聖の青春のページ一覧

祐司は何度も何度も後ろを振りかえりながら緑深い山道を登っていった。10人の子供たちは、元気に自分の後ろを歩いている。どうしても気になるのは、いちばん後ろからちょこちょことついてくる、もうすぐ4歳になる弟の存在だった。広島市に囲まれた安芸郡府中…
昭和44年6月15日午後1時15分、広島大学付属病院で村山聖は誕生した。父伸一、母トミコにとって長男祐司、長女緑につづく3人目の子供だった。臨月の診断でトミコはレントゲン写真を医者から見せられた。そこには胎児の大きな頭が骨盤につかえるようすが…
昭和50年8月5日、6歳になった聖は広島市民病院に再入院することになる。腎ネフローゼの再発であった。このころから聖は夢中で本を読みはじめる。トミコは毎日のように児童文学書を買い求めては病院に届けた。図書館からも借りた。しかし、あっという間に図…
昭和52年3月、聖は小学2年生を目前にしていた。病状は一進一退をつづけていた。ちょっと元気になっては、はしゃいでまた熱を出す。くるくると同じ輪の中を走りつづけるはつか鼠のように、聖の病状もいつも同じところでつまずき結局は堂々巡りを繰りかえして…
初心者向けの将棋の単行本を何冊も読破した聖は、小学2年の秋ごろに「将棋世界」という専門の月刊誌と出会う。それはトミコが聖の将棋の本を選ぶためにいつものように古本屋を徘徊しているときに偶然に見つけたものだった。そこには聖にとって知りたい情報、歯…
篠崎瑞夫はプロ棋士を目指し大阪の奨励会に在籍した経験がある。体力的な問題で広島に帰り、地元の新聞に観戦記を書いたり将棋教室を開いたりしながら将棋の普及につとめていた。月に3回の外出日は必ず教室で将棋の稽古をして、それから実家に戻るというのが決…
昭和57年、桜の咲く季節に聖は府中町立府中中学校に進学した。その7月に中学生名人戦に参加するために父に連れられて2度目の上京をする。我孫子市にある伸一の大学時代の友人の家に一晩世話になり、翌日千駄ケ谷の将棋連盟に向かった。しかし、全国の壁はや…
広島に帰り府中中学に通う聖の心に一つの漠然とした思いが募り、それは日をおうごとに大きくなっていった。「プロになりたい」口には出せないが、聖の気持ちは日ごとに大きく傾いていく。体調は悪くなかった。むやみに自分の体を動かしたり、無理をして疲れを溜…
自分が親友から頼まれて、弟子にしたはずの子供がなぜか、森門下で奨励会試験を受けている。それは灘には到底承服しかねることであった。森は困り果てた。篠崎や灘の怒りはもっともである。しかし、自分は何の事情も知らなかった。それに、それはすべて大人の世…
村山聖が広島の病院のベッドの上で傷心の日々を送っているころ、森信雄も大阪のアパートで眠れない夜をすごしていた。昭和57年の冬のことである。村山聖、13歳。森信雄、30歳。二人は師弟であり、そして師弟関係を結んだために、結果的に村山の奨励会入会…
そんな森に思わぬ幸運が訪れた。ある日、奨励会に出席したときに塾生の椅子が空くことを知らされたのである。森はその仕事に飛びついた。塾生とは、関西本部に半分住み込みのような状態で、対局する棋士たちの世話をする仕事である。お茶を汲んだり昼と夜の食事…
昭和58年4月、村山は大阪の住友病院に入院した。そして8月に退院。森のアパートでの生活がいよいよスタートすることになった。はじめて森の部屋にきた日、村山はさっそく盤駒を取り出して棋譜を並べはじめた。バチン、バチンと盤に駒を叩きつけるように並べ…
梅雨が終わり、夏がはじまろうとしていたある夜中、隣の3畳間から突然うなり声が聞こえてきた。森は飛び起きて襖をあけた。村山が汗だくになってうんうんうなり声を上げている。額に手を当ててみると、びっくりするくらいに熱かった。慌てて氷で冷やした。そし…
昭和58年秋、村山は森に連れられて東京の将棋会館へいった。待望の奨励会試験の日がやってきたのだ。二人は将棋連盟の近くにある、連れ込み旅館に泊まった。森も東京には不慣れで、とりあえず近くならばどこでもよかったのである。村山は5級で受け、5勝1敗…
結局、奨励会を2ヵ月休んで、村山は復帰する。朝、森が病院へ迎えにいきタクシーで連盟へ連れてきて対局をさせる。奨励会が終わると誰にも気づかれないようにタクシーで病院にUターンする。もちろんそのことは、あらゆる関係者に秘密にしていた。そんな状態で…
昭和59年4月、森との約1年間に及ぶ共同生活を終え村山は広島へ帰った。新しい学校は府中中学、養護学級の2年生であった。1年ぶりに故郷の実家に帰った村山の新しい生活がはじまった。小鳥を飼いたいと言い出しトミコは十姉妹を買ってやった。村山はその十…
