リスク過敏症が日本の停滞を引き起こす
その“危険”、本当ですか? 「化学物質」「発がん物質」「放射性物質」…今こそ身につけたい、リスクを見極める技術

1章 人はなぜ、リスクを読み間違えるのか

まずは言葉の定義から……

 さてこの本のテーマである、「リスク」とはそもそも何でしょうか?

 日常よく使う単語でありながら、我々はその意味を理解しているようで、理解していないように思います。そもそもこの単語を「リスク」という外来語のまま使っていること自体、日本人がこの概念を消化し切れていないことの表れかもしれません。「危険性」などの単語とは、ちょっと意味合いが異なります。

 辞書を見れば、リスクとは、

  「ある行動に伴って(あるいは行動しないことによって)、危険にう可能性や損をする可能性を意味する」

 などという定義が載っています。可能性、という言葉が入っているところがこの定義のミソです。

 たとえば、包丁は危険なものですが、包丁自体を「リスク」とはいいません(英語では、危険の原因を意味する「ハザード」が使われます)。料理で実際に使った時に初めて、指を切るなどの可能性、すなわちリスクが生じます。

 リスクの高低は、

  「(起きた時の影響の大きさ)×(起きる確率の高さ)」

 で表すことができます。

 飛行機が墜落した時の危険は非常に大きなものですが、墜落が起きる確率は非常に小さいので、我々は安心して空の旅に出て行きます。100円ショップで買った文房具は、すぐに壊れてしまう危険が高いかもしれませんが、大して財布が痛むわけでもありませんので、購入リスクは低いと見ることができます。

人はリスクを読み誤る生き物である

 我々は生活の中で、無意識のうちにこのリスク計算をかなりしっかりと行なっています。

「目的地には車で行った方が早いけれど、事故や渋滞の可能性を考えて電車で行く」とか、「今の経済状況を考えると、手元の資産は株式投資に回すよりも預金しておいた方がよいか」とか、誰もがかなり高いレベルでリスクを測定し、判断して行動しています。

 リスク判断は、ある意味で生きるために最も必要な能力ですから、これは当然のことであるでしょう。

 ただし、リスク判断はやはり難しいものです。

「家を出る時に傘を持っていくかどうか」から、国家間の戦争に至るまで、リスクを読み誤って失敗した例は数知れません。

 はたから見ていて、「なぜ、あれほどの人物があんなとんでもない判断を下してしまったのか」と思うようなケースを、読者のみなさんも見聞きしていることでしょう。

 誰もが当然と思う判断でも、冷静に計算してみると、実はまったく不合理であるというケースも数多く存在します。

 カナダのジャーナリストであるダン・ガードナーは、2001年の米国同時多発テロによる影響の例を挙げています(『リスクにあなたは騙される──「恐怖」を操る論理』早川書房)。

 旅客機のハイジャックと高層ビルへの激突という、衝撃的な出来事をの当たりにした米国国民は、当然のように飛行機の利用を避けるようになりました。代わりに増えたのが、自動車での移動です。

 しかし実際には、もしテロリストが毎週1機ずつ飛行機を墜落させたとしても、月1回飛行機を利用する人が事故に遭う確率は、年間135000分の1にすぎません。これは車での年間交通事故死の確率6000分の1より、はるかに低い数字です。そして実際には、恐れていたハイジャックはその後1件も起きませんでした。

 推計によれば、飛行機を避けて自動車移動を選んだことによる交通事故者は、テロ後1年の間に約1600人にのぼったということです。テロによる、見えない犠牲者というべきでしょう。

 なぜ人は、リスクを読み違えるのか?──実のところ人間という生き物は、決してあまり合理的にはできていません。これは、人間が危険を判断する系統を2つ持っているためです。

 先祖からの記憶や自分の経験をもとに瞬時に判断し、素早く反応するための「本能」の部分と、頭でじっくり考えてリスクを判定する「理性」の部分の2つです。

「本能的リスク判断」が人間を強力に支配する

「本能」は、捕食獣や他部族との戦闘に明け暮れていた原始時代、あるいは人類発生以前に進化させた能力です。一方、「理性」の方は、人類が脳を発達させ、文明を築く過程で手に入れたものと考えられます。

 リスク判断において、「本能」の方が「理性」より何倍も強力であるのは当然のことです。猛獣に襲われた時、あるいは銃で撃たれそうな時に、のんびりと「ああした方がいいかこうした方がいいか」と考えているわけにはいきませんから、本能で素早く動いて危険を避けようとする他ありません。

 ただし、高度文明に囲まれた現代社会にあっては、本能で動くよりも、理性で判断して回避すべき種類のリスクの方が多くなっています。経営者や投資ファンドの責任者が、その場のカンや思いつきで戦略を立てていたのでは、待っているのは破滅だけです。

