アフガンは、どうタリバン政権に支配されていったか
なぜテロにはしるのか。なぜ「正義の使者」タリバンは世界の敵になったのか。アメリカ、ビンラディン、タリバン——“運命の三角関係”を読み解く、渾身の現地取材。

1章 タリバンとオサマ・ビンラディンとアメリカ

グローバリゼーションの十年

 人類の歴史を後から振り返ってみると、冷戦が終わった一九九〇年から二〇〇一年までは「アメリカが自国を中心に世界を一つにしようとした時代」だったと言えるかもしれない。言い方を換えると「グローバリゼーションの時代」であるが、この言葉は「アメリカが中心である」という要素を(意識して)取り去った概念である。

 アメリカが中心であるということは、この十年「アメリカ流の経営に転換できない企業は生き残れない」といったような言論が日本のメディアにあふれているのを見れば分かるだろう。今やグローバリゼーションを無視した企業経営はできなくなっている。

 ここ十年のグローバリゼーションは、「自由経済」「IT化」「民主主義」などのシステムを世界のすみずみにまで行き渡らせ、その中心にあるアメリカ経済の繁栄を導こうとするものだった。この動きは一九九三年ごろからアメリカのクリントン政権の主要な世界戦略として位置づけられた。

 紛争が続いていたイスラエル・パレスチナに対しては、中東和平合意を結ぶことで、それまでのアラブ・イスラエル間の対立をふつしよくしてイスラエル製品を中東全域で買ってもらえる体制を作り、パレスチナ人にも小さな国家を作ってやることで経済的に自活できるようにしようという「オスロ合意」が、クリントン政権の仲介で一九九三年に締結された。「みんなが経済発展を享受することで紛争を解消しよう」という戦略だった。

 中国に対しては、一九八九年の天安門事件を非難して欧米諸国が事実上の経済制裁を発動し、対中国投資は減少した状態が続いたが、一九九三年ごろからアメリカ企業の中国投資が再開され、やがて中国はアメリカ企業にとって、生産拠点や消費市場として重要な位置を占めるに至った。

 このほか、それまで近代的な経済システムが全くなかったところを世界経済の中に組み込むことで、新しい投資対象と低賃金労働力、そして消費市場を生むことができるため、アフリカや旧ソ連などの国々が「新興市場」として注目されるようになった。

中央アジア市場とアフガンルート

 こうした「新興市場」の一つに、中央アジア諸国があった。カザフスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンといった国々で、一九九〇年までは旧ソ連(以下、ソ連)の一部だったのが独立したものの、内陸国なので経済発展が難しかった。この地域の北側にはロシアがあり、ソ連時代にはロシアから経済支援を受けていたが、ソ連崩壊後はロシア自体も混乱し、中央アジアを助ける余裕がなくなった。

 中央アジアには石油や天然ガスが埋蔵されており、これを開発すれば大事業にできるかもしれなかったが、それには石油やガスを運ぶためのパイプラインがいる。ソ連が崩壊しても、ロシアはアメリカにとって信頼のおける相手ではなかったから、アメリカが中央アジアを開発するには、ロシアを通らない新ルートが必要だった。

 中央アジアに至るルートは、北側のロシアを通るものだけではなかった。南にはイランとアフガニスタンという二つの国があった。しかし、イランは冷戦終結より十年前に起きた「イスラム革命」によって、親米の国から反米の国に転じており、アメリカもイランを敵視していたから、ここを通ってペルシャ湾から中央アジアに至るルートは使えなかった。しかもイランは、それまでつながっていなかった中央アジアと自国の鉄道を連結するなど、中央アジアに触手を伸ばし始めていた。アメリカはイランの北進を阻止する必要があった。

 もう一方のアフガニスタンは、一九八九年にソ連軍が撤退し、戦争に一区切りついたものの、その後アフガニスタン側でこの戦争を戦っていた「ムジャヘディン」(「聖戦士」という意味)と呼ばれるゲリラ内部で内戦が勃発していた。

 当時のアフガニスタンは、ムジャヘディンの司令官たちが自分の支配地域を私物化し、意にそわない人々を殺したり、女性をレイプしたり、聖戦遂行のための税金という名目で、村人の金品を奪ったりしていた。彼らは道路に検問所を置いて通行車両からも「税金」を取り、積み荷を強奪することもあったから、パキスタンからアフガニスタンを通って中央アジアに向かう商業ルートは、危険すぎて使われていなかった。

