乗り換えだけにこだわった、マニアック鉄道論
鉄道の「乗り換え・乗り継ぎ」にこだわり、その歴史から名所的乗り換え駅、乗車券やICカードの使い方などの実践的知識まで学べる鉄ちゃん垂涎、初心者にもおトクな一冊!!

第一章 「乗り換え・乗り継ぎ」ことはじめ

一 鉄道最大の欠点とは?

〝ドア・ツー・ドア〟ならず

 鉄道とは文字通り「鉄の道」であって、二本の鉄製レールによる「線路」というものが万事の根幹をなしている。が、この構造が、数多くのメリットをもたらす反面、決定的な欠点となる場面もある。

「鉄道」がクルマに劣る点としてよく取り上げられるのが、〝坂(勾配)に弱い〟ということ。鉄製のレールの上を鉄製の車輪が転がって進む鉄道のかかる基本システムは、転がり摩擦抵抗という、車輪が転がるときに、摩擦によって転がる方向とは逆に働く抵抗が極端に小さく、クルマの場合の、コンクリートとゴムタイヤによる車輪の転がり摩擦抵抗の約四分の一であると、ものの本には書いてあった。

 転がり摩擦抵抗が四分の一ということは、クルマよりも小さな動力で重たいものが運べるということであり、これがすなわち、エネルギー効率がすこぶる良いとされる鉄道最大のメリットでもあって、最近は〝エコ〟ブームとやらで、鉄道がもてはやされたりする要因ともなっているが、一方で、ブレーキをかけてもすぐには止まれない、急な坂はスリップして登れない、などといった、なんともしがたい欠点をも背負い込む結果を招いてしまっている。

 フグは喰らわば旨いが、運が悪ければたる、といった趣であるけれども、このため鉄道の勾配は、一〇〇〇メートル進んで二五メートル登る二五パーミル以内とするのが、従前の流儀であった。これ以上の急坂ともなれば、あの手この手の特別な策を講じて、列車の運転を執り行わなければならなかった。まあ、蒸気機関車がけん引する列車の場合は、二五パーミルでもかなりしんどい坂であったことは確かだが。

 しかし、近年は、蒸気から電気・ディーゼルへと動力近代化が果たされ、以前ほどに勾配が鉄道の弱点とは言えなくなってきた。トンネル掘削技術の進歩から、峻険な地勢でも急勾配を設けず線路を敷設することも容易となった。今、「鉄道」がクルマに最も劣る点としてあげられてしかりなのは、〝ドア・ツー・ドア〟ではないことだと思う。

 前置きから、がらりと話が豹変してしまい、恐縮するのだが、この〝「ドア・ツー・ドア」でないこと〟はなにも、鉄道に限った話ではなく、運行系統と運行ダイヤが運転の万事を司る路線バスなどにも共通する欠点である。が、レールを二本並べた「線路」(軌道)から外れたところで車両を走らせることのできない、すなわち「線路の縛り」のある「鉄道」では、この〝欠点〟が路線バス他の乗り物に比べると、誠に際だったものとして見えてくる。

 路線バスの場合、昔の有力政治家ならば、運行ルートを変えさせ、自宅の門の前にバス停を設けさせることぐらい朝飯前だったろう。政治家の圧力とは無関係な話であるけれど、北海道では、「山崎宅前」とか「鈴木牧場前」とかいった名称のバス停も多い。

 対する鉄道は、どんな有力政治家であっても自宅の門の前に線路を敷かせたなどという話は聞いたことがない。せいぜい、自分の選挙区の町の駅に特急や急行を停車させた、町に新幹線の駅を造らせた、といった程度止まりである。

 話はのっけから、いささか脱線ぎみだが、線路という絶対的な縛りが存在する以上、鉄道に〝ドア・ツー・ドア〟を期待することは難しい。難しいというよりも不可能であろう。よって、未来えいごう、このことが鉄道最大の欠点として君臨するに違いない。

