竹島、尖閣、北方領土。問題の現場に行ってみた!
日本の新しいリスクである北方領土、竹島、尖閣諸島で何が起きているのか。現地ルポと歴史で辿る、問題の原因と真相。

1章 国境の誕生

11 国境の誕生と領土のルール

国家とは

 ヨーロッパに所属している国から外国へと行くのはとても簡単である。出入国審査はなく、パスポートを見せなくてもいいことが多い。鉄道やバスなどの公共交通機関を使ってだけではなく、自家用車でドライブしながら国境を越え、隣国に入ることだってできる。

 一方、四方を海に囲まれている日本から外国へ行くのはヨーロッパよりは面倒だ。とはいえ、パスポートと目的地行きの切符さえあれば難しいことは何もない。国際空港から飛行機に乗れば世界各地へアクセスできるし、北海道北部の稚内、あるいは九州の博多や対馬からは船で隣国へ行くことができる。たかだか150年ほど前まで鎖国をしていた国とは思えないほどに容易である。

 現代では、ヒト・モノ・カネは易々と国家間を越える。このことから考えれば、国境はもはやなくて当然であるように思える。言葉の壁はあるものの、インターネットを通じて世界中の人々とメールでやりとりしたり、外国のウェブサイトを閲覧したりしているとますますそう思えてくる。

 では、なぜ国境は強固に存在しているのだろうか。まずは広辞苑で「国家」という言葉の持つ意味を調べてみた。次の通りである。

   一定の領土とその住民を治める排他的な統治権をもつ政治社会。近代以降では通常、領土・国民・主権がその概念の三要素とされる。(『広辞苑第六版』より)

 国境や軍事境界線に仕切られた領土の内側で国家が統治を行う。資本主義と社会主義、世襲による独裁制と選挙による代表民主制といった国情や体制の違いは、国境や事実上の国境である軍事境界線で国が区切られ、その内側の領土をそれぞれの国が統括しているからこそ存在するものだ。そして、その政治の恩恵や不利益を受けるのが国家を構成する国民となる。

三十年戦争とウェストファリア条約

 世界地図を見れば、世界中、ありとあらゆる場所に国境線が引かれていることがわかる。地球上で国が存在せず、国境線がないのは南極だけである。他方、陸だけでなく、島と島、島と大陸の間にも線が引かれている。

 もとを正せば、領土とは「縄張り」のことである。テレビの動物番組で、動物が自分の縄張りに入ってきたよそ者を執拗に攻撃して追い払う様子をよく目にする。縄張りの境界を越えてくるよそ者を侵入させないように、自分たちの領域を占有するわけだ。人間の場合も原理的には変わらない。集団が大きくなって国を作り、縄張りはやがて領土に、縄張りの境界は国境線となった。

 あらゆる動物すべての縄張りをあわせても、地球上には「空白」となる場所がある。なぜなら、動物には住めない場所があるからだ。これは近代化する以前の人類も同様である。近代化される以前、人類が世界全体を支配するには「力」が不足していた。人類の全人口は現在に比べて格段に少なく、統治のために必要な通信手段や輸送技術も不足していた。したがって、国家の統治力は中心から離れるに従って弱くなり、力が及ばない「空白の領域」が世界中のあちこちに存在していた。また、君主にとって重要なのは、人々からいかにして税を徴収するかであり、国の領域がどこまでかという意識は薄かった。これは、現代と違って石油などの資源権益が存在しなかったことも影響している。そして、このようなぼんやりとした明け透けな国境のことを、政治学や地理学では「フロンティア」と呼んでいる。

 他方、明確な国境のことは「バウンダリー」と呼ばれる。では、現在のような明確な領土意識や国境線が世界を覆い尽くすようになったのはいつのことなのだろうか。

 バウンダリーの起源は1417世紀のヨーロッパにあるとされている。14世紀に始まった百年戦争の終結とともに領土や国民といった概念が生まれ、それに基づく国家がドーバー海峡をはさんで誕生した。経過は次の通りだ。

 1337年、イングランドとフランスという二つの王国間で戦争が起こった。問題となったのは主にフランス王位の継承問題である。継承問題にフランドル地方(現在のオランダ南部から北フランスにまたがる一帯)の領有権問題が加わり、この戦争は1453年までの百十数年もの間、断続的に行われた。