 だが、アメリカにとって、アフガニスタンの内戦を終わらせることは不可能ではなかった。アフガニスタンがソ連軍の侵攻を受けていた十年間、アフガンゲリラを組織していたのはパキスタンであり、その背後にいたのがアメリカだったからである。

 ソ連が撤退した後、ムジャヘディン内部でなかたがいの内戦が始まったのも、パキスタンが意図した部分が大きい。パキスタンは、ソ連軍侵攻当初は無数にあったムジャヘディンのグループを七派に統合したが、一本化せずに七つに分けたのは、一本化すると、ソ連に勝利してアフガン人自身がアフガニスタンを統治できる時代がきたときに、それまでのパキスタンの「恩義」を忘れて言うことを聞かない政権ができるかもしれないからだった。パキスタンは最初からアフガン人を信用せず、使えるだけ使おうと考えていたのである。

 ムジャヘディンの中にはけいけんなイスラム教徒が多かったから、ソ連撤退後、アフガニスタンがイランのようなイスラム原理主義の国になることが懸念された。そのためパキスタンは、ムジャヘディン七派のうち、最有力だったラバニ派ではなく、最も親パキスタンだったヘクマティアル派を支持することで、ムジャヘディン内部の対立を煽った。一九九二年のことである。

 その後、アフガニスタン経由で中央アジアへのルートを開くことをアメリカから持ちかけられ、かつてムジャヘディンどうしを対立させたパキスタンは、今度はその対立抗争を終わらせるため、再びアフガン人の若者たちを使うことを考えついた。

 ソ連軍の侵攻後、アフガン人の多くは国境を越えてパキスタンに逃れ、国境近くのペシャワールやクエッタなどの町の周辺に難民キャンプを作って住んでいた。しかし、ソ連が撤退した後も同胞のアフガン人どうしが醜い争いを続けていたことは、アフガン難民の若者たちを苛立たせていた。

「正義の使者」として登場したタリバン

 難民キャンプで育った若者たちは、キャンプの周辺にあるイスラム教の宗教学校に通っていたが、彼らは腐敗したムジャヘディンの内戦から祖国を解放しようとする運動を始めていた。その運動体が「タリバン」で、難民キャンプで育ちイスラム神学校で学ぶ若者たちと、その先生(聖職者)らで結成されていた。

「タリバン」とはコーランの言葉、アラビア語で「学生たち」という意味である。彼らが学ぶ神学校の多くは、アフガン難民の子供たちをムジャヘディンの戦士に育て上げることを狙い、ソ連軍の侵攻後、パキスタンのジア・ウル・ハク大統領の考えに基づいて次々と建てられた。大きな神学校には全寮制のものが多い。生徒は男子だけである。

 神学校で教える聖職者たちの中には、ムジャヘディンの指導者たちが内戦を続けていることを怒っている人が多かった。イスラム教は政教分離を許さない宗教なので、聖職者といっても日本のお坊さんよりずっと政治的な人々だ。彼らは学生たちに、腐敗したムジャヘディン指導者たちを征伐し、純粋なイスラム教国家として祖国アフガニスタンを復興する必要性を説き、しだいに組織としての形を整えていった。

 一九九四年十一月、パキスタン西部のアフガン国境の町クエッタから、三十台のトラックが中央アジアのトルクメニスタンに向けて出発した。当然のごとく、アフガニスタンに入って最初の町カンダハルの手前にある地元のムジャヘディン勢力の検問所でトラックは止められ、法外な金を要求され、荷物を奪われそうになった。

 そこに、パキスタンからトラック部隊を追いかけてきた三百人のタリバン兵士が突然登場した。彼らはトラックを捕らえていた地元勢力と戦って勝ち、トラック隊を救出した。タリバンはその足で地元勢力の司令官の屋敷に乗り込み、ここでも戦闘に勝って、司令官が誘拐・監禁していた女性たちを救い出し、そのままカンダハル市街地へとがいせんした。

 こうした正義感あふれるタリバンのドラマチックな登場は、内戦にうんざりしていた多くの人々に歓喜をもって迎えられ、ムジャヘディン各派を離脱してタリバンに合流するゲリラ兵が続出した。勢いを得たタリバンは進軍を続け、二年後の一九九六年九月には首都カブールを攻め落とし、政権の座についた。

 少し前までパキスタンのかいらいだったヘクマティアルは、タリバンにあっさり敗北して殺され、政権を握っていたラバニ派はカブールを放棄して北部に撤退した。タリバンはアフガニスタンの国土の九割を統治するに至った。

