「出かける日、家を出る時間、乗る電車。すべて運の悪い方を選んでしまった」
遺族と加害企業トップの2人は、組織を変えるためにどう闘ったのか。あの事故から始まった13年間の「軌道」を描く。真山仁氏推薦!
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プロローグ 11年の現場から 2016425

 かつて「工都」とうたわれ、煙突からたなびく煙と響き渡る槌音を誇ったものづくりの街らしく、中小の工場と住宅が雑然と混在する灰色の風景の中に、その現場はある。

 鉄工所、鋼材・パイプや建材の製作所、産業機械や化学工業のメーカー、板金塗装や自動車整備の町工場などが連なる狭い道をハイヤーは通り抜け、踏切の手前で左折して、公設卸売市場と工場のすき間の空き地にすべり込む。奇妙に細長い地形なのは、かつてここに列車の走る軌道があったからだ。約20年前に線路のルートが変更され、今は空き地になっている場所が、毎年この日だけ臨時駐車場に使われる。近隣のタクシー会社から集められた100台余りのハイヤーが同じルートを通って次々と到着し、喪服姿の人たちを降ろしていく。

 その車列の中の1台に、私は彼と一緒に乗っていた。こういう形でここへ来るのは5回目になる。

 車を降り、道路を挟んで向かいに建つ目的のマンションを仰ぎ見ると、去年まではなかった工事用の白い囲いが建物の南側3分の1をすっぽり覆っている。「エフュージョン尼崎」という名の9階建て分譲マンションは築14年近くになるが──それ以前はこの敷地にも小さな鉄工所や食品工場が軒を連ねていた──人が住んでいたのは最初の2年半だけで、もう長い間、無人のまま時が止まったようにそこにある。最近ようやく保存の話がまとまり、4階部分までを残す工事が数カ月前に始まったばかりだ。

 マンション足下の沿道では、黒いスーツに社名入りの腕章を巻いた記者とカメラマンの一群が待ち構えている。軽く100人は超えるだろう。駐車場から現場へ向かうには、道路を渡り、彼らの鼻先をかすめるようにしてマンションの敷地へ歩かねばならない。

 脚立の上からカメラを構える者、ノートにペンを走らす者、ICレコーダーを向けてくる者。何ごとか呼びかける声も聞こえるが、どこを向いてどんな顔をしていればよいのかわからない。私の視線は自然と、前を行く背中に定まる。

 知り合った頃と比べれば髪はすっかり白くなり、歩幅も狭まったものの、物怖じすることなくマイペースで歩く彼の背中に──。

 「撮らんといてや」「何してるねん、あかんで」

 大きな声で記者たちを牽制し、カメラを手で払いのけるようにして彼は進んでゆく。いつものことであり、特に感情的になっているわけではない。もともとはっきりと物を言い、時にぶっきらぼうな言葉で人をはねつけるような印象を与えるところが彼にはある。何よりも、今ここでは取材に応じないという意志をはっきり示しておかなければ、にじり寄って来るメディアスクラムに巻き込まれ、押し潰されそうになるのだ。

 ちょうど10年前の今日がそうだった。

 現場の傷跡も、人びとの記憶もまだ生々しかった頃。メディアの数は今以上に多く、記者たちは殺気立っていた。取材のルールも確立されておらず、彼とその家族、私を含む同行者はあっという間に報道陣に取り囲まれた。取材対象が漏らす沈痛なひと言や表情を逃すまいと互いを横目で意識し合う記者たちは、他社の記者が半歩でも踏み出すような素振りを見せると反射的に、どっと同じ方向へ殺到する。あの時も彼のすぐ後ろにいて、不意に押し寄せる人波にもまれた私は、この種の取材にさらされるストレスを初めて思い知った。

 それはたとえるなら、意思も表情もなく、獲物を探す本能だけで動くサメの群れに囲まれたような不気味な恐怖と圧迫感だった。自分自身もふだんは「あちら側」にいる人間である。自分の仕事が否応なく帯びる暴力性を突きつけられた気がした。

 あれから10年が経ち、保存工事が動き始めた現場はずいぶん様子が変わった。

 警備員に導かれて敷地に入ると、両側を防音壁に囲まれた通路がまっすぐ北へ伸びている。先頭を行く彼のすぐ右後ろを私は歩き、彼の家族や親戚たちが続く。私たちの後ろに身を隠すようにしているのは、敷地の中を撮ろうとするカメラを避けているのだ。

 彼の肩越しに見える正面80mほど先では、防音壁の上に身を乗り出したカメラマンが2人、こちらへ向けて望遠レンズを構えている。右を見上げれば、真っ青な空に高所作業車のブルーのアームが3本、数十mの高さまで伸び、テレビカメラが見下ろしてくる。

 慰霊と献花の列が続く現場の模様が、今日の関西のトップニュースになるのだろう。

 激しい衝撃でレンガ色の外壁がえぐられ、コンクリートや鉄骨がむき出しになったマンション。2階のバルコニー部分には亀裂が走っている。その壁に手をつき、あるいは壁の前にしゃがみこんで手を合わせ、涙で頰を濡らす人びと。献花台に次々と積み重なってゆくユリやカーネーションの白い花束。周囲に吊るされた無数の千羽鶴。そして、静かな祈りを破る轟音と、哀悼の長い警笛を残し、すぐそばを走り抜けてゆく銀色の電車──。

 この現場の「425日」は、毎年そんな写真と映像で報じられる。

 彼は2カ所に設けられた献花台に花を供え、淡々と焼香を済ませると、あの壁には近づこうとせず、数十m離れたところにたたずんだまま、祈る人びとを見つめている。

 「そばへ見に行かなくていいんですか」

 私が尋ねると、苦笑交じりに困惑を口にした。

 「僕はええわ。あそこで何をしたらいいのかわからん……」

 死者の鎮魂を祈る命日の現場ですら、彼は「遺族」としてふるまうことを自制している。感情に突き動かされることを拒んでいる。そんなふうにも見えた。

 2016425日午前11時過ぎ、兵庫県尼崎市3丁目のJR福知山線脱線事故現場。発生からまる11年を迎えた巨大事故の記憶を語るマンションの前に私はいた。

 彼──事故で妻と妹を失い、次女が瀕死の重傷を負わされた淺野かずの傍らに立ち、何分かごとに通り過ぎてゆく電車の轟音を聞いていた。

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プロローグ 11年の現場から 2016・4・25(2)

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