日本の隠然たる権力者の実像
葛󠄀西敬之。旧国鉄改革を手がけた「国鉄民営化三人組」の異名をとった一人で、民営化後のJR東海2代目代表取締役社長から会長、名誉会長を歴任。「葛󠄀西ー官邸ライン」と呼ばれるほどの政界との太いパイプを持つばかりか、官界、財界、メディアにも大きな影響力を持つ人物だ。権力あるところに表立たず君臨する、その知られざる実像に迫る。

1回 NHK「官邸支配」の黒幕

日本の政官財界に大きな影響を与え続けている人物、葛󠄀西敬之かさいよしゆき。その実像に迫る人物研究の第1回は、その力がメディアにも及んでいる実態をレポートする。舞台はNHKの役員人事。ここにも「葛󠄀西―官邸ライン」の影がちらついている。

NHKの人事は「一本の電話で覆る」

「あのときは随分ずいぶん経営委員会が揉めましてね。安西 あんざいさんのスキャンダルがスポーツ紙にすっぱ抜かれ、会長の人選が迷走したのです。女性の経営委員たちから安西さんの会長就任への反対意見が相次いで、経営委員長が慶大まで謝りに行き、安西さんが会長就任を辞退する羽目になりました。経営委員会では、早急に次の会長候補を推薦しなければならない。代わる会長は誰が適任か、となったところ、古手の経営委員だった北原(健児・元読売新聞政治部記者)さんがおもむろに携帯電話を取り出し、電話をかけ始めたのです。電話の相手が葛󠄀西さんでした」

 日本放送協会(NHK)の経営委員だったある法人の役員が、2011(平成23)年当時の経営委員会の出来事を思い出し、そう語った。話に出てくる安西さんとは、元慶應義塾塾長の安西祐一郎(74)で、葛󠄀西さんが葛󠄀西敬之(80)である。葛󠄀西は旧国鉄改革を手掛け、民営化後の東海旅客鉄道(JR東海)の2代目代表取締役社長に就く。国鉄民営化三人組と異名をとった葛󠄀西は、JR東海の代表権を持ったまま会長、名誉会長を歴任してきた。さすがに3年前に代表権を返上したが、社内はもとより日本の政財官界における大立て者の一人として君臨している。

葛󠄀西敬之 Photo/Getty Images

 その葛󠄀西の大きな関心事がNHKである。元来、国策としての公共放送のあり方に独自の見解を展開してきた葛󠄀西が、本格的にNHKに関与したのがこのときだ。201012月、NHKの次期会長候補として浮上した安西の言動がスポーツ紙に漏れ、次期会長レースが大荒れになった。

「東京の会長社宅を用意できるか」「公用車や接待費はどうなっているのか」

 安西がそうNHKの経営委員会事務局などに要求していた一件が、新聞紙上を賑わせた。挙げ句、安西自身が会長就任を辞退する。そうして急遽きゅうきょ、JR東海の社長を務めてきた松本正之に白羽の矢が立った。

 会長人事を巡る迷走は、38日付の経営委員会議事録にも、〈新会長任命に至るまでの過程についての検証と総括〉と題されて次のように総括されている。

〈経営委員会は、平成23115日、指名委員会の審議を経て松本正之新会長任命を議決しました。しかし、ここに至るまでの過程に対する多くの厳しいご批判を真摯に受け止め、監査委員会からの「新会長任命に至るまでの過程についての調査報告書」(以下、監査委員会調査という)も踏まえて、経営委員会として検証を行うとともに今後の改善に向け総括を行いました。

 何よりもまず、安西祐一郎慶応義塾大学前塾長に対しましては、いったん会長就任を要請しながら今度は辞退を促すかのような受け止めをされても致しかたない事態となり、結果としてご名誉を大きく傷つけ、大変なご迷惑をおかけしました。心から深くお詫び申し上げます。また、国民、視聴者の皆様に対しましてもご迷惑、ご心配をおかけし、深くお詫び申し上げます〉

