9歳の健は初めて飛行機に乗り、山に消えた。
520人の命を奪った、史上最大の航空機事故から四半世紀。遺族たちは何を思い、どう生きてきたのか。頭にやきついて離れない凄惨な現場、日航との補償交渉、理不尽な事故調査、事故が風化してしまう恐怖……。遺族会である「8・12連絡会」の事務局長が、これまでの歩みを克明に振り返った感涙の記録。

1章 健ちゃんのこと

小さな手のぬくもり

 1985812日。猛暑。

 健、9歳、小学校3年生。812日、初めて飛行機に乗り、初めての一人旅に出た。

 日本航空(以下日航)123便には、524人が乗っていた。その座席のひとつで窓際の12Kに、健は座っていた。

 その年の夏休みにプールで25メートル泳げた。そのご褒美として、ずっと前から乗りたかった飛行機で、私の弟家族が住んでいる大阪までの冒険の旅をすることになったのだ。

 私の家は、羽田空港から30分と近い。また、「ちびっこVIP」という、飛行機で子供が一人旅をする時に使えるサービスもあった。私たちは、ジャンボ飛行機は「一番安全な乗り物」だと信じていた。

 健は、リュックにお菓子やジュースをつめ、大阪でいとこたちと阪神電車に乗ったり、甲子園に高校野球を見に行くことを考えてわくわくしていた。

 航空券は、おじいちゃんが、窓際の富士山のみえる席を予約してくれた。

 その日、健は空港で私に見送られ、「ちびっこVIP」のワッペンを胸につけて、大きなジャンボ機を見て歓声をあげていた。

 私と手を離した時、搭乗口で日航の係の女性と手をつなぐ時、初めての一人旅のためか、少し不安げな表情をした。

 あの時つないだ健の手のぬくもりが、今もここにある。

 そして、機内に入る時、日航の係の女性社員に何か話しかけている健の姿が目に焼きついている。

 午後612分に離陸した123便の機影を見えなくなるまで見送り、家に戻ったその途端、「JAL123便の機影が消えた」というテロップがNHKのテレビニュースで流れた。慌てて片手に握った搭乗案内の「123便ちびっこVIP」の文字を見て心が凍る。「まちがいない、123便」。すぐに空港に夫と引き返した。

 しかし、空港では情報が得られず、やむなくすぐにまた、自宅へ戻る。その途中、ラジオは「山中で煙をみた」と告げていた。自宅に戻ってからは、ニュースを聞くのが恐ろしくて、布団をかぶり、耳を塞ぎ震えた。門の外に出て健の姿を探し、「健ちゃーん、どこにいるのー」と言いながら夜道を走りまわった。

 真夜中、日航から電話があった。現場に向かうバスが出るという。テレビにはもう、カタカナで「ミヤジマケン」の名がある。

 乗客の家族たち関係者320人を乗せたバス計8台が、墜落現場へ向けて羽田と大阪を出発したのは、13日午前1時をすぎてからだった。事故現場方向といわれていた長野県の小海町に向かう。

 バスの中では、私も夫も無言。「健はきっと生きているよね」と確認したまま言葉が出ない。バスがどこを走っているのかなど、何も情報が入ってこなかった。早朝に小海町総合センターに着き、またバスに乗った。

 昼前、軽井沢で止まると、「生存者がいた」というニュースがラジオから流れた。健を早く助けてあげなければと思う。「小さな体で山でうずくまっているかもしれない」と考えて、胸が張り裂けそうになっていった。

 午後1時過ぎ、群馬県藤岡市に着く。小野中学校の体育館で待機することになる。食事がほとんど喉を通らず、言葉も出ず、ただ下を向いていた。「健に会いたい」、心の中はそれだけだった。

 私たちについた日航の世話役は、整備の方の現場から来た若い男性。誠実な、言葉数の少ない人で、その人も正座して震えていた。

健との対面

 14日。宿泊先のビジネスホテルから、夫の高校時代からの同級生で、親友である樋口一雄さんが泊まっていた民宿に電話を入れた。

 樋口さんは、フジテレビに勤めるカメラマンだ。現場に出ているということでなかなか連絡がつかず、やっと夜中に電話がつながる。「じつは、健が墜落した飛行機に……」と夫が言う。彼は、「エッ、昨日現場に行ってきた」。夫は、「様子が分からないから教えて欲しい、健を迎えに行きたい、山に登りたい」とふり絞るように言う。