 ただ、「線路の縛り」を少しでも緩和しようとする努力は、鉄道としても行っている。JR北海道は鉄道線路と一般道路の両方を走ることが可能な車両を開発中で、実際にデモンストレーション運行なども行っているけれど、残念ながら、営業運転は二、三年先らしい。まさにコウモリ的存在だから、規制する法整備にも骨が折れそうである。

二 鉄道における「乗り換え・乗り継ぎ」の形態

パターンはさまざま

〝ドア・ツー・ドア〟ではない「鉄道」を利用し、自宅なり会社なりからある目的地へ移動しようとするとき、宿命的に、どうしても「乗り換え・乗り継ぎ」という行為が行程途中に介在してくる。仮に、その目的地が、鉄道路線一本だけで行けるところであっても、自宅・会社が鉄道の駅より離れた場所に位置していたならば、バスなり自転車・バイクなりを駆使して駅まで行き、電車に乗り移らなければならない。これも「乗り換え・乗り継ぎ」行為の一種、「鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ」である。

 首都圏のようにクルマでの移動に制約が多い大都市部では、アパートやマンションを探す際、〝鉄道の駅から徒歩数分以内〟を条件の筆頭にあげる人は多い。通勤や通学において、乗り換えを極力少なくしたいとするのは人情である。まず、「鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ」がやり玉とされるわけだ。今はどちらかといえば不況期で、就職口自体が少ないから、とてもそんなことはほざいておられないけれども、バブル期ぐらいまでは、就職先やアルバイト先を探すときの条件としても、〝駅から徒歩数分以内〟は、賃金の高さと並んで最重点項目であった。そして、これに、鉄道路線一本で通えるか否かが続いた。

 さて、運良く駅から徒歩数分の場所に居を構えたとしても、勤め先は鉄道路線を二本乗り継いで行かなければならないところしか見つからなかったとする。「鉄道路線相互の乗り継ぎ」が生じるわけである。これは精神的・肉体的苦痛が増長されるとともに(少しオーバーかもしれないが)、時間的なロスも実に大きい。

 例えば、同じ二駅間を通うにしても、一本の鉄道路線上の二駅間と、二本の鉄道路線を乗り継ぐ二駅間とでは、まさに月とすっぽんである。山手やまのて線の寿に勤め先があるケースで考えてみよう。同じ山手線の二つ隣の駅、たんから通うのならば、五反田~恵比寿間の所要時間約五分に朝の電車の最大待ち時間三分を加えて八分、まあ、多く見積もっても鉄道での移動時間は一〇分みておけば、まず、遅刻することはないだろう。

 ところが、である。恵比寿の隣、目黒で東急(東京急行電鉄)の目黒線から乗り継ぐとしたら話はだいぶ変わってくる。目黒線における目黒の隣駅は不動前、ここから恵比寿まで通うとしてみよう。この駅での朝の最大待ち時間はおおよそ五分、不動前~目黒間の所要時間は約二分となる。目黒駅では、地下にある目黒線ホームから地上の山手線ホームまで、測ったことがないので確かなことは言えないものの、過去の記憶から、だいたい三分ぐらいと推測される。山手線の最大待ち時間は三分で、目黒から恵比寿までの所要時間は約二分、都合一五分はみておかなければならない。安全を考えるならば、二〇分ぐらいはほしいところだ。五反田から通うのと比べ、倍ぐらい時間を要するわけである。

 目黒は、首都圏の乗り換え駅としては、まだシンプルなほうである。新宿駅での私鉄とJRの乗り換えなど、考えただけでもゾッとする。ささづかから京王線に乗って次の新宿で山手線に乗り換え、隣の新大久保またはへ通う場合など、三〇分ぐらい余裕をみておいたほうがよさそうだ。

 この「鉄道路線相互の乗り継ぎ」は、一概にはいえないけれど、同一鉄道会社の二路線を乗り継ぐよりも、別の鉄道会社の路線を乗り継ぐほうが、時間を要する傾向にある。ホームの位置や改札口を通る回数などが、乗り換え時間に大きく影響してくるからであろう。

 以上の例からも会社選びは鉄道路線一本で通えるところ、となるわけだが、幸運にもその願いがかなったとしても、乗り換え・乗り継ぎが完全になくなるとは限らない。〝鉄道路線一本〟のなかで、複数の列車間の乗り継ぎが発生する場合もなきにしもあらずだからだ。