 松本のNHK会長就任は、かねてよりの葛󠄀西の希望でもあった。経営委員会が混乱を極めるなか、葛󠄀西裁定により決着がついたのである。

安倍政権の悲願だった「NHK支配」

 NHKの会長人事は、公共放送の観点から当のNHKは関与しない建て前になっている。放送法に基づき、財界やマスメディア、大学やボランティア団体など外部の有識者で構成される12人の経営委員会が会長の任命権を握っている。経営委員長をはじめ、経営委員それぞれが次期会長の候補者を推薦し、指名委員会という小委員会で候補者に打診する順番を決めるルールになっている。

 もっとも外部の有識者がNHKの番組や人事の事情に精通しているわけもない。したがって現実には、総務省の役人がNHKの意向を踏まえ電話で候補者を経営委員に伝えて推薦人になってもらう。会長候補の人選は書類ではなく、もっぱら電話を使う。それは痕跡を残さないためだ。

 その会長選びについて、昨今は別の力が働くようになった。NHKや放送局を所管する総務省だけでなく、ときの政権が口を出す。とりわけ、安倍政権では第一次政権時代からNHK支配を悲願とし、会長をはじめ幹部人事に関与してきた。そして実はさらにその政権の後ろに控え、影響力をおよぼしてきたのが、JR東海の葛󠄀西である。

 2011年の会長人事は民主党政権下の出来事だが、葛󠄀西はこの頃からNHKのあり方について口を挟んできた。葛󠄀西はJR東海社長だった松本を後押しし、当初から下馬評にあがっていたが、いったんは安西前慶應義塾塾長に絞られた。その会長選びのさなか、安西の醜聞が飛び出し、女性経営委員のあいだから「公共放送のトップとしてどうか」と疑問の声があがる。実は安西の〝スキャンダル〟をリークしたのがNHKの大物政治部記者だとも噂された。そうして改めて指名委員会が開かれ、葛󠄀西への電話一本で決着し、松本会長誕生となった次第である。あるNHKの理事経験者が振り返った。

「会長人事の混乱は小丸(成洋・福山通運社長)経営委員長の引責辞任にまで発展しました。松本さんに対し、経営委員会では葛󠄀西さんの傀儡だという警戒があり、安西さんに落ち着いていたのですが、スキャンダルでそれがひっくり返った。北原さんは決して変な方ではありませんが、読売時代に名古屋支局にいた関係から葛󠄀西さんとも親しかった。それで推薦を買って出たのでしょう。松本会長実現に向け、経営委員の根回しもしていました」

 むろん電話の一件は正式な議事録には残っていない。松本は旧国鉄時代からの葛󠄀西の部下として国鉄民営化にあたり労務対策で手腕を振るった。松本の会長人事は、葛󠄀西がNHKの労働組合である日本放送労働組合(日放労)対策のため、松本を送り込んだと評判が立った。

一度外されて戻ってきた板野専務理事

 NHKをはじめとするメディアへの官邸介入が叫ばれて久しい。なにしろ現首相の菅義偉が自らの著書「政治家の覚悟」(文春新書)でNHKの人事を操るために経営委員会に働きかけてきたかのように自慢げに語っている。そして葛󠄀西・官邸ラインによる公共放送への介入は今なお続いている。もとはといえば現在の前田晃伸(76)のNHK会長就任もまた、葛󠄀西・官邸人事だとされた。

 前田はみずほフィナンシャルグループの社長や会長、全国銀行協会会長などを歴任し、葛󠄀西の主宰する安倍晋三の財界応援団「四季の会」に加わってきた。NHK局内では首相だった安倍の〝指名〟により、会長に就いたとされる。2019129日、経営委員会がNHK第23代会長に任命し、翌2020125日から会長に座った。当初の前田は官邸を支える葛󠄀西の傀儡と目されたが、それも無理はない。

 だが、あにはからんや、前田は会長に就いてしばらくすると、独自のNHK改革を始めた。その一環が自ら旗を振ってきたNHK役員(理事)の若返り人事である。

 だが、そこには〝障害〟があった。NHKのなかで、葛󠄀西や官邸に最も近い幹部と評されてきた専務理事の板野いたの裕爾ゆうじ67)の存在だ。NHKのOBが嘆く。

「このあいだの425日付の役員人事には驚きました。板野専務理事の退任を決めた前田会長の人事案がいつの間にか官邸によってひっくり返り、続投となったのです。板野専務理事の退任はすでに去年の副会長人事で決着したと思っていました。それだけに青天の霹靂でした」

