「電通」が世界のサッカー界を牛耳る理由
裏金、権力闘争、放映権……。FIFAは生まれ変わるのか? 巨大化するサッカーとカネの関係にメスを入れる。
← 左にスクロール
シェア ツイート

第一章 ペレを日本に呼んだ男

一 後楽園競輪場

 かつて──。

 一九六〇年代から七〇年代にサッカーにたずさわっていたのは、この競技のことが好きでたまらない人間ばかりだったろう。特にマイナースポーツの一つに過ぎなかった日本において、熱心な人間は限られており、そのほとんどは顔見知りで、何らかの形で繋がっていた。

 なかはその輪の一人だった。

 中野は一九四〇年に東京で生まれ、中学校からサッカーを始めている。初めて日本代表の試合を観たのは、五六年六月、メルボルンオリンピックの予選だった。後楽園競輪場で三日に行われた第一試合、日本代表は韓国代表相手に二‐〇(前半〇‐〇)で勝利。ところが一〇日の第二試合で〇‐二(前半〇‐〇)で敗戦。一勝一敗となり、〝代表資格〟決定のため三〇分間の延長戦が行われた。それでも〇‐〇。そこで勝負は〝抽選〟にゆだねられ、日本がオリンピック出場権を手にした。

 韓国だけに勝利すれば本大会出場、そして最後は抽選で決めるという、今から想像できないほどゆるやかな時代だったのだ。

 中野は武蔵大学卒業後、北海道硫黄株式会社という鉱業の企業に入ったが、サッカーから離れられなかった。

「初任給が二万七五〇〇円で、忘れもしないアディダスのワールドカップ(という名前のサッカーシューズ)を一万五〇〇〇円で買ったんです。初任給というのは親にお礼するもんだと父親にぶん殴られましたよ」

 中野は五〇年以上前のことを思い出し、大笑いした。

 中野がサッカーシューズを買った飯田橋のスポーツ用品店──「ヤンガースポーツ」は、日本リーグのチームへユニフォームを卸していた。

 あるとき、店主から日本代表が土のグラウンドを探していると相談を受けた。そこで中野は母校である武蔵大学を紹介することにした。

「それで平木(隆三)さんと仲良くなった。今じゃ信じられないでしょうけど、当時の日本リーグというのは選手が運営していたんですよ。それじゃ(選手が)可哀想だということで、運営グループを作った。それで駒沢と国立(競技場)の運営を手伝うようになった」

 メルボルン五輪に出場した平木は古河電工の監督を経て、六八年のメキシコ五輪では代表チームのコーチを務めていた。平木たちから請われて中野は、六九年四月に日本サッカー協会の職員として働くようになった。

 この年の七月、FIFA主催の第一回コーチングスクールが開催されている。このスクールを仕切ったのが、日本サッカーの父と言われるドイツ人、デットマール・クラマーである。

 このスクールはアジア各国からコーチを集めて講義と実技を教え、試験に合格した人間にライセンスを与えるというものだった。協会に入ったばかりの中野は、この運営に忙殺されることになった。

 コーチングスクールの終了式には、当時FIFA会長だったスタンリー・ラウスも出席した。このコーチングスクールは、ラウスの肝いりで始めたものだった。

「なぜかラウスとは仲良くなってね。俺とお前はFIFAだって言われた。つまりフェデレーション・インターナショナル・ファットマン・アソシエーション。ぼくは若かったのにお腹が出ていてね」

 中野は腹部を指さした。

 元審判のスタンリー・ラウスは、イングランドのサッカー協会の事務局長を二七年務め、六一年にFIFA会長となっていた。四八年のロンドン五輪での功績を認められて、爵位を受けている。

 その後、そのラウスとFIFA会長選挙を争うことになったジョアン・アベランジェが選挙活動で日本にやってきたことを、中野はかすかに覚えている。

「(日本サッカー協会の入っていた渋谷区神南の)岸記念体育館の一階にスポーツマンクラブってあるでしょ? アベランジェがあそこに来て話した。自分をサポートして欲しいと言っていたような気がする」