 だがその裏で、このドラマはパキスタンによって周到に準備されたものだった。トラック部隊が出発する直前には、パキスタンのブット首相がトルクメニスタンまで行き、通り道となるアフガニスタンの西部と北部を支配する有力な地元軍指導者二人と会い、交通ルート確立に対する協力を要請した。またタリバンが使った武器はパキスタン軍から渡されたが、それはもともとムジャヘディンのヘクマティアル派のために準備され、国境沿いの倉庫に保管してあったものだった。

 この物語へのアメリカの関与は、中央アジアからアフガニスタン、パキスタンを通ってインド洋の港まで石油と天然ガスのパイプラインを敷設する計画について、アメリカの「ユノカル」(Unocal)という石油開発会社がタリバンの進軍当初から計画していたことに象徴されている。タリバンは、中央アジアに「グローバリゼーション」をもたらすための「つゆ払い」の役割を担わされていた。

 タリバンはアフガニスタンの大半を統治するようになると、住民に対し、厳格なイスラム教信仰に基づいた生活を送ることを強制し、あごひげを生やさない男性や、頭から足首まですっぽりシーツのような布で覆う「ブルカ」を着ない女性を逮捕し、映画や音楽、テレビまでを禁止した。

 こうした政策に対し、今であればタリバンを「人権侵害だ」として強く非難して当然のアメリカ政府は、タリバンをほとんど何も批判しなかった。タリバンがアフガニスタンを安定させ、中央アジアへの道が開けることは、まさにアメリカが求めていたことだったからである。

 アメリカがタリバンを非難するようになったのは、タリバンにかくまわれたオサマ・ビンラディンが対米テロ攻撃を強めた一九九八年以降である。

都会だけを目の敵にするタリバン

 パキスタンやアメリカがタリバンに期待したのは、交通路としてのアフガニスタンの安定であり、国土をほとんど統一したタリバンの主な財政基盤もまた、出入国するトラックからの徴税という、交通に基づいたものだった。だが、そうした外からの要請とは別に、タリバン自身が目指したのは、アフガニスタンに純粋なイスラム国家を作ることだった。

 一九九六年にカブールを占領した際、タリバンは市民に四十五日間の猶予を与え、その間に男性は全員があごひげを伸ばすよう命じた。その後は、宗教警察が市内を見回り、あごひげを生やしていない男性を見つけると逮捕したり、暴行したりした。

 タリバンの登場以来、カブールの男たちはあごひげを剃ることを禁じられており、私が会ったカブール市民の男性は皆、タリバンが来るまではひげを生やさずに毎日剃っていたが、その後は一回も剃っていないとのことだった。

 私は二〇〇〇年五月にアフガニスタンを旅行したのだが、そのとき感じたのは、いやいやながら命令に従っているカブール市民とは対照的に、農村では人々はすすんで伝統的な習慣を維持しているということだった。

 車で田舎を回った際、あちこちの村人に「どうしてお前はひげを生やさないのか」と身振りで尋ねられた。私はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の職員たちにアフガニスタンの山村などを案内してもらったのだが、アフガン人の職員たちは、カブールでは頭にイスラム教徒の白い布のキャップ(帽子)をかぶっているだけだったが、たとえばロガール県という保守的な山村地域に近づくと、キャップをターバンに巻きかえた。キャップよりターバンの方が礼儀にかなった服装だからだった。カブールよりロガール県などの山村の方が、それだけ保守的(伝統重視)だということである。

 カブールの女性たちは、外出時には「ブルカ」を着用し、親族の男性に同行してもらうことをタリバンから義務づけられた。ブルカとは、シーツを頭から足首まですっぽりとかぶったような状態の服装である。カブールではブルカの色は青が多く、目の部分だけがメッシュになっており、着用者には外がなんとか見えるが、周囲からは着用者の風貌が全く分からない。女性が見知らぬ男の目に触れないようにするための服装である。

 私が見たところ、カブールの女性たちはブルカを着ていたが、僻地の農村では女性たちはブルカを着用しておらず、スカーフで頭髪を覆っているだけで、顔を見ることができた。一般にタリバンは、カブールではイスラム的な生活スタイルを人々に厳格に要求したが、農村ではそうではなかった(山村の女性たちは、私のようなよそ者が通るときは、背を向けたり、チャドルの一部で顔を隠し、私に顔を見られないようにしていた。服装はブルカほど厳格ではないが、行動としてはイスラム教に忠実であるといえる)。

第1章 タリバンとオサマ・ビンラディンとアメリカ 2

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