バブル日本のアウトローたち
かつて「総会屋」と呼ばれる男たちがいた――。彼らは闇社会の住人でありながら、上場企業の株主総会に株主として出席し、経営陣を震え上がらせた。なぜ一流企業の経営陣は、闇社会の“呪縛”に絡み取られてしまったのか? 論談同友会の元幹部らの証言をもとにバブルの裏面史を描き出す。

1章 総会屋の源流とバブル前夜

源流は児玉誉士夫

 戦後の総会屋の歴史をたどると、源流は児玉誉士夫にさかのぼる。言うまでもなく、「戦後最大のフィクサー」「政財界の黒幕」などと異名を取った昭和の巨魁だ。A級戦犯容疑者として逮捕され、元首相の田中角栄が摘発されたロッキード事件でも脱税などで在宅起訴された。政財界に幅広い人脈を持つだけでなく、暴力団や右翼団体にも太いパイプがあり、戦後日本の裏社会に絶大なる影響力を発揮した人物だ。

 児玉が牛耳っていた時代の代表的な総会屋に、久保祐三郎や田島将光、かみもりてつ、木島力也らがいる。1950(昭和25年にデパートの白木屋を企業乗っ取りなどで知られる実業家の横井英樹が買収しようとしたとき、白木屋側に久保がつき、田島は横井の後ろ盾となった。上森は「三菱グループの守護神」と呼ばれ、一時期は映画雑誌を発行する「キネマ旬報社」の社長でもあった。久保と上森は城山三郎が第40回直木賞を受賞した小説『総会屋錦城』のモデルになったとも言われる。彼らの中でも、木島は児玉の系譜を受け継いだ総会屋として、後年に至るまで企業に睨みをきかせ、隠然たる力を誇ることになる。木島については第6章で詳しく述べることにする。

 戦後から高度経済成長期まで、彼ら長老総会屋たちが株主総会を取りしきり、他の総会屋たちに根回しをして短時間で終了させていた。いわゆる「シャンシャン総会」だ。

 大きく分けると総会屋には二種類ある。総会で企業に質問を繰り返す「攻撃型」と、その攻撃を妨害し食い止める側にまわる「防衛型」だ。攻撃型は「野党総会屋」と呼ばれ、企業について防衛する側は「与党総会屋」とも言う。場合によって与党と野党が入れ替わることもあれば、中には「幹事総会屋」と称し、企業から一括して資金をもらい、それを野党側に分配することで総会を取り仕切る者もいた。久保を筆頭とする長老たちは、主に幹事役を果たしていたのである。

 木島や上森など「大物総会屋」による株主総会支配が続くなか、1960年代半ば、「シャンシャン総会」をブチ壊して攻撃をしかける野党総会屋が現れた。

 その男は小川薫といった。

「賛助金」という名目のカネ

 1937(昭和12年に広島で生まれた小川は、バクチ好きが高じて野球賭博で勤め先のカネを使いこんでしまい、1964(昭和39年に東京へ逃げてきたという。新橋でくすぶっているときに総会屋という存在を知り、この世界に足を踏み入れた。

 総会屋になった当初、小川も凡百の総会屋たちと同じように企業回りをして、「賛助金」という名目でいくばくかのカネをもらう存在にすぎなかった。高度経済成長期には企業の総会屋対策費が潤沢になり、総会屋たちの間では、「株主総会に行けばカネがもらえる」と言われていた。総会に出席して議事進行に協力すれば、「賛助金」というカネがもらえたのだ。そのために彼らは1株、2株程度のいわゆる「端株」を取得して、できるだけ多くの企業の株主総会に足を運んだ。中小証券会社の営業マンが総会屋の事務所を訪れて、「この会社の株が10株だけありますけど、どうですか?」とセールスしていたほどだ。当時の株主総会は現在のように開催時期が6月下旬に固まってはおらず、1月から12月まで分散して開催されていたことも、彼らには好都合だった。