 詳しくは稿を改めるが、経済部出身の板野は葛󠄀西とは記者時代からの付き合いがあり、安倍の応援団長である葛󠄀西を通じて官邸との距離を縮めていったようだ。NHKの元政治記者が説明してくれた。

「板野は経済部出身だけに政治の人脈があったわけではありません。葛󠄀西さんを通じて杉田(和博・官房副長官)を知り、菅さんにつながったのでしょう。菅さんとはこの56年の付き合いだと思いますよ」

板野裕爾 Photo/アフロ

 板野はかつて官邸寄りの会長として非難された籾井勝人会長時代に専務理事、放送総局長としてNHKの番組を取り仕切った。その後、籾井とも揉め、20166月に子会社の番組制作会社「NHKエンタープライズ」(NEP)社長として放送局本体から離れた。出世街道から外れたのだが、板野はあきらめない。そこから再び専務理事として返り咲いた。あるNHK幹部が打ち明ける。

「板野はNEPに飛ばされたあと、しばしば東京から名古屋へ行っていました。JR東海の葛󠄀西さんのところへ通っていると局内でいわれていました。NEPへ外されたとき、一時避難的なもので、官邸から呼び戻す約束をとりつけていたとも囁かれましたが、葛󠄀西さんのところへ通ったのも返り咲きのため、安倍政権への影響力を期待したのでしょう」

 事実2019425日、板野は再びNHK専務理事というポストを手に入れる。異例の返り咲きと注目され、局内で葛󠄀西人事とも官邸人事とも呼ばれてきた。

官邸と前田会長の間に吹き始めたすきま風

 副会長以下、専務理事や理事といったNHKの役員人事は、前述した会長選びとは異なる。会長選びが経営委員会の専権事項であるのに対し、役員人事はあくまでグループ内部の問題である。したがって組織のトップである会長が大きな権限を持つ。会長が人事案をつくり、それを経営委員会で承認するルールになっている。

 もともと板野は専務理事に返り咲いた時点で、次は副会長、さらに会長というシナリオを描いてきたといわれる。それを断ち切ったのが新たに会長に就いた前田だった。先のNHKのOBが言葉を足した。

「前田さんは会長就任早々の昨(2020)年2月、任期満了を迎える堂元光副会長の後任として正籬まさがきさとる)さんを任命しました。正籬さんは当時まだ59歳、政治部出身で政治部長や大阪放送局長、報道局長を経て19年に理事になったばかりでした。前田さんはその正籬さんについて、専務理事を飛び越え、いきなり副会長に据えたのです。正籬副会長人事は前任の上田良一(米国三菱商事元社長)会長の置き土産ともいわれましたけど、前田さんは会長として拒否することもできるので、むしろ前田さんの意向が強かったはず。このとき板野の副会長昇格説もあがっていたけど、前田さんがそれを断ったかっこうです。ここから前田さんはNHK役員の若返りやホールディング制の経営といった改革を進めていきます。局内ではこれで板野に引導を渡し、退任の道筋ができたといわれていました」

 前田は正籬を、葛󠄀西や官邸に近い板野に比べて使いやすいと感じていたのかもしれない。正籬はNHKでもっぱら政治記者として、自民党宏池会や外務省などを担当してきた。事業予算の国会承認が不可欠なNHKは政治との距離が近いといわれるが、中立的な立場を貫いてきたと局内の信望が厚い。副会長に決まったときの記者会見でも、自らの政治との距離についてこう強調した。

「正確で公平公正、中立、自主自律。このことを常に頭において、仕事をしてきました。このことは一職員であっても、副会長であっても、変わることはないと考えています」

 一方、葛󠄀西や官邸にしてみたら、板野はNHKに残しておきたい重宝な存在なのだろう。葛󠄀西・安倍人事で会長になったはずの前田が板野切りに打って出たことに対し、彼らはおもしろくなかったに違いない。そしてこのあたりから葛󠄀西・官邸・板野連合と前田とのあいだにすきま風が吹き始める。そのすきま風がピークに達したのが、この4月の役員人事だったのである。

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