ブラックを引き寄せる“体育会系的な根性論”はどうして生まれるのか?
パワハラ・サービス残業・#KuToo…同調圧力は学校から始まる。日本がクールであるために、海外視点から伝えたいこと。
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1章 学校は「ブラック」の始まり

幼稚園選びから始めよ

 人生最初の「見極め」は幼稚園から。とはいえ、幼稚園に入る子は34歳児ですから、本人ではなく親が判断しなければなりません。

 まず、大人から見て「園児がみんなビシッとしていて素晴らしい」と思うような幼稚園は避けたほうが良いでしょう。

 この年代の子どもは「好きな時に好きなことをしゃべる」のが普通です。それが一切無駄口をたたかず、全員が列にサッと並んだり、子どもの声がやけに「とおる大きな声」だったり、そんな声で一斉に挨拶をしていたりしたら、危険信号です。子どもの「個」よりも「全体」が優先されている可能性が高く、その幼稚園は避けたほうが良いでしょう。みんながきれいに並んだり声をそろえて挨拶していたりすると、一見キチンとしているように感じますし、「子どもなのにすごい!」と思ってしまうこともあります。でも騙されてはいけません。わが子を思うなら、「ビシッとしていて気持ちのいい」幼稚園よりも、あくまでも子どもが楽しみながら通えるところのほうが良いのは言うまでもありません。自分に置き換えて考えてみると分かりやすいでしょう。あなたは、毎日ビシッと朝礼をして目標を大声で叫ばされるような会社で働きたいと思いますか。もしそう思われる場合は、残念ながらあなたは既に体育会系的な根性論に毒されています。

 幼稚園に話を戻しましょう。たとえば、家で暗記してきたものを園児一同で延々と合唱していたりする場合は「ブラックさ」の程度でいうとかなりヤバいです。一時期、世間を騒がせていた森友学園が典型です。あの学園は「政治とお金がらみ」でずいぶん話題になりましたが、それ以前に、私はテレビ画面から伝わってくる学園の教育に疑問を持ちました。園児の行動が不自然なほどビシッとしていましたし、「教育勅語」をあの年齢の子どもたちが暗記させられ合唱させられているという不気味さ。さらに気持ち悪かったのは、同学園が悪い意味で世に知れ渡る前、その教育を「素晴らしい」と絶賛していた政治家夫人や著名人がいたことです。そこに深い闇を感じます。

 ちなみにその「愛国的」な教育の中で、隣国である韓国の悪口を吹き込まれることもあったようです。そのため、家族旅行で韓国へ行く時に身体の具合が悪くなった園児もいたといいます。他国の悪口を子どもに吹き込むなど言語道断です。

 とにかく懸念されるべきは、45歳の子どもに対して軍隊のような教育を行っていたことです。親の側からすれば「あの幼稚園に入れていたら、子どもがいつの間にかビシッとしていた」とか、「大人も言えないようなすごい内容のもの(たとえば「教育勅語」)を覚えていた」とか「口答えをしなくなった」などの「効果」を喜ぶ人もいたのでしょう。しかし、「子どもたちの足並みがビシッとそろっている」だとか「威勢のいい挨拶をしている」だとか「素晴らしい行進をしている」などの大人が感心することの背景には「訓練型の教育」があるということを忘れてはいけません。

 今、世界の先進国の学校では「子どもの自主性を大事にすること」が主流になっています。先生に従順な生徒を養うスタイルはもちろん、スパルタ的な指導もなくなりました。

 しかしニッポンでは、ひと昔前に戻ったかのような「暗記型の教育」、そして「先生の言ったことに従うだけのスパルタ教育」を施していた森友学園のような幼稚園が一時期とはいえ親御さんや著名人などに支持されていた事実がある以上、日本は世界の先進国とは真逆の方向に向かっていると言われても仕方ないでしょう。

 なぜ、「ブラックな幼稚園」に出会わないことを強調するかというと、子どもの精神はもろいからです。ここでのトラウマを一生引きずるかもしれません。あるいは過剰に適応してしまえば、将来、親近感から進んでブラックな会社に入ってしまうかもしれません。わが子に幸せな人生を歩ませるためにも、幼少期から「ブラックな根性論」に触れさせないことが、親としての務めではないでしょうか。

 それから大事なこと。私自身には子どもがいませんが、だからといって、この問題と無関係ではありません。なぜなら、ブラックな教育を受けた子どもが増えると、数十年後にはトラウマから「心に闇を抱えた人」、または過剰適応した結果、根性論で他人にムリを強いる人が増えるわけですから…。

