、巧妙な仕組みです。

ビットコインは貨幣にならない

 ビットコインの誕生から10年が経過しましたが、私はその誕生時から興味があってフォローしていました。そのとき少しでもよいから買っておけば、その後大きく値上がりしましたから、今ごろ大金持ちだったはずですが、100円すら投資せずに、単に研究目的でホームページなどを見ていただけでした。ただ、それによって、自分の利益とまったく関係ない自由な立場でビットコインを分析することができました。そういう関係もあって、ビットコインに関してよく質問を受けます。その質問をいくつか紹介します。

 第1に、よく出る質問は、「ビットコインなどの〈仮想通貨〉の普及は、貨幣のない社会を招来するのではないか?」というものです。

 事実、このようなことをまことしやかに喧伝する人物は、あとを絶ちませんが、私の答えは断固「NO」です。なぜかというと、この質問は「現金(キャッシュ)」と「貨幣(マネー)」を混同するという、初歩的な間違いをしているからです。たしかに、1万円札や500円玉のような現金は将来なくなるかもしれません。日本はまだまだ現金王国ですが、じっさい、スカンジナビア諸国のように、現金がどんどん使われなくなっている国はかなりあります。でも、それは現金の代わりにさまざまな形の仮想通貨が貨幣になるだけであって、貨幣がない世界になるのではありません。キャッシュレス社会はマネーレス社会ではありません。いや、逆に、キャッシュレスになることによって、ますます貨幣の使い勝手がよくなるだけなのです。

 第2に、「ビットコインは新しい貨幣か」という質問をよく受けます。

 私の答えは、やはり「NO」。『貨幣論』から見れば、ビットコインは貨幣としてはまったく新しくありません。もし何か新しいところがあるとすれば、それはブロックチェーンという技術を使っていることです。

 第3に、「ビットコインはいつか本当に貨幣として使われるようになるのか?」という質問もよく受けます。

 私は、2016年ごろまでは、ひょっとしたら貨幣になるかもしれないと思っていましたが、今では、ビットコインは貨幣になる可能性を99失ったと思っています。ですから、この問いに対しても私の答えは「NO」です。

 なぜこれらの質問に対して私が「NO」と答えたかを説明するためには、そもそも「貨幣とは何か」というところから、話をしなければなりません。ただ、「仮想通貨の普及は、貨幣のない社会を招来するのではないか?」という最初の質問には、すでに答えを与えているので、無視しておきます。

第1章 「ビットコイン」は究極の貨幣か(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を制限しています

01