「迎えに行ってやれ、お前なら登れる、健ちゃんが待っている」と樋口さん。後から知ったことだが、彼は13日に現場に行き、生存者がヘリコプターで救助されるところをクルーと共に撮影していた。とにかく、樋口さんから現場の様子を聞き、「山で一人ぼっちにさせておけない。何としてでも、健を迎えに行く」と決心する。

 日航の世話役に「明朝、山に登りたい、あなたの迷惑にならないようにする、自己責任で登るから」と言い、家から持ってきた健の着替えを抱きしめた。

 事故から3日目の15日朝。世話役は、タオルと帽子と軍手を黙って用意してくれた。

 急な斜面や道なき道を這うようにして、現場に向かう。機動隊や自衛隊の足跡を頼りに、落石を避け、靴底に穴が開くなか、泥まみれになりやっと山頂にたどり着く。登り始めて4時間がたっていた。

 私たち2人の目にとびこんできたものは、地獄絵だった。焼けた土に、毛布に包まれたいくつもの遺体が並び、もの凄い臭いがし、機体の残骸からはまだ煙があがっている。狭い尾根のヘリポートには、機動隊、自衛隊など多くの人が必死で遺体の間を行き来し、その手には、部分遺体があった。

 機体の前でひざまずくと、土は焼けるように熱く、膝が焼けるようで、じっとしていられない。

 呆然としながらも、私は、機動隊の人に「12Kはどこですか?」と、健の座席番号を聞いた。その機動隊の責任者は、私の手を握りしめ、歪んだ頰にある涙を拭いた。

 大破した機体に、家から持ってきたジュースをかけると「ジュー」と凄い音がした。

 その煙と音で、ここで大事故が起こったのだと初めて我に返った。それでもまだ、山のどこかの木の枝に健の姿があるような気がして、「健ちゃん、健ちゃん」と探しながら、「健ちゃんごめんね、ごめんね」と山に向かってつぶやいた。

 多くの機動隊、自衛隊の人々が必死で遺体のあいだで働いている姿に頭を下げながら、遠くの山並みを、ぼーっと見上げると、身体がこわばっていった。

 山から下りた翌々日の17日、健の遺体がみつかった。

 その前の晩の16日、私は健の夢をみた。健が、花畑の中を歩いてきて、「ママー、ここだよ」と笑っていた。

 17日、待機していた体育館でやっと名前が呼ばれ、検視だけをしている別の体育館に向かう。

 健の遺体は、その日に着ていたエメラルドグリーンのシャツにつけた、2㎝角のちびっこワッペン周辺の一部の胴体と右手だけ。

 その小さな手には、いぼがあり、私は、つめの形を見て、すぐに「健です」と確認した。その手は、ほんのりと温かかった。夫は、健の右手を握り「いつまでもいっしょだよ、もう一人ではないよ」と言った。

 確認した時には、衝撃のため、もう涙はでない。体育館に待機していた5日間は、泣き叫ぶようなことは一度もなかった。言葉を発することも出来ない状態にあった。

「やっと会えました、一緒につれて帰れます。ありがとうございました」と心の中で、この作業にあたってくださったすべての方々に叫ぶような気持ちでいた。

 何度も頭を下げ、体育館を後にした。

その時の藤岡市

 ここで、事故が起きてからの現場の経過を振り返ってみる。

 123便が消息を絶ってから一夜明けた13日早朝には、墜落現場が群馬県上野村近くの山中と確認された。群馬県警、自衛隊、消防団その他の方々の必死の作業でヘリポートが御巣鷹山、上野村、藤岡市内の3ヶ所にできた。空挺団、レスキュー部隊、レンジャー部隊がヘリから現場に降下、遺体の収容が始まっている。

 けわしい山中での自衛隊、機動隊の必死の捜索活動は、想像を絶した。上野村は、消防団をはじめ村中が総出で対応していた。道なき道を、猟友会、消防団が墜落地点まで登った。消防団は、自衛隊や機動隊を現場に先導する重要な役割を務めた。