 こういうケースを考えてみよう。自宅、勤務地ともにりの駅が急行、快速などの速達列車(急行系列車)の停まらない駅であって、さらに自宅側の駅と勤め先側の駅の間の距離がけっこう離れているとする。むろん、急ぐのならば、各停・普通列車(各駅停車系列車)から急行・快速列車、急行・快速列車から各停・普通列車といった乗り換え・乗り継ぎが行程上に生じてくる。

 今、東武鉄道さき線のひめみやという駅から、地下鉄日比谷線の霞ケ関まで通う人がいるとする。勤務地が勤務地だけに官僚かな、と想像したくもなるが、そんなことを想像しても仕方がないので話を先に進めれば、東武伊勢崎線と地下鉄日比谷線は普通(各駅停車)列車に限って相互直通運転を行っているので、姫宮から霞ケ関まで一本で行こうと思えば行ける。

 仕事が朝九時に始まるのであれば、姫宮715分発の普通・中目黒ゆきに乗ると霞ケ関着は842分。出社にはちょうどよい時間だ。しかし、姫宮726分発の準急・中央林間ゆきに乗っても霞ケ関に842分に着くことが時刻表上、可能なのである。

 子細はこうである。この準急は、途中のせんげん台で区間急行・北千住ゆきに抜かされる。すなわち、そこで区間急行に乗り継ぎ北千住着は808分。かの霞ケ関着842分の電車は北千住812分発だから、区間急行が着く一階ホームから三階の日比谷線ホームに上がるという行為があって、さらに、その日比谷線自体が大混雑しているという問題はあるにしても、四分あればなんとか乗り換えることは可能だろう。仮に812分発に乗れなくとも、814分に北千住始発の日比谷線電車があるので、遅刻はまずしないと思う。

 朝の一〇分は実に貴重である。一本で行けるところを二回乗り換えても、姫宮726分に乗る人は多いに違いない。ただ、このような「同一路線上での列車相互の乗り継ぎ」も、できることならば避けたいところである。

 結果、自宅の最寄り駅は急行・快速停車駅で、勤務先最寄り駅もしかり、が好まれる。アパートなどの賃貸料が、急行・快速停車駅周辺の物件と各停・普通のみしか停まらない駅周辺の物件とでは、大いに差があるのも致し方ない話といえよう。

三 鉄道創業期の乗り継ぎ相手は?

元祖は〝人力車と汽車〟の乗り継ぎ

 ここからは、鉄道史の話が中心となるので、興味のない方は飛ばして、第二章からお読みいただいても大いに結構。

 先の例からもわかる通り、鉄道にかかわる「乗り換え・乗り継ぎ」は次の三形態が主体と考えられる。

鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ

鉄道路線相互の乗り継ぎ

同一路線上での列車相互の乗り継ぎ

 このなかで、の「鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ」は、明治最初期の鉄道創業の日以来のものにほかならない。では、当時の〝他の交通機関〟とは、はたしていったいなんだったのだろうか。

 我が国で最初に鉄道が営業を始めたのは、明治五(一八七二)年五月七日(太陰暦、太陽暦では六月一二日)とされている。はて、本邦初の鉄道の開業は、現在の「鉄道の日」が一〇月一四日であるように、明治五年九月一二日、太陽暦に直すと一〇月一四日ではなかったか、といぶかしく感じられる御仁も多いやに思われる。このギャップは以下のような事情により生じている。

 明治三年にイギリス人技師エドモンド・モレルらが、東京は芝口しおどめ付近で測量を開始したことに端を発する「新橋・横浜間鉄道」の建設は、外国より輸入のレールや枕木などの資材を横浜港に陸揚げした関係から、横浜側より線路の敷設が進められていった。従って、そちら側が早く完成するのはものの道理、横浜(現在のさくらちよう)から品川まで完工した段階で仮開業のはこびとなったのである。その日が要するに、明治五年五月七日という次第。