 1429年初頭までは、フランスの南西部や北部を占領していたイングランドが優勢だった。しかしその年の春、巻き返しに成功したフランスが全領土をほぼ奪還する。イングランドの領土はブリテン島に限定され、フランスは国王が支配するところとなった。このとき、両国は現代に通じる領土国家の認識や国民意識を世界で初めて確立したのである。

 その後、西ヨーロッパ全土を巻き込んだある戦争のもたらした結果によって、領土原則のルールは西ヨーロッパ全土に広まることになる。

 1618年、現在のチェコで勃発したのが三十年戦争である。原因は、プロテスタントとカトリックの宗教対立だった。その後、ドイツを主戦場にデンマーク、スウェーデン、フランスも参戦する。戦いは、1648年に結ばれたウェストファリア条約まで続いた。この結果、スイスやオランダは独立を承認され、ドイツでは国内分裂が進み、フランスはヨーロッパ最強国にのし上がり、ハプスブルク家と神聖ローマ帝国は弱体化した。以後、ヨーロッパの国家は国家主権において平等であり、相互に干渉してはならないという原則が認識されていく。こうして、英仏で確立した領土国家の認識は西ヨーロッパ全土に普及する。つまり、ヨーロッパ全土で明確な領地の線引きをしたのである。

領土、領海、領空

 その後、バウンダリーはどのようにして世界中に広がっていったのか。ブルース・バートン・著『国境の誕生 大宰府から見た日本の原形』には次のように書かれている。

   後に、ヨーロッパ諸国がその影響力を世界中に拡張しはじめると、排他的な領土をくぎる国境という概念が、ヨーロッパ以外の地域に強制的に押しつけられたり、またはまねされたりして、地球規模に広がっていった。あるときには、それまでにあったなんらかの社会的境界に沿って、またあるときには、たんに的なやり方で、世界中に国境線がひかれていったのである。

   当初、それらの国境線が画定した領域の多くは、ヨーロッパ諸国の植民地であった。後には脱植民地化の結果、そうした旧植民地のほとんどは、ヨーロッパ諸国がもともとひいた線に沿うように固有の独立した国民国家へと変貌をとげていった。この過程が最終的にたどり着いたのが、私たちが今日目にしている状態、つまり明確で排他的な物理的境界をもつ二〇〇近い主権国家が地球上に存在する、という状況なのだ。その結果、特定の一国家によって排他的な支配をうけていない唯一の陸地は、今日では南極大陸を残すのみとなっている。

 領土や国境のでんがどのようにして行われたのか、説明はこのぐらいにしておこう。

 次に、領海と領空について簡単に説明しておこう。20世紀とは、排他的な領域の概念が南極以外の場所を覆い尽くした時代でもある。その概念は陸地にとどまらず、海や空においても適用され、世界中に普及した。

 15世紀から17世紀前半にかけて、ヨーロッパ各国は大西洋やインド洋、太平洋と、それまでになかった新しい航路を開拓する。いわゆる大航海時代である。大航海時代の「先発組」として覇権を握ったスペインやポルトガルは、当時、自国による海洋の領有を主張した。しかしその後、先発組に代わって覇権を握った「後発組」のイギリスやオランダが海洋の自由を主張すると、後者の主張はやがて先発組を抑えるようになる。それにともない、海洋を万人の自由な使用のために開放すべきという考えは慣習法として確立されていく。といっても、すべての海が公海とされたわけではなく、沿岸は領海として区分された。その際、領海の範囲は国によってまちまちであった。

 1958年、第一次海洋法会議の場で領海条約と公海条約が採択され、慣習法であった海洋のおきてが法典化される。会議では同時に、漁業資源保存条約と大陸棚条約があわせて採択された。1982年には国連海洋法条約が採択され、200海里の排他的経済水域(EEZ)という概念が制度化される。これは、12海里の領海の外側に設定されるもので、資源などの経済利用については領土同様だが、船の航行や上空の飛行機の通過においては公海と同じという、準領海というべき領域のことであった。

 また、20世紀初頭には飛行機の発明によって領空という概念も生まれている。これは領土と領水(領海だけでなく内水〈河川や湖〉も含む)の上空における国家の主権のことで、領空を飛行する外国機はその下の国の許可を得る必要があるというものであった。

 このように、時代を経るごとに国家の領域というものは、複雑化の様相を呈するようになった。

第1章 国境の誕生(2)

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