「生存者はとても、いないだろう」と誰もが考えたという。スゲノ沢はまるで機体の残がいがぶちまけられたようだった。遺体は、土ぼこりをかぶっていた。

 そこで、手が動いた。自衛隊、警察、消防団、猟友会が救出活動をした。立ち木を切って、担架を作り、生存者を乗せ、空挺団員がヘリで吊りあげた。

 犠牲者は520名。重症を負いながら救助された4名を除く乗客乗員全員が死亡するという、単独機としては航空史上最悪の事故となった。

 その時の藤岡市は、不眠不休。市民の誰一人として経験のない事故であるにもかかわらず、公私にわたる機関、医療関係者、ボランティアの方々が、団結して事故対策にあたった。

 お盆の最中でもあり、プールや楽しいはずの行事が予定されていたが、すべて中止された。連日、大勢の方がすべての時間を救難救助にあて、一刻も早く遺体を家族のもとに戻せるようにと迅速な対応をしていた。

 事故を知り駆けつけた家族や親戚、会社関係者、友人らは、13日から25日間、藤岡市内の小、中学校などの公共施設5ヶ所に滞在した。その数は、延べ17千人になった。

 待機所である体育館の演壇にはテレビが1台おかれ、夏の甲子園の高校野球が絶えず流されていたが、見ている人はほとんどいなかった。その画面に時折あらわれる日航機事故のニュースを、じっと待っていた。

 家族たちは、待機所で、ひたすら名前が呼ばれるのを待った。一方で、そこで配られた新聞に肉親の名前があることを信じまいとする必死の気持ちがあった。

 しかし、誰かに問いただす気力も残っていない。胃は、水も一粒の米もうけつけない状況にある。空白の頭で考えるのは、こつ然と姿を消した愛する肉親に、今すぐに会いたいということだけだった。身も心もふるえ、そのふるえは日増しに大きくなり、苦しみは増していった。

 暑い体育館の中で、家族は、遺体の確認作業をした。柩の中の遺体はビニールに入れられ、この世のものとは思えず、恐ろしさでふるえた。私は、体育館に並べられた棺の中を覗き込んだときのあの恐ろしいほどの衝撃を、いまだに消せない。この絶望的な作業のなかでこのまま衰弱して死んでしまいたい。今、自分は何をしているのだろうと真っ白になった頭で考えた。

 しかし、看護師さんが、自分のことのように柩をあけてビニール袋から遺体を手にとってみせてくれる姿に心を打たれ、「自分達がみつけなければ、誰も健をつれて帰れない」と我に返り、それからは柩に書かれた遺体の特徴を食らいつくように見ながら探した。

 遺体確認をする為に家族が並んでいると、女性が、「主人を絶対連れて帰るぞ、がんばるぞ」と大きな声で言うのを聞いた。そうでも言わなければとても耐えられない気持ちだと、周囲はみなうなずいた。

 検視を行っている体育館は、40度という高温、線香の煙と異臭と汗の中で働く人々のシャツはぐっしょりぬれていた。

 体育館内は「遺体検視所」「安置所」「レントゲン現像室」などに仕切られていた。数百人の警察、医師、看護師さん、自衛隊、消防団員、ボランティアたちが、せまいところで連日、早朝から休むまもなく動きまわっている。異臭に覆われた体育館の中で、全ての人々が、一瞬たりとも休む間もなく動いた。多くの遺体の中で、食事をする状態だ。一刻もはやく遺体の確認をして、家族のもとに返すという思いが、体育館中にあった。

 体育館の隅でうずくまる家族たちに、冷たいお茶やおしぼりをそっとさし出し、また、体の不調を訴える家族にやさしい気づかいの言葉をかける人たちがいた。お線香の火を絶やさないように見ている若い女子学生の姿もあった。急きょ編成された藤岡市とその周辺の42の団体、延べ5千人のボランティアたちだ。