 そして九月一二日は、新橋・横浜間が全通した正式の開業日である(新橋は後の汐留貨物駅)。ただし、この日は、新橋において明治天皇をはじめ太政大臣のさんじようさねとみ、参議の西郷隆盛など新政府要人そうそうたる面々臨席のもと開業式典が盛大に執り行われた後、午前一〇時、天皇ご乗車の祝賀列車(お召列車)が新橋を発車、横浜まで一往復したほかは、式典参列者送迎のための臨時列車一往復、式場警護の任に当たった近衛兵八〇〇人を輸送する臨時列車三往復が運転されたのみで、全通した鉄道が一般の乗客を乗せるのは翌一三日のことであった(当初、開業式は九日を予定していたが、雨のために一二日に延期になったという)。

 とにもかくにも、五月七日、品川・横浜間で二往復の旅客列車が運転をはじめている(同月九日には六往復に増強、八月一一日にはさらに八往復に増発されている)。旅客列車が運転を開始したのだから、当然ながら、旅客が乗り降りする駅も営業を開始したわけである。

 まず五月七日の段階で、両端に位置する品川ステーションと横浜ステーションが開業、六月五日には途中の川崎、神奈川の両ステーションも旅客営業をはじめた。ここで「品川駅」「横浜駅」ではなく「品川ステーション」「横浜ステーション」と記したのには、それなりの訳がある。

 当時は、馬の乗り継ぎ場所を起源とする「宿駅」が各街道に存在し、「駅」はそれを指す言葉として用いられていたのである。従って、鉄道の停車場は、発祥の地イギリスの言語に近い「ステーション」「ステイション」「ステン所」などと呼ばれた次第。

 閑話休題、話を本邦初の鉄道の開業に戻せば、当然、仮開業のその日から品川ステーションなり横浜ステーションなりへ人力車やで乗りつけ、鉄道の列車に乗り移った人は多かったろう。なかには馬で駆けつけた人もいたかもしれない。

 これこそまさしく、「鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ」のことはじめである。

 確かな記録は見たことがないが、鉄道開業時のステーションや沿線の様子を描いた錦絵、例えば三代広重の『東京品川海辺蒸気車鉄道之真景』などを眼にすれば、見物人を乗せた人力車が何台も描かれている。汽車を見ようという庶民ですら人力車をチャーターするわけだから、仮開業時の鉄道に実際に乗ろうとする、それなりの身分の人が、人力車を使わず、歩いてステーションまで行ったとは、到底考えられないのである。

 時代は下って明治中期、お上が敷設した官設鉄道(官鉄)の新橋・神戸間が全通を果たすのは、明治二二(一八八九)年七月一日のことであった(「官設鉄道」とはすなわち国有鉄道であり、日本鉄道、山陽鉄道など幹線系主要私鉄一七社が、明治三九(一九〇六)年三月公布の「鉄道国有法」により国に買収されるまでの時期は、こう呼ぶのが一般的)。

 最後まで未完で残っていたのは東岸沿いの長浜・馬場(現・)間で、この間は全通以前、人力車ならぬ琵琶湖上を行く航路により連絡していたという(明治一五年五月一日から七年余り。西側は大津停車場〔浜大津〕で連絡した。なお、明治一五年の段階では、東側の東海道方面の鉄道は開通しておらず、仮開業中の長浜・つる間鉄道とのみの連絡であった)。

 航路の運営は鉄道直営ではなく、工部省鉄道局(当時の官設鉄道の建設・運営を司る役所)から連絡運輸(連帯運輸)を許可されたたい汽船という民間の船会社が行っていた。琵琶湖を挟む東西鉄道を船で連絡するという話が出た当初、複数の水運業者間でれつな利権争奪戦が繰り広げられたため、滋賀県当局が説得に乗り出し、各船主合同で設立された会社である。

 むろん、この琵琶湖航路が鉄道連絡航路の草分けとなる。「鉄道と他の交通機関との乗り継ぎ」における〝他の交通機関〟に船舶が登場するのは、鉄道開業後、間もない段階だったというわけ。

第一章 「乗り換え・乗り継ぎ」ことはじめ(2)

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