 しかし前述のように、本能はたいへん強力なシステムです。人は思わぬ危機にさらされた時、理性で判断すべきことであるとわかってはいても、どうしても本能の方が頭をもたげてしまうのです。

 この結果、人にはリスクを見ないようにしたり、あるいはリスクを過大に見積もろうとしたりする、心の偏り(バイアス)が生じるのです。

 筆者は会社員時代、組合の役員を務めたことがあります。その時気づいたのは、「人は30年後の年金の話は大して真面目に聞こうとしないのに、来月から1000円給料が下がるという話には目の色を変えてみつく」という事実でした。

 年金の話は、理性で考えていろいろと計算し、比較してみなければわからないリスクです。

 しかし、来月から給料が1000円下がる話は、すぐにそれだけ食いが減るということですから、「本能」が動き出すべき直接的なリスクなのです。

 既得権益を死守する心がなぜああも強力なのかといえば、それが本能に根ざした行動だからなのでしょう。

リスク認知因子10ヶ条

 ハーバード大学のリスク解析センターでは、リスクを人々が強く感じるようになってしまう10の要因を発表しています。大変興味深いものですので、以下に列挙してみましょう。

  恐怖心

    恐怖を感じる事態の方に、人は強くリスクを感じます。通り魔やストーカーに遭う確率は、実際には極めて低いはずですが、人は交通事故などよりも、これらのリスクを強く感じ取ります。

  制御可能性

    何らかの形で自分がコントロールできるリスクは、そう大きく感じませんが、いっさいコントロール不能のリスクは、非常に大きく感じられます。自分の運転より他人の運転の方が怖い、というのはこのケースにあてはまるでしょう。

  自然か人工か

    生ガキを食べてあたったという話は別段珍しくもなく、誰もが周囲で見聞きしていることでしょう。筆者も二度ほど、三日三晩吐き続けるほどのひどい目に遭っています。おそらくこうした中毒患者は、毎冬数万人は発生しているはずです。これは当然のことと皆が受け止めています。

    しかし、もし人工の食品添加物で同じ程度の被害が出ていたら、どれだけ大きな騒ぎになるでしょうか? 即刻流通は禁止、販売元は厳しい処罰と世論のバッシングを受け、二度と商売ができない状態に陥ることでしょう。

    しかし生ガキは規制を受けるでもなく、普通に店頭で販売されています。人は自然界に由来するリスクには寛大ですが、人工物には極めて厳しいのです。

   「病気で死ぬのは仕方ないが、ワクチンや医薬の副作用で死ぬのは承服しがたい」という心理なども、このはんちゆうに含めることができそうです。

    この「自然と人工」の話は、後ほど詳しく取り上げます。

  選択可能性

    自分で選び取ったリスクは、他人に押しつけられたリスクよりも低く感じます。不本意なリストラで職を失うよりは、自分の意志で退職する方がよいと感じる人は多いでしょう。

  子どもの関与

    自分の子どもに関することは、リスクを過大に感じます。

    たとえば、子どもが遠出する時などは、実際には大した距離でなくとも、親にとってみれば大変に心配になります。親として当然の心理ではありますが、これは時に、リスク判断を大きく狂わせる原因にもなります。

  新しいリスク

    今まで見知ったものについては、人はリスクを低く見積もりがちですが、知らないことについては非常に怖く感じるものです。エイズ、SARS(重症急性呼吸器症候群)、BSE(牛海綿状脳症)、新型インフルエンザなど、未知の疾患が上陸するケースがこれにあたるでしょう。

    電話、ラジオ、テレビ、インターネットなど、新たなメディアが登場するたびに、その危険を指摘する声は必ず出てきました。そして、危険を叫ぶ声は、得てしてこれらを深く知っているわけではない古い世代から上がっていたのではないでしょうか。

  意識と関心

    また、大きく報道されているほどリスクを強く感じるということもあります。

    たとえば、飛行機が怖くて乗りたくないという人はたくさんいますが、航空機事故で亡くなる人の数は、全世界で年間1000人前後であるのに対し、自動車での交通事故死者は日本だけで年間5000人、さらに自殺者は年間3万人を超えています。

    航空機事故は、一度に多数の人が犠牲になるので大きく報道されて印象に残りやすいのですが、実際には飛行機の事故よりも、空港までの車の運転に気を配る方が合理的なのです。

  自分に起こるか

    当然ではありますが、自分や自分の関係者に累が及ぶ可能性が少しでも感じられると、リスク認知は急激に高まります。

    アフリカのある国の内戦で50万人が死んだという報道は、重大なことですが、あまり我々の関心を引きません。しかし同じ国で謎の感染症が発生して、50人が死んだとなれば、かなりの人がニュースに耳をそば立てるでしょう。

