本書は「文藝春秋」で二〇一一年六月号から一二年五月号にかけて連載したものを、新たに加筆して一冊にまとめたものである。連載を始めたきっかけは、〇九年に他界した三村敏之さん(元広島監督)の一言だった。「……その話は墓場まで持っていこうと思うとるん…
「……その話は墓場まで持っていこうと思うとるんですよ。その前に一回、西本(幸雄)さんに謝らんといかんでしょうが……」広島で十七年間にわたって内野手として活躍し、監督まで務めた三村敏之から、そう告げられたのは、五年前(二〇〇七年)の夏のことであ…
ひとつ疑問が残る。なぜ西本は抗議しなかったのか。それについて、本人は『感動の軌跡 大阪近鉄バファローズ創立50周年記念誌』の中で、こう語っている。〈フェアじゃないかと思って、一度はベンチを出て抗議をしようと思ったが、信頼していた仰木三塁コーチ…
ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグに加えジミー・フォックスやレフティ・ゴーメッツらのサインもある。昭和九(一九三四)年十一月から十二月にかけて「米国大野球団」と「全日本」が対戦した「日米大野球戦」を記念して主催の読売新聞社が作成した『日米野球戦…
二十七歳の若さで還らぬ人となったため、野球人生そのものが伝説の色に染められている沢村だが、全盛期は決して長くはなかった。先述した全米オールスターチーム相手に快投を演じたのが昭和九年十一月、つまり沢村が十七歳の時。投手成績を見る限り、この頃から…
プロ野球史上初の天覧試合、巨人対阪神が巨人の本拠地である東京・後楽園球場で行なわれたのは、今から五十三年前の一九五九年六月二十五日のことである。天覧試合といえば長嶋茂雄のレフトポール際のサヨナラホームランが今でも語り草だが、他にもONの初めて…
これだけのミスをすれば、その後のプレーに影響を及ぼすものだが、広岡は天覧試合の緊張を自らの集中力に転化していった。そして汚名返上のチャンスを虎視眈々と窺っていた。打席には六番の横山光次が入っていた。カウント一─一になった時点で、監督の田中が横…
「ボールは〝ワ〟と〝リ〟の間を通過しました。完全なファウル。ポールの左に切れましたから。これは今でも自信を持って言えます」阪急などで外野手として活躍した簑田浩二はきっぱりと答えた。このゲームではレフトを守っていた。「切れたな、と思って安心して…
山本の回想──。「今だから言うけどね、あれはファウルに見えた。富澤さんは〝ポールの上を巻いた〟というけど、僕の目にもポールの下を通過していくのがはっきり映りましたから。ただ、だからと言って、一度、下したジャッジを覆すことはできない。だから僕は…
後にプロ野球の広島で活躍する達川光男は広島商三年の春、レギュラー捕手として甲子園に出場した。今から三十九年前、一九七三年のことだ。この大会を迎えるまで春夏合わせて五回(現在は七回)の全国制覇を誇る広島商は高校球界屈指の名門だが、この春に限って…
準決勝で敗退したものの、江川は四試合で大会史上最多となる六十三振を奪った。この記録は未だに破られていない。江川のストレートはいつが一番、速かったのか。バッテリーを組んでいた小倉は「間違いなく高校二年の秋」と断言する。「二年の夏の大会が終わった…
福本豊の通算千六十五盗塁は、金田正一の通算四百勝や王貞治の通算八百六十八本塁打とともに、今後、更新される可能性の低い日本プロ野球におけるアンタッチャブル・レコードである。とりわけ、プロ野球史上初の三ケタ、当時の「世界記録」となる盗塁数をマーク…
五回、この短期決戦の行方を決定づけるシーンが巡ってきた。二死から福本が内野安打で出塁。福本の足なら走る場面である。このシーズンも福本は九十五盗塁でタイトルを獲っていた。ここで野村の創案したクイック・モーションが生きた。何度も改良を加えたことで…
手許に一枚の写真のコピーがある。なんと太平洋クラブ・ライオンズの内野手ドン・ビュフォードがロッテ・オリオンズの監督、金田正一を横倒しにし、後ろから首を締めあげているのだ。あろうことか、後にこの写真はポスターになり、ライオンズの本拠地・福岡の街…
