戦後20年目に出版された、広島を生きる人々の声
忘れてはいけない 広島で生きる、小さな声

相生通り

 広島市の地図を開くと、市の中心部に空白のまま残された場所がある。基町一番地である。その河岸地帯は、通称相生通りと呼ばれ、原爆の生みだした被爆者のふきだまりのようにいわれている。だが、本当はどうなのだろうか?

 相生通りは、平和公園のはすかい、原爆ドームから電車道をひとつへだてた川土手にはじまる。二人並んでやっと歩けるくらいの狭い通りが一本、相生橋から三篠橋のたもとまで、ほぼ一キロつづいている。土手の上に、しぜんに踏みならされてできたでこぼこ道である。その両側の傾斜地から川岸にかけて、つぎはぎだらけの掘立小屋が九〇〇戸(県都市計画課調べ)。世帯数は一一三五世帯、そのうち朝鮮人が一七五世帯、約六五〇人(西警察署基町派出所調べ)。朝鮮総連広島東支部では、二二〇世帯の朝鮮人が住み、その三分の二は総連に入っているという。

 いずれにしても、ここに住んでみて、これらの数字は推定以上に信頼できないと思った。正直いって、天井裏のねずみをかぞえるようなものである。たとえば、一軒のバラックと思えるものでも、表の間はAの所有で裏口はBのもの、その横にはCの表札がかかっているという具合だ。最初はAの廂を借りて住んでいた人が、家族の増加とか、どこかで手ごろな古材木を見つけるかして、土手下まで建て増しする。そこへ知合いのCが入りこんできて横っぴらに継ぎたす。それらが迷路のように入り組み、土手をすべり下りたところに入口があるかと思えば、床下と思ったところに思いがけなく人が住んでいるというふうだ。土地そのものが国のものだから、隣の人も文句をいうわけにいかない。もっとも、そこにはかなり激しい口論もあり、じっさいに金銭上の取引きもあるようだ。不動産屋よろしく、『売家・貸間アリ』と書いた板切れが通りを歩くと三つ四つは必ず目にとまる。

 私はたまたま、土手の裏手に新しい掘立小屋が一つできるのを見た。そこにはまだ、かなり広い空地が残っている。元輜重隊の馬場跡で、この辺の人はそこをケイバジョウ(繫馬場)と呼んでいる。川岸には砂舟の廃船が沈み、夕方になると自家用車が数台、この広場に駐車する。

 最初、空地の枯草の上に、なにげなく放り出されたほんのひとつかみの古材木が、赤さびたトタン板でおおわれていた。薪にでもするつもりで、誰かが集めているのだろうと思っていた。ところが、十日ばかりたって気付くと、そのまわりに四本の柱が立っていた。それから一週間、柱は地面に突き立ったまま放っておかれた。これはいわば、権利を主張する忍耐強い予告期間であった。そのあいだ、文句をいう者がいないのを確かめ、放り出された古材木が組立てられたのはまたたく間であった。二日後には、子供をおぶった主婦がその小屋から出てくるのをみかけた。

 呉庚判(六五歳)は、相生通りで一番古くから住んでいる。相生橋寄りの入口近くである。終戦直後、朝鮮にかえろうと思い、家財道具一切を売りはらって田舎から出てきた。ところが、輸送船が機雷にふれて沈没したという話をきき、しばらく様子をみることにした。三年間、江波町から南観音町と、知合いの家を転々として帰国の日を待った。その辺の町には、三菱重工業の徴用労務者として三千人からの朝鮮人が連れてこられていた。今でも、そのままそこに住みついた朝鮮人は多い。呉一家も、遂に帰国をあきらめ、二十三年からこの相生通りに小屋を建てて住みついた。そのころ、ここにはわずか四軒しかなかった。そのうち今でも残っているのは、二軒だけである。最近、市役所から立退きの調査書がきたそうである。

 「あのころは、もっと便利なところがなんぼうでもあったのに、とうとうこんなひどいところに十七年も辛抱して、またはじめからやり直さにゃならん」と呉庚判はなげく。

 「うちにゃ金くい虫(子供のこと)が八人もいたんじゃもん、しょうがない」と奥さんの利而さんはいう。

 この土手は、戦前、桜ヶ土手とよばれ、護国神社の神殿、輜重隊の馬場、陸軍病院の療養所があった。土手の内側は、広島城をかこんで、軍関係の建物や広大な練兵場になっていた。原爆ですべて吹きとび、敗戦によって全くの空地となった。昭和二十一年、住宅営団によって、戦後初の十軒長屋二〇〇戸が元野砲聯隊跡に建てられた。その後、毎年少しずつバラックまがいの市営住宅ができ、お城の堀端まで埋まっていった。ここを中央公園にする大規模な計画は、二十四年、広島平和記念都市建設法案が国会で可決されてからである。この計画は三十一年に一部変更され、北側半分をアパートの敷地に当てることになった。三十二年、基町市営アパート建設工事の杭打ち式が行なわれ、旧市営住宅や、その隙間をぬって建てられた不法住宅の取りこわしが始まった。現在、鉄筋コンクリート建てのアパート団地が出来上りつつある。一方、南側には中央公園の一部として、児童公園(二十四年)、市民球場(三十二年)、広島城(三十三年)、体育館(三十七年)、屋内プール(四十年)ができた。公園の中央を通る三十メートル道路の予定地も、ほぼ八分かた取りこわしが終り、やがて土手の上に伸び、対岸をむすぶ橋がかけられることになっている。相生通りの人たちが、このままこうしていられるのも長い間のことではないだろう。