組体操があるか事前に確認

 次に小学校を見てみましょう。私立の場合は、多くの親が受験前に学校の教育理念や様々な情報を得ています。その際に、学校の主張を自分なりに解釈してみて、「その裏側にあるもの」を分析するといいかもしれません。

 たとえば「良妻賢母」という言葉こそ使っていなくても、似たようなことを女子教育の概念として挙げている学校の場合、わが娘にどのような影響があり得るかをじっくり考えてみる。学校が発信している情報を、色んな方面から見てみることです。

 ただし公立の場合は見極めが少し難しいかもしれません。とはいえ、全部食べ切るまで遊ばせないなど、給食で子どもに過剰な完食指導をしているところは避けるに越したことはありません。全員に決まった量を食べさせるという指導は既に他の先進国では見られなくなった教育です。日本の学校は音楽の授業も含め他の先進国と比べるとレベルが高いですが、たくさん知識が得られても、学校での理不尽な指導により子どもが精神を病んでしまっては本末転倒です。

「イジメ」に関しては残念ながら、わが子が入るクラスにどんな児童がいるのかどうかをあらかじめ知ることは不可能です。そのため、何か事が起きそうな時に「その都度」対応していくしかありません。一方、「ある程度予見可能」なのが、その学校の運動会などの活動です。たとえば過去に定期的に「組体操」(ピラミッド)をやっていて、今なお校長が「組体操、組体操」と言っているような小学校は要注意。

 20159月には、大阪府八尾市の市立大正中学校の運動会で計157人が参加の10段(!)の「人間ピラミッド」が崩れ、1人が骨折、他の生徒も5人が軽傷ではあるものの怪我を負う事故が発生しています。市教委が、市内の全小中学校を対象に調査をしたところ、2006年~15年の10年間に36校で計139人が組体操の練習や本番中に骨折していたことが判明しました。

 平成16年にスポーツ庁が「安全にできない場合は実施を見合わせるべきだ」という通知を出していますが、結局のところ「やるかやらないか」の判断は各学校に委ねられています。後述するように今までたくさんの事故が起きているにもかかわらず、「組体操は全国で100%中止」という結果にはならず、地域や学校によって「現場に任されている」のが実情です。

 わが子がいつの間にか組体操をやらされて大怪我をした、なんてことになってからでは遅いので、子どもが小学校に入る前にできれば形に残るやり方で「組体操をやっているか」を学校側に問い合わせたほうがいいでしょう。

 やっている場合は、できれば他の学校に入れさせること、それができなければ、将来の転校も視野に入れて他の学校の情報のリサーチをするのもいいでしょう。親には「イザとなったら転校」ぐらいの心構えが必要かもしれません。メールかファックスで証拠を残すのが一番ですが、難しい場合は電話で問い合わせて回答を録音しておきましょう。これもわが子のため、後に学校に「そんなことは言っていない」と言われないためです。

 物騒なことを書くようですが、組体操やピラミッドをやっている子どもは、いつ下半身不随になってもおかしくありません。また、本人の身体的なバランス能力が優れていれば大丈夫というわけでもなく、事故が起こった時に当たり所が悪ければ大怪我をしてしまうかもしれません。ピラミッドはなんせ人数が多いので、子ども一人では怪我しないように注意しきれないレベルです。また、「アッ」という間に崩れうるピラミッドですから、監督の先生に事故を防げる「瞬発力」があるかというと疑問です。

感動ポルノ

 一人ではできないピラミッド。そう、ピラミッドこそ究極の団体競技でありチームワークが大事です。そして、まさにそこに深い闇があるといえましょう。

 本番の運動会当日に、誰かに「すごい!」「子どもなのに素晴らしいチームワーク!」と思ってもらうがために子どもたちは過酷な練習を重ねます。

 練習といっても身体を動かすなど健康的な練習ならいいのですが、ピラミッドの練習は、「他の児童の重さに耐える我慢」ですから、全くもって身体に良くないわけです。さらに問題なのは、児童が「組体操やりたい?」と意思確認をされないまま、命の危険も伴う実践に駆り出されることです。背が高いとか太っているからなどの体格面で勝手に判断されて、巨大ピラミッドの一番下のポジションに指定されてしまったり(下にいればいるほど上にいる人は多くなり、崩れた時に上から降ってくる人の数も多くなります)、まさに理不尽なことだらけです。「ピラミッドの構造上、体格が良い人が下の段なのは当たり前だ」という声が聞こえてきそうですが、そもそもの問題は子どもに「ノー」という選択肢がないことではないでしょうか。