このころの村山の最大の悩みは、奨励会の前日の夜はもちろん、例会が近づくにつれ眠れなくなること。そして、奨励会当日、必ず襲ってくる烈しい下痢による腹痛と嘔吐。しかしそれは村山に限ったことではなく、奨励会在籍経験者ならば必ず一度は通り抜けなければ…
昭和61年1月、村山は12勝4敗の成績をあげ二段に昇段した。昇段の一局は谷川勝敏初段、村山はその自戦記を関西新聞に書いている。それはこういう書き出しではじまる。〈きょう7日は新年最初の奨励会である。2局とも勝てば昇段する。しかし1局負けても次…
昭和61年7月10日。17歳になったばかりの村山は体調不良による休会を乗りこえ、12勝4敗の成績で三段に昇段した。まるであらかじめ敷かれたレールの上を快走していくような躍進ぶりであった。三段昇段の一番は杉本昌隆初段。奨励会入会試験でも対戦し、…
彗星のごとく現れた大阪の大型新人のことは、あっという間に東京の将棋雑誌編集部にも伝えられた。子供のころから抱える病気と闘いながら奨励会を驚異的なスピードで駆け抜けたこと、羽生や森内といった秀才タイプとは違い個性派であること、プロとしてデビュー…
伊達六段を下してデビュー戦を飾った村山は、つづく第2戦で当時A級だった小林健二八段を破り、大器の片鱗を見せつけた。四段昇段の1ヵ月後、村山は谷川浩司との対局の機会に恵まれる。当時「将棋世界」において「A級VS.新鋭四段角落戦」という企画が連載…
昭和62年、村山はC級2組順位戦に参加することになった。順位戦は名人を頂点とするリーグ戦で、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5クラスから成り、毎年A級の優勝者が名人挑戦者となる。村山が初参加したときのC級2組は53人の大所帯で、…
平成元年1月24日の深夜、午前0時を回り日付はもう25日へと変わっていた。朝10時からはじまった対局は14時間を超えようとしている。対局室となった関西会館5階の大部屋はほかの対局も終わり、がらーんと静まりかえっている。その対局室に記録係の声が…
森は際限のない放埒な生活に訣別しようと考えていた。森の人間に対する公平な目線や自由への貧欲な渇望のようなものが、村山の人生観に大きな影響を与えたとすれば、森は森で村山の将棋に対する純粋さ、そして何よりも生きることへのけなげさなどに強く影響を受…
平成元年の冬、将棋界を揺るがす大事件が起こった。将棋界の最高棋戦、竜王戦で羽生善治が島朗竜王を下し、わずか19歳で将棋界の頂点に立ったのである。東京グランドホテルの対局室、ぐるりと取り囲んだ報道陣が間断なく浴びせるフラッシュの光の中で「地位の…
平成4年1月、村山は再び北海道への一人旅を敢行した。雪を見てみたかったのである。今度は飛行機を使い千歳から入った。対局が詰まっていて長い時間がとれなかったのである。結局村山は豪雪と寒さのために札幌のホテルにこもるしかなくなる。滞在期間中は気ま…
午前2時。梅田の街は静まることを忘れたように、原色のネオンに囲まれていた。それは、まるで繁華街の太陽のようだなと加藤は思った。店の前に出て、代表して支払いをすませた人にお金を払うのが三人のルールだった。「いくらですか」と加藤は本間に聞いた。そ…
その年の暮れ、村山は王将リーグを勝ち進む。12月9日には当時すでに3冠を保持していた羽生を153手の熱戦の末下し、つづけて12月15日には森内を破った。その結果、王将戦は米長邦雄、羽生善治、そして村山の三者のプレーオフによって挑戦権が争われる…
平成5年、B級1組昇級を果たした村山は、王将戦挑戦の実績を高く評価されて第20回将棋大賞敢闘賞受賞の栄誉に浴した。名実ともに一流棋士の仲間入りである。しかし、村山の生活の基本スタイルには何の変化もなかった。増える収入、高まる名声、そんなことは…
平成5年6月6日、村山は早朝にトミコに電話を入れた。体調がすぐれないので、大阪にきてくれというのである。トミコは慌てて身支度を整え、上阪する。そして、住友病院へ連れていく。2日後には、もう大丈夫だから帰ってくれと言い出す。6月18日にまた電話…
それから少ししたある日、森と村山を交えた数人で東京で飲む機会があった。その席で突然、森が村山に烈火のように怒り出した。「あかん。絶対にあかん」と森は顔を真っ赤にして怒っている。「なぜですか、みんなやっているのに。なぜ僕はいけないんですか」と食…
平成6年4月、村山は24歳の春を迎えていた。B級1組の若手スター棋士であり、そのユニークな風貌と言動は多くのファンの心をつかんでいた。住みかは相変わらず、前田アパートの4畳半の部屋。世間の村山を見る目がどんどん変わっていっても、村山の生活は何…