 絶望のどん底に突き落とされ、わらにもすがる思いの家族たちの心に、少しずつ落ち着きを与えていったのが、このボランティアの存在だった。

 家族が警察に話した情報から氏名が判明した遺体については、14日から家族に呼び出しがかかり、遺体確認が行われ、確認された遺体は安置所へ送られた。

 未確認遺体の公開は、15日夜から始まった。家族自身が肉親と思われる遺体を見つける必要がある。指紋票、歯科医から取り寄せた歯のカルテが資料となった。

 家族たちが10円玉をかき集めてやっとつながった公衆電話から自宅に連絡し、歯のカルテを歯科医師に頼むと最寄りの警察が取りにいってくれた。

 体育館で見た惨状はあまりにも酷かった。多少とも人間的形状が残っている遺体は一つの棺に入れられていたが、部分遺体(手首や足首など)は、一つずつビニール袋に入れられて、いくつか一緒に棺に収められていた。多少とも人間的形状の残っている遺体を「完全遺体」と呼んだ。

 混乱の中、少しずつ確認が進んだが、16日頃になると遺体の見つからない家族たちには、多少のあせりが見られるようになっていた。確認された人には、座席表に色で印が付けられていく。

 乗客の何人かの方々の遺書が見つかり、新聞紙上に発表される。家族への伝言を残した人々がいた。黒いボールペンの乱れた文字が、黒革の手帳に刻まれていた。その遺書には、「生きたい」という叫びと無念さ、家族への愛があった。私は、健の思いをそこに重ねた。

 座席位置によっては火災が激しく、焼けた遺体がかなりあった。直接死因のほとんどは全身断裂で即死だった。死因について書かれたその文字に最後の瞬間がだぶり、暗闇に突き落とされた気がした。生存者の4名の方々の座席は、いずれも最後部付近。スゲノ沢に墜落したときの衝撃に伴う飛散物からの被害が少なかったのだろう。

 520人のいわゆる完全遺体、不完全遺体を確認することは、困難きわまる作業となる。座席番号が近いと、発見される場所も近くである確率が高かった。前部座席の乗客の方々の遺体の確認には時間を要した。

 やっと確認できた遺体を抱きしめるようにして、家族たちのほとんどが、体育館で捜索、確認にあたってくださった人々に対して、「ありがとうございます」、「連れて帰れてよかった」という言葉を残した。そして、まだ確認できない遺族のことを思いやりながら体育館をあとにした。

 藤岡市では毎日、確認された遺体の火葬があり、柩の数は675となり、柩が不足する事態となった。

「航空機事故の恐ろしさを嫌というほど思い知らされた4ヶ月だった。絶対にあってはならない残酷な遺体との対面でした」

 後にまとめられた群馬県歯科医師会の本には、こう書かれていた。

 遺体が確認された817日、健ともう一つの遺体を乗せたヘリコプターは、藤岡から羽田空港に向かった。

 私たち夫婦と同乗した若い女性は、ご主人を亡くされ、健と同じ年齢だという男の子を連れてうつむきながら、「何もわかりません、これからどうしたらよいのか。不安です。何か情報があったらぜひ教えてください」と、私に頭を下げた。

 羽田での別れ際には、「これから遺体とともに大阪に行き荼毘にふしますが、この暑さでは遺体の傷みが心配です」とつぶやいた。幼い子2人は、父の死をはっきりと理解していない様子で手を振っていた。

 羽田から30分のわが家に向かって、車はライトを照らして進む。

 健は、1週間前に元気に出かけた。50分の飛行機の一人旅を楽しみ、いとこ達と甲子園で高校野球を見たり、あこがれの阪神電車に乗り、夏休みの思い出とともに帰ってくるはずだったこの日、健は、この柩の中に……。

 車は、ついこの間、ヘチマの観察に行ったばかりの夏休み中の小学校の校舎や、いつも遊んでいる公園や、友達の直ちゃんや幸ちゃん、けんじくんの家の前を通り抜けた。

 その日から、通夜、葬儀と続くあいだ、家族は言葉を失ったまま、信じられないような日が過ぎていった。葬儀には、大好きだったPL学園の桑田真澄選手や清原和博選手のサインや、千羽鶴が届いた。全国高校野球大会で、PL学園は優勝した。

第1章 健ちゃんのこと(2)

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