 相生通りのまん中辺に、『第七区立退対策委員会』の看板をかかげている清水省三(四五歳)は、二十五年からここに住んでいる。当時まわりはみんな笹やぶで、ぼつぼつ小屋が建ちかけていた。今でも、春になると床下から笹が突き出すそうだ。清水省三は四発の銃創をうけて兵役免除になった傷痍軍人である。原爆当時は、バス会社の運転手として郊外線に乗っていた。運よく被爆をまぬがれ、そのまま田舎に家を借りて住んだ。ある事情からバス会社をやめ、ここに移ってきた。その事情は語らなかったが、人の話によると、正月に酔っぱらって車を谷川におとしたということである。清水省三は狭い土間でモーターバイクの修理屋をやっている。今でも朝っぱらから酒を飲んでいる。相生通りに来て、酒飲みの話はよく耳にする。七、八年まえまでは、ここが密造酒の巣窟であった。毎年春になると税務署の手入れが新聞記事を賑わしたものである。しかし今は密造酒の話もきかない。もっとも、ホルモン屋に坐っていると、朝の出掛けに豚の耳をかじりながらコップ酒をひっかけて行く人たちに出くわす。

 立退対策委員会ではどんな仕事をするのかきいてみた。加盟者は四〇〇戸という。少々めいてい気味なホラがまじっているのかもしれない。だが、ここは流動世帯が多く、名前を連ねていても実際は移転している者も沢山いるのだそうだ。

 「立退きに反対するんじゃないんでえ」と清水委員長はいう。「ここから出られるようにしてもらいたいだけだ。もっとも、立退きの話は十年もまえからあるが、役所からはいまだになんともいっちゃこん」

 そういえば、清水省三の家から十四、五軒先には、『立退促進保護連盟』という、訳のわからぬ看板をかかげた家もある。みんなここから出たがっていることだけは確かだ。しかし一方、市内のどこかで立退きが強行されると、そのうちの何人かがここに流れてくるのも事実である。役所では、この厄介な地帯を一番後まわしにするつもりらしい。この土手筋が河川敷で、管轄権は県にあり、公園や住宅政策は市のほうでやっているという、行政面の食違いが、この河岸地帯を今日まで放っておくことになったのではなかろうか。

 私は相生通りのなかほどにある伊東荘のそばの、川岸に建った二階の部屋を借りて住んだ。対岸は寺町で、窓からは寺院の大屋根が点々と見える。干あがった川岸に、中学生がカスミ網を仕掛けてうずくまっている。土手の人たちが投げた残飯をひろいにくる、すずめをねらっているのだ。伊東荘の前の広場では、こわれたオモチャになわをつけて小さい子どもたちが遊んでいる。鈴木商店の小型トラックが、町から集めてきた廃品のなかから捜しだしたものである。大人たちが古金を仕分けしている間の、しばらくの楽しみである。やがて積込みがはじまると、次々に取上げられ、トラックはまた土手を越えていってしまう。

 この通りを歩いていて感じるのは、外からの闖入者に対して根強い反感を持っていることである。夕方、広場でぼんやり立っている中学生に声をかけた。いきなり「バカタレエ!」と叫んで、その子は小屋にかけこんだ。これが私に対する、いや部外者みんなに対する、ここの人たちの本心であった。大浦ミツ子は中学二年生で、両親は鈴木商店の拾い屋をしている。伊東荘を取りまく、特別お粗末なバタヤ部落に住んでいる。ある日、学校で友だちの服をめちゃくちゃに切り裂いた。それを詰問する先生にミツ子はうったえた。

 「みんなわたしをバカにする。わたしはみんながにくらしい。みんなを殺して、わたしも死にたい」

 大浦ミツ子が学校を休んだ日、T百貨店から電話があり、彼女を引取りにこいという。てっきり万引したのだと思った。が、そうではなかった。お金を落したから捜してくれと、警備員にいったのだそうだ。問いつめると、お金を落したというのもウソだった。どうしてそんなウソをつくのかときいてみた。