1月20日、入院からわずか2日後、村山は医者の制止を振り切って病院を抜け出し対局室に向かった。それが自分の生命に危険をもたらす可能性があることは百も承知だった。小林健二八段(現九段)との順位戦である。村山の思いは車を駆り対局場に向かった谷川と…
今は午前3時、僕は考えている。何故A級八段になれたのだろう。体も弱いし将棋も余り強くない僕が、何故? 神様のすることは僕には予測出来ない事だらけだ。願う事は、これから僕の思い描いた絵の通りに現実が進んでいく事だ。これからが本当の勝負、そう思っ…
4月8日、名人戦イベントのため広島に帰った村山は久しぶりに兄祐司と会った。兄弟は二人きりでゆっくりと話し合う機会に恵まれた。「いつも、聖にはすまんことをしたと思っておるんじゃ」と祐司は言った。「わしがまだ小さな聖を山へ川へ引きずり回したもんじ…
先崎学は不思議に村山と気が合った。生まれも育ちも生きてきた環境も違うが、考えかたや言うことにお互いにフィットするものを感じていた。ある日、その二人と先崎の友達数人で酒を飲んだ。先崎も村山も常に直言をはばからない。それは若さの特権でもあるし、あ…
将棋界は再度大ブームの渦中にあった。6冠を保持した羽生が再び、王将戦挑戦権を握り、7冠獲りに挑んだのである。保持している6冠のタイトルをすべて防衛して、挑戦権をもつかむという神がかり的な勝ちっぷりであった。スポーツ新聞は1面ででかでかとその経…
平成8年の10月から11月、中原、藤井猛、大内、森内、佐藤康光、有吉道夫、森雞二、谷川と下して村山は8連勝を達成した。日本シリーズは決勝まで勝ち進み、王将リーグは独走態勢を築き上げ羽生7冠への挑戦権をほぼ手中にしていた。特に谷川を下した王将戦…
2月28日、村山は上京し羽生と竜王戦を戦う。無敵を誇る羽生に村山は敢然と戦いを挑んでいく。棋界最高棋戦の竜王戦においても、村山は毎年のように昇級をつづけ、いつの間にか1組という最高クラスにまで昇りつめていた。第7図。羽生はこの局面を自分に利が…
6月16日、村山28歳の誕生日の翌日に手術は行われた。午前8時15分に手術室に入り、それは8時間半にも及ぶ大手術となった。膀胱にできた腫瘍を摘出するためには、結局は膀胱そのものを完全に摘出する以外に方法はなかった。翌日、早朝にトミコは集中治療…
入院先の広島大学病院に帰った村山は医者と癌再発防止の話し合いをした。抗癌剤と放射線治療がその主な方法である。村山の決断は明快だった。「抗癌剤にしろ放射線にしろ、根本的でなく延命的な治療は自分には必要がない」と言うのである。そして「頭と将棋に悪…
4月20日には広島に帰った。4月25日、この日は広島市内で谷川浩司名人と佐藤康光挑戦者の問で争われる第56期名人戦の解説会のイベントがあった。体調が悪く家で寝ていた村山が夕方突然、伸一に話しかけてきた。「あれっ、父さん。今日何日だったっけ」「…
6月15日。村山は29歳の誕生日を迎えた。そしてその日に主治医から癌の肝臓への転移を知らされる。「肝臓に転移しているそうじゃ。自分の体のことは自分で全部医者に聞くから、これからは父さんも知りたければ知りたいことを自由に医者に聞けばいい」と村山…
8月6日、「昼間2、3時間でもいいからきてくれる家政婦さんを頼んでくれないか」と村山が伸一に依頼。伸一はいろいろと調べてみたが、そういう適当なシステムはみつからなかった。それを伝えると村山は「そうか」と考えこんでしまった。「姉さんにきてもらお…
森が広島についたときには村山はすでに葬儀場に運ばれていた。村山の遺体の前で森は泣き崩れた。こらえてもこらえても嗚咽が体を揺すりつけどうすることもできない。何度も顔にかけられた白い布を取ろうとするのだが体が震えてそれもできない。「村山君……」「…
村山伸一私と大崎さんとの出会いは、聖が亡くなった3ヵ月後の暖冬の12月でした。「将棋世界」(将棋連盟発行の専門誌)に聖に関することを記事にする為、田名後さんと拙宅にお見えになられました。そのとき同席したのは聖の母と、兄、姉の4人でした。幼い頃…
著者:大崎善生1957年、北海道札幌市生まれ。'82年、日本将棋連盟に入り、'91年から10年間にわたって「将棋世界」編集長を務める。2000年、『聖の青春』(講談社文庫)で第13回新潮学芸賞、将棋ペンクラブ大賞を受賞。'01年2月、退職して…
聖の青春二〇一三年四月一日発行大崎善生©Yoshio Oosaki 2013発行者 鈴木 哲発行所 株式会社講談社東京都文京区音羽二‐一二‐二一〒112-8001◎本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためにのみ、ファイルの閲覧が許諾されてい…

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