 記憶がおぼろなのは、この元水球選手のブラジル人が人望あるラウスにまさか勝つとは思ってもいなかったからだ。

二 アフリカを味方に

 ジョアン・アベランジェは、一九一六年五月八日にブラジルのリオ・デ・ジャネイロで生まれている。アベランジェの自叙伝『デテルミナソン・エ・コラージン(決定と勇気)』によると、父親ジョゼフはベルギーのリエージュ大学を卒業後、ペルーの首都リマにある大学で教鞭をとっていた。リマに七年間滞在し、ベルギーに帰国。しかし、欧州での生活が水に合わず、リオにある兵器商人の店で働くことになったという。そこでアベランジェが生まれた。

 アベランジェは水泳の選手として三六年ベルリン五輪、水球の選手として五二年ヘルシンキ五輪に出場している。

 ある時期までブラジルでのサッカーは、中流階級以上が敬遠する娯楽だった。欧州移民であり、家庭内ではブラジルの公用語であるポルトガル語ではなくフランス語を話していたアベランジェにとって、サッカーではなく、水泳を選んだのは当然だったろう。

 五八年、アベランジェは四一歳でブラジルスポーツ連盟会長に就任、そして七四年のFIFA会長選挙に立候補した。

 ぼくは九五年と二〇〇三年の二度、アベランジェを取材している。そのとき彼はこんな風に話した。

「立候補表明の三年間で世界八六カ国を訪れた。アジア、アフリカ、中東、南米、中米、欧州。当時のFIFA加盟国は一四〇カ国。その多くを私は回ったんだ。アジアでは中国が加盟しておらず、力を持っていたのはフィリピンだった。フィリピン、インド、パキスタン、そして日本を訪れたものだよ」

 そして、微笑みながらこう付けくわえたのだ。

「サー・スタンリー・ラウスが机の真ん中に坐っていたとすれば、私はその辺りにいた」

 彼は手を伸ばして机の端を指した。

「今にも机から落ちそうな男だった」

 七四年ワールドカップ開幕直前、ドイツのフランクフルトにあるコンベンションセンターでFIFA総会が開催された。

 会長選挙では、FIFAに加盟する国と地域がそれぞれ一票を保持しており、一回目の投票で当選するには三分の二、二回目の投票では過半数が必要となる。

 一回目の投票では、アベランジェ六二票、ラウス五六票。そして二回目の投票でアベランジェはさらに票を伸ばし、六八票。五〇票のラウスを軽々と上回り、新しい会長に選ばれた。

〝机から落ちそうな男〟が勝ったのだ。

 当落を決めたのはアフリカの票だった。イタリアの「コリエレ・デロ・スポルト」紙はこう伝えている。

〈ある関係者は選挙終了後に「これからFIFAを操るにはアフリカ連盟を押さえればいいのだ」と吐き捨てるように言った。タンザニアでもドイツやイタリアと同じように一票を持っている。アフリカを味方につけるためにアベランジェは一億ドル以上を遣ったとみられている〉

 アフリカには、FIFA総会に出席するための運賃にも事欠くサッカー協会が少なくなかった。彼らはFIFAの中では一票を持ちながら、目に見えない存在だった。アベランジェは様々な金銭的な支援を約束、彼らを顕在化させたのだ。

 FIFA会長職は、ワールドカップの名前にもなった三代目会長フランス人のジュール・リメなど、欧州の人間が独占していた。この頃すでにブラジルはワールドカップで三度の優勝を成し遂げており、サッカー王国としての地位を確保していたが、それはピッチの中に過ぎなかった。

 もっともこれはサッカーだけではない。欧米と第三諸国の差は大きく、ブラジルの人間がこうした国際的組織の長についた前例はなかったのだ。

シェア ツイート
第一章 ペレを日本に呼んだ男(2)

この作品では本文テキストのコピー機能を無効化しています

01