 総会屋の名刺には、当然ながら「総会屋」と書いてあるわけではない。「○○企業調査会」「□□経済研究所」というものから「株主運動家」「株主権利を考える会」というものまであった。つまり総会屋は表向き、経済動向や企業活動を調査し、株主の権利を守る活動をしているというスタンスだった。企業としては、その活動の趣旨に賛同するという大義名分のもとに、カネを支払っていたのだ。このため、企業から総会屋に提供される資金は「賛助金」と呼ばれていた。

 決算期近くなど各企業が指定した日に、総会屋の窓口である総務部に顔を出すと、領収書にサインさえすれば、当然のように賛助金がもらえた。

 独立系の元総会屋が、古き良き時代を思い出し、こう語っていた。

「企業からカネが配られる日には、陽が昇りはじめる早朝から(東京の)丸の内や大手町などのオフィス街に全国各地から総会屋が集まってきて、あちこちの本社前に行列を作って待っていたもんだ。中には、見るからにヤクザそのものという輩から、チンピラの見習いのような奴までいた。『並び屋』と呼ばれる連中もいて、『○○産業の本社前で並んでいろ』と指示して並ばせる。順番が来たら代理でカネを受け取って持ってこさせる。それだけの仕事だが希望者は多かった。

 カネをもらえると言っても、総会屋としての格というか、キャリアによって金額は大きく違ってくる。駆け出しの頃は封筒に入っているのは当時のカネで5000円から1万円。そこからどれだけ金額を積み増していけるかが、腕の見せ所だ。自分の誕生日だとか、息子が生まれたなんてプライベートな話題から始めて、会社の創立記念日だからとか、新製品の売り上げが好調で業績の見通しが明るいだとか、何かと口実を考えては交渉するわけだ。時には企業幹部のスキャンダル情報を持ち込むこともある。『黙っておくから、カネを出してくれ』なんて直接的には要求しないが、暗にそういう趣旨だとわかるように提案をして、様々な名目で資金を提供してもらっていた」

「ワシの質問に答えんかい」

 ほぼ独学で総会屋稼業を始めたと言われる小川だが、企業を回って徐々に資金と実力を蓄えていった。その過程で総会屋たるもの企業について研究して、株主総会で発言をしなければ、長老総会屋たちをしのげないと思い至ったという。いつしか故郷の広島から実弟の小川明男、義弟の玉田大成らを呼び寄せ、配下を集めて「小川グループ」を率いるようになっていた。

「おどれー、ワシの質問に答えんかい!」

 演壇の議長席に座る社長に向かって質問攻撃を繰り返し、まともに回答しようとしないときには、独特の広島弁でまくし立てた。暗黙の了解で成り立っていたシナリオ通りの「シャンシャン総会」を否定し、既存の総会屋勢力との乱闘騒ぎも辞さなかった。1960年代末から1970年代にかけて、小川は野党総会屋として暴れまくった。その活動ぶりは後に作家の大下英治が小川をモデルにした小説『最後の総会屋』で描いている。

 当時の小川を知る元総会屋たちは、こう口を揃える。

「突然、小川が株主総会に現れてベラベラと質問攻勢をしかける。すると、仕切り役の幹事総会屋が『あの野郎は誰だ。黙らせろ』となって小川を取り押さえて殴る。すると小川もやり返して乱闘騒ぎになる。それでも小川のすごいところは、ケンカした相手とでもすぐに仲良くなってしまうこと。体つきは小柄だが、バイタリティーにあふれていて、それ以上に相手の懐に入りこんでいく愛嬌があった。

 小川グループの特徴はメンバーの出入りが激しいこと。小川本人が『来る者拒まず、去る者追わず』という姿勢だったから。良く言えばごうほうらいらくの親分肌だが、いい加減で大雑把ということ。しかし、どこよりも勢いはあった」