 ピラミッドや組体操が再三危険だと言われているにもかかわらず、その人気が根強いのは、出来上がったピラミッドを見て「感動」する大人が多いからだとか。「小さかったあの子が、お友達と一緒に毎日頑張って、みんなと力を合わせてこんなことまでできるようになったのね…(ホロッ)」といった感慨に親たちはふけるのです。これはこれで気持ちは分からなくもないのですが、目の前のピラミッドがいつ崩れて怪我人や死亡者が出るか分からないような状況で、ホロッと涙している場合なのでしょうか。私が親なら絶叫します。

 こんなことを書くと、しょせん西洋人には日本人の心というものが分からないのだとお叱りを受けそうですが、わが子の成長について、もちろん欧米でも感動する親はいます。ドイツの学校にはピラミッドや組体操はありませんが、日本でいう七五三にあたるとも言える教会の行事「堅信」(ドイツ語Firmung、自らの意思でカトリック教徒でい続けることを選ぶ思春期ぐらいの子を対象に行われる行事)で、ウルウルしている親はけっこういるのです。ドイツで行われる「堅信」はだいたい子どもが1314歳ぐらいの年齢で、正装してすっかり大人並みに体格の良くなったわが子を見てウットリするというわけです。堅信で教会に行くと、あちらこちらから鼻をかんでいるような音が聞こえてきたりします。

「感動」は、頻度としては西洋文化圏よりもニッポンでよく見られる現象であることは確かなのですが、「子どもの成長にこみ上げてくる思い」というのはどこの国も共通しているものだと思います。ただ、学校などの教育現場で「感動」が登場する数は圧倒的にニッポンが多いです。というよりも、いたるところに「感動」なるものをねじ込んで子どもに言うことを聞かせている印象です。小学校の読書感想文では「感動しました」と書くと大人に喜ばれる傾向がありますし、とにかく感動するのはいいことで、そのためにはなんでもありという印象を受けます。

 ここまで書いて、自分がとても感じの悪い人になっていると気づきました。言い訳するわけではないのですが、実は私自身も柄に合わず「感動屋さん」だったりします。ふと目にしたネットニュースやテレビを見ながら、感動で涙がこみ上げてくることがよくあります。お涙頂戴の話にも弱いです。テレビなんかを見ていて、それらしきナレーションがあったりすると、すぐに共感してハマってしまい、気がつくと泣いています。けれども、最近はその後に「待った待った」と反省することが増えました。少し時間が経って冷静になってみると、「弱い立場の人が何かを強いられて頑張っている姿に私が感動するのって何か違う。なんでこんな美談に引っ掛かったんだろう」と自己嫌悪に陥ることもあります。それなのに、またテレビを見て似たような話があると、やはり泣いてしまいます。「感動する」って、もしかすると心も身体も気持ち良くなることだからこそ、なかなかやめられないのだと最近になって気づきました。

 少し前に「感動ポルノ」という言葉がありました。「24時間テレビ」関連でよく出てきた言葉ですが、健常者が障害者に課題を強いる形で、「一生懸命になって頑張る姿を見てみんなで涙を流す」というような場面を見ると、自分も感動しながら、確かに「感動したで終わらせるべき話ではないかもしれない」と思うことがあります。そうした「感動」は必ず時間の経過とともに私の中で後味の悪いものとなります。

「自分よりも立場の弱い人が、ムリと思われる課題に一生懸命取り組んでいる」ということに日本人は感動しがちです。でも、それこそが問題です。ピラミッドで言えば、大人が趣味として定期的に社会人や主婦などが公民館などに集まってやるのならいいと思います。それを見て感動するのも勝手です。でも子どもたちは、大人が感動したいがためにピラミッドを「やらされている」わけです。

 これは、自分自身にも言い聞かせたいことなのですが、人の苦労を見て好き勝手に感動する前に、自分で頑張って自分に感動してみたいものです。自分に感動って、歯がゆくてなかなかできるものではないし、ナルシストっぽいかもしれませんが、他人が苦労する姿に感動するよりも、よほど健全だと言えるでしょう。何よりも「他人に苦労を強いて感動する」人が自分も含めて減れば、世の中だいぶ平和になると思うのです。

 最近、私はかつて失恋した時によく通った場所を訪れて「今の自分はこんなに元気! ここまでよく頑張った!」などと現場で一人ニヤニヤして怪しい人になっていることがあります。でも、自分に感動して完結しているので許していただきたいです。「当時の落ち込んでいた自分に今の自分の姿を見せてあげたい!」そんな気持ちになりながら、何となく「私はすごい!」という自己肯定感を持つことにも役立っている気がします。周りの人から怪しまれるかもしれませんが、みなさんもお試しを。

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第1章 学校は「ブラック」の始まり(2)

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