 「わたしがいないのに、みんなが気がつくかどうかためしてやったの。いてもいなくてもおんなじことなら、わたしは学校へ行かなくてもいいと思うの」

 その大浦ミツ子が、三月の半ばとうとう家出してしまった。

 外部に対してだけでなく、相生通りの中でも互いに孤立し、干渉し合わないままで暮している。民生委員の前トモ子は、掘立小屋の中で死にかけた孤老の話をしてくれた。近所の人の知らせでかけつけたときには、もうその老人は虫の息だった。くそも小便もふとんの中で垂れながしていた。養老院に送って五日目に死んだそうである。

 原爆孤老の上田要をたずねたとき、私はその話を思い出し、不吉な予感をおぼえた。小屋には鍵がかかっていた。同じ屋根の、壁ひとつへだてた隣人にきいても、どこへ行ったのか知らないという。二月の初めから姿をみないそうだ。それから一ヵ月半、毎日その小屋をのぞいてみたが、鍵はとうとう開かないまま行方が知れなかった。

 私の住んでいる家の裏は豚小屋で、隣は崔洪任の長屋の共同炊事場になっている。崔洪任は福島町で被爆し、二十八年ごろからここに住み、豚を飼っていた。比較的早くきた崔は、豚小屋のまわりに魚箱を積みかさね、地所を広くかこった。五年まえ、コレラで豚が全滅したのを機会に、豚小屋を改造して長屋をつくった。その頃、市の区画整理がすすみ、次第に行き場を失った人たちがこの土手筋に集まっていた。崔は、ついでに土手の通りで雑貨屋もはじめた。今では家賃のあがりと店の収入で、このあたりではちょっとした金持ちである。ところで、豚小屋を改造した名残りが共同炊事場の床に残っている。水はけ場のコンクリートがはげかけ、黄色いしみのついたセメント瓦の断片がのぞいている。炊事場の中央には手押しポンプがあり、まわりには長屋の人たちの洗濯機や漬物樽がならんでいる。

 私は朝の洗顔に、そのポンプを使わせてもらった。しかし、最初その水を一口ふくんで、思わず吐気をもよおした。生暖かい塩水が口の中にぬめりつき、かすかな臭いさえのこった。このあたりで干満の潮位は一・五メートル。直接、濾過した海水を飲んでいるようなものである。しかし、これはなにもここのポンプに限ったことではなかった。土手から下の、河岸地帯に住む人たちみんなが、この塩水で暮しているのだ。それがいやならここを出て行くよりほかない。水道は土手を越えた市営住宅までしかきていない。土手の人たちがそれを利用している気配はなかった。もっとも、土手の上の、川岸から遠いポンプはそれほど塩からくはない。そこには、「組以外の人の使用はお断りします」とかいた板切れがぶらさがっている。私は暗くなってから、飲み水だけはそこへ汲みにいった。

 もうひとつ私が困ったのは、便所である。セメント板で囲っただけの共同便所は、上半身と足元がすいてみえる。私のいる家には、裏の豚小屋に専属の便所がある。だが、見慣れぬ人をみてなきわめく豚の鼻先で用をたす芸当は私にはできなかった。やむなく、川岸を利用したり、原爆ドームのそばにある有料便所を使ったりした。そこまで歩いて十分はかかる。この距離のため、私はここにいるあいだ中、いつも便意をもよおしているような気がした。共同便所では朝の盛況時に、小屋の角から順番をうかがっている人もみられた。

 それにしても、ここに住む人たちは雑草のように根強い生活力をもっている。職業別にみて、失業対策事業や日雇人夫に出ている人が一番多い。若い人たちは、最近の人手不足のせいで町工場や商店に勤めている。そのほか、土工、屑屋、養豚業、自家営業の淫売、賭博者、そして犯罪者の隠遁場所でもある。家にいる主婦はたいてい内職をしている。小型自動車で、内職のあっせんを専門に請負っている人もいる。今年七十七歳のおばあさんが、二人の孫をかかえて毎日、紙手ふきんの折りたたみをしていた。息子は消防夫で、六年まえ、材木店の火事で殉職し、嫁は子供を残して逃げたのだそうだ。千枚折りたたんで六〇円、一日に二千枚から三千枚がいいとこだという。かと思うと、廃品回収業の藤井商店は、三十人からの子飼いの屑屋をかかえ、一千万円の貯金をしているという話だ。また、夫婦が失対に出るため離婚手続きをして失対手帳を交付してもらっている者もいる。母親が自分の娘に客をあっせんしている話。生活保護をうけながら、掘立小屋を二つもち、一軒は福祉用にわざと貧寒とみせかけ、もう一軒は夜用に、情夫とステレオをたのしむというチャッカリした未亡人もある。

 いずれにしても、塩っぱい水をのみ、一種異様な雰囲気に耐えて生きていく人たちの生活の知恵である。最近、パーマ屋が一軒この通りに開業した。むろん営業許可があるわけではない。ここの人たちにとって、そんなことはどうでもいいのだ。髪をちぢらせることさえできれば素人だってかまわない。もっぱらの関心は、町のパーマ屋よりどれだけ安いかということだった。

相生通り 文沢隆一(2)

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