 小川の事務所は当時、東京都中央区の京橋にあり「小川企業」という法人組織にしていた。勢いのある新興総会屋グループだけに、〝優秀な人材〟が多く集まっていた。中でも、後に野村証券や第一勧業銀行(現・みずほ銀行)などによる利益供与事件で世間を騒がせることになる小池隆一がいた。小池は小川と袂を分かって大物総会屋の木島力也に師事し、その後は一匹狼的に活動していた。

 さらに、三菱自動車工業や三菱電機、三菱地所など、「三菱グループ」各社から横断的に違法な資金提供を受けていたとして警視庁に逮捕されたていてるも、小川の配下として活動していたことがあった。鄭は中本貞次という稼業名を名乗り、後に自らのグループ「中本総合企画」を立ち上げ、三菱グループに食い込んだ。鄭については第8章で詳述する。

 小川グループで修行を積んだ若手総会屋たちが活動の場を広げていき、小川は総会屋業界で大きな影響力を及ぼすこととなった。グループに所属していなくとも、見習い修行中のような若手に総会屋の手法を伝授したため、その後長年にわたり総会屋仲間たちは親しみを込めて、「カオルさん」と呼んでいた。

 しかし、企業にとってみれば迷惑をまき散らす厄介な存在であり、警察にとっては最重要捜査対象であった。

国内最大の総会屋グループ「論談同友会」

 小川薫に少し遅れて同じ広島からまさたつが上京したのは、1966(昭和4110月、25歳のときだった。先に上京していた同郷の友人らに迎えられ、正木は翌年11月に「論談同友会」を結成した。同会は「論談」と呼ばれ、組織力を背景に国内最大の総会屋グループに発展することとなる。

 当初、正木は同郷で先に総会屋活動を始めていた小川と行動をともにしていたが、論談の元幹部によると、何事も大雑把でバクチ好きの小川と几帳面な正木とでは性格が合うわけがなく、すぐに別行動をとるようになったという。メンバーの出入りが激しい小川グループに対して、論談同友会では厳しい規律に従って団結力を発揮することが何よりも求められた。

 会長の正木をトップに、その下に理事会、幹事会などがつらなるピラミッド型の組織で構成されていた。ナンバー2の理事長に和田長生、専務理事に梶谷正幸、常務理事には川本正吾と二宮紘一、幹事長には朝田芳樹、副幹事長に佐藤和義、藤村安吾らが最高幹部として名を連ねていた。中でも和田、梶谷、二宮らは、広島の私立山陽高校で正木と同級生だった。いずれも先に上京して総会屋として活動していた正木に誘われてメンバーになった。ある元幹部は、「正木の代理と言って企業を訪問すると、簡単にカネを受け取れた。こんな仕事ならやらない手はないと思った」と駆け出しの頃を振り返る。

 梶谷や二宮などの理事クラスになると、本部事務所のほかに個人事務所を都内に構えており、そこに若い衆を何人か抱えていた。本部の下に二次団体、三次団体で構成される暴力団と同様の組織形態だった。

 そのほかに論客として知られた鈴木孝三、機関紙「論談」編集長の山本さとし、執行部の下の会員として、北代繁彦や神山一馬、田端稔、政田幸一、大友秀男、宮田敏光、田辺英雄、中川大輔らが活動していた。

 東京都渋谷区本町の京西ビルに本部事務所を構え、最盛期には正規メンバーが40人以上を数えた。朝7時と夕方5時には、通称「ホンマチ」と呼んでいた本部事務所に全員集合して活動報告することを義務付けていた。朝の集合が早いため、論談の幹部たちと取材を兼ねて飲んでいても、「明日、朝が早いから」と遅くても夜11時過ぎにはお開きとなるのが通例だった。

 論談同友会というグループが独特だったのは、鉄の結束力を保つためにメンバーたちが同じ建物に住んでいたことだ。当初は本部事務所のある京西ビルに、正木をはじめ和田、梶谷ら幹部たちが暮らしていた。1976(昭和51年には西新宿にブラウンハウスというマンション(本館・別館の二棟)を自前で建てて、そこにメンバーたちを入居させた。

第1章 総会屋の源流とバブル前夜(2)

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