    内戦に巻き込まれる可能性はまずありませんが、感染症は拡大して、いずれ自分がかかる可能性がゼロではないからです。

  リスクとベネフィット(利益)のバランス

    これも当たり前ですが、リスクに対して何らかの利益があれば、人はそのリスクを実際より低めに感じます。何の利益もない、あるいははっきりしないとなれば、誰もそのリスクを取りたがりません。

  信頼

    我々をリスクにさらす相手(国や公共機関など)や、リスクについて説明する者に信用がおけなければ、リスクの感じ方は高まります。

    しかし昨今、安全情報に関する政府の発表は、まったく国民の信頼を得られていません。バラエティ番組で怪しげな言説を流すタレント教授の方が、きちんとした研究者や政府の発表よりもはるかに大きな信頼を得てしまっているのは、大いにゆうりよすべき事態であると感じます。

    BSE問題に苦しんだイギリスでは、リスクコミュニケーションを重視し、解説にけた専門家を養成しているそうです。ジョークを交えたわかりやすい解説でなかなかの人気を集めているといいますから、このあたり見習うところは多そうです。

 さて、見返していただければわかる通り、今回の福島第一原発における放射能のリスクは、見事にこの10項目をすべて満たしています。

 天災でなく人災であり、子どもの健康が心配され、大きく報道されていて、食べ物などを通じて自分の口に入るかもしれず、これを解説する政府や学者が信用されていない。

 これらの要素が、問題を一層大きく複雑にしてしまっていることは、紛れもない事実でしょう。

確証バイアス──「嫌いなものは、間違っている(はずだ)!」

 この10ヶ条にさらに筆者が付け加えるとしたら、「好き嫌い」という要素でしょうか。

 人間、好きなものについては都合のよい解釈をしたがりますし、嫌いなものについては悪い評価を下したがります。過度のタバコや酒が体に悪いのは、医学的に見てまったく明らかですが、これを弁護したがる人の何と多いことでしょうか。

 個人的な好き嫌いに沿って、最初から自分の中で結論を下してしまい、一見客観的に見えるデータを並べてそれを補強してみせる、という人はどこにもいます。こういう人たちは決して自説をげませんから、往々にして議論を極めて厄介にします。

 当然ながら、ものごとに対する好き嫌いと、それが正しいか間違っているかはまったく別の問題です。しかし人間は、得てして「嫌いなもの=間違っている」と結びつけてしまいがちであり、公正な判断を下すことは極めて難しいものです。

  「人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ようとしないものだ」

 とは、かのユリウス・カエサルの言葉ですが、この真理は2000年を経た現在でも変わっていないようです。

 人間は、いったん自分の中にひとつの「見解」ができてしまうと、それに対する反証が出てきても「これは例外である」などといって無視したがります。逆に、有利な証拠が出てくるとこれを重視し、より自分の正しさを強く確信する方向に向かうのです。

 これは、心理学分野で「確証バイアス」と呼ばれます。好き嫌いという感情は、確証バイアスを強めてしまう強力なファクターです。

 かつて『ゲーム脳の恐怖』(生活人新書)という本がベストセラーになったことがあります。著者の森昭雄氏はこの本で、ゲームや携帯電話のメールを長時間し続けると、脳波が認知症患者のように変化してしまう、としました。そして、この「ゲーム脳」は少年犯罪の増加などにも関与しているのではないか、という衝撃的な主張がなされたのです。

 しかし森氏の用いた測定機器や実験方法は、とうてい科学的な検証に耐えるものではなく、論文として投稿しても、学界からは相手にもされないようなレベルでした。

 にもかかわらず、この本は教育学者などに圧倒的に受け入れられ、多くの新聞の書評欄や教育現場でも絶賛を受けています。

 これは、情報の受け手の側にバイアスがかかっていたからと考えられます。

 コンピュータゲームに夢中になる若者たちを苦々しく思っていた層が、自らの意見にぴったり沿った「ゲーム脳」の理論を、歓迎して積極的に受け入れた結果でしょう。

 この本には、読めばすぐ気づく程度の矛盾点がいくつもありましたが、学者や新聞の書評委員といった現代を代表する知性たちは、自分の気に入った主張を受け入れ、おかしな点は視野の外に追いやってしまったのです。

 ちなみにウィキペディアの「ゲーム脳」の項目を見ると、「ゲーム脳」に対するあらゆる角度からの反証や反対意見が書き並べられ、何もそこまでと思うほど、かんきまでに叩きのめされています。

 ご存知の通り、ウィキペディアはウェブ上から誰でも加筆編集可能な百科事典です。ネットやコンピュータ文化になじんだウィキペディアの書き手たちにとっては、当然、「ゲーム脳」は気に入らない理論でしょう。

 ウィキペディアでの猛攻撃は、先の教育学者たちとは逆向きの確証バイアスが働いてしまった結果なのではないか、とも見えます。

第1章 人はなぜ、リスクを読み間違えるのか(2)

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