西鉄が球団身売りに追い込まれた最大の理由は〝黒い霧事件(一九六九─七一)〟による観客動員数の減少だった。敗退行為、すなわち八百長の実行で永易将之、依頼を受けての現金受領で池永正明、実行と勧誘で与田順欣と益田昭雄と四選手が永久追放となった(池永…
日本のプロ野球界で三冠王を三度も獲得したことがあるのは、後にも先にも落合博満ただひとりである。グリップエンドをへその位置に置き、バットを立てる独特のフォームは〝神主打法〟と呼ばれ、一世を風靡した。落合といえば代名詞は〝オレ流〟だ。誰にも媚びず…
落合がそうであったように土肥も山内の打撃理論には馴染めなかった。というより違和感を覚えていた。「山内さんの打撃理論は難しかった。普通、インコースのボールは前で打つんですけど、あの人はバットを引くんです。左ヒジを後方に引く。これが山内さん独特の…
「当時はね、僕が新潟県出身のプロ野球選手第一号だった。だから先輩がいない。特に巨人は関西や中四国、九州の名門校出身者が多いから先輩の伝手を頼ることができる。僕はそれができなかったんだ。ある時、二軍の連中皆で〝コーチや監督への贈り物はやめよう〟…
二メートルを超える身長はいやが応でも目立った。子供の頃から好奇の視線にさらされ続けた馬場にとって「蔵前へ行け」とのヤジは耐え難いものだったはずだ。〈相撲界から誘われるのは、嫌だというより、私には情なかった。相撲なら裸足で出来る。だから来い、と…
陸上の走高跳において、「背面跳び」を初めて披露したのは米国のディック・フォスベリーである。彼は「フォスベリー・フロップ」(Fosbury Flop)と呼ばれた、この独特の跳躍法で一九六八年メキシコ五輪金メダルに輝いた。頭から飛び込むようにして…
王に対し、背中越しにボールを投じたと聞いて、「健さんなら、さもありなん」と苦笑を浮かべた人物は他にもいた。現中日投手コーチの権藤博である。権藤と小川は、同じ九州出身ということもあって仲が良かった。権藤と言えば、入団した六一年に三十五勝十九敗、…
七十八年の歴史を誇るプロ野球の中で、日本シリーズで三連敗から四連勝を達成したのは三例しかない。一九五八年の西鉄、八六年の西武、そして八九年の巨人だ。八九年の大逆転劇が前の二つと趣を異にするのは、ひとりの選手の舌禍がその原因をつくったことである…
エースの阿波野は加藤のインタビューをホテルに引き揚げるバスの車内で聞いた。加藤らしいな、と苦笑しつつも、そろそろ、いい加減にしとけよ、との思いもあった。「アイツはエスカレートすると、何でもズバズバ言っちゃうタイプなんです。〝あんなヤツ、たいし…
首位打者、打点王、本塁打王。いわゆる打撃三部門のタイトルを一度も獲得したことがないため、清原和博は現役時代、「無冠の帝王」と揶揄された。だが、実は彼は知られざる大記録の持ち主なのだ。通算被死球数百九十六。これは今現在も、この国のプロ野球で最多…
翌日、清原は西武の選手会長である発彦に付き添われてロッテのロッカールームへ謝罪に訪れる。清原は涙ぐんでいた。「オレのことはもういい」と平沼が言うと、清原は「申し訳ありません」と大きな背中を丸め、頭を下げた。「でもチームとしては、とても清原を許…
1960(昭和35)年愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーランスのスポーツジャーナリストとして独立。プロ野球、MLBの他、五輪、サッカーW杯などビッグスポーツイベントを多数取材。株式会社スポーツコミュニケーションズ(http:/…
2015年7月20日 発行著 者 二宮清純発行人 村上和宏発行所 株式会社文藝春秋東京都千代田区紀尾井町3─23郵便番号 102─8008電話 